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ウイスキーとミステリーの世界

『臨場』

(2004 日本) ; 作/横山秀夫; 出版/光文社

臨場

(ストーリー)
中央銀座通りの一角の雑居ビル、その階上にスナック「猫」はある。美鈴ママが一人で切り回すその小さい店は、L県警中央署刑事一課の溜まり場になっていた。人には言えないことだが、ママに「男にしてもらった」刑事も多い。佐倉鎮夫もその一人だった。その日佐倉の姿は「猫」にあった。事件が片付いたための気散じであったが、その事件で世話になった科学捜査研究所の北沢という若い技官を接待するつもりもあった。ある教諭殺しの一件で、北沢に依頼したDNA鑑定が犯人逮捕の決め手となったからだ。だが、「猫」に現れた北沢は意外なことを言い出した。鑑識の倉石検視官が、北沢にDNA鑑定の再検討を求めてきたというのだ。倉石は「終身検視官」「クライシス・クライシ」などの異名を持つこの道十年のベテランだ。その倉石が動いたということは、何かがあるということだ。佐倉は倉石の姿を求め、夜の街に駆け出した(「真夜中の調書」)。名匠の警察ミステリー集。


新宿ゴールデン街を夕方に歩くと、店頭のケースに大きな氷が置いてあるのをよく見かける。近所の氷屋さんが配達に来たのだろう。昔、ゴールデン街には冷蔵庫さえない店がよくあった。大きな氷1つで冷やすべきものは冷やし、水割りを作るのである。だから明け方に入った店で氷が切れていて、仕方なく生温い水割りを飲んだこともよくあった。珍しくそうめんが出来るというから頼んだら、ママが酒の無くなった私のグラスからひょいと氷を持っていって、麺を冷やすために再活用した、なんてこともあったなあ。店頭に置いてある氷を見ると、そういった思い出がふっと甦る。

――「間抜けな男だね。西に逃げればよかったのに」
美鈴は悪しざまに言って、ガツッ、ガツッ、と氷にアイスピックを突き立てた。

とにかく店でウイスキーを飲むのと家で飲むのでは何が違うかといえば、氷である。冷凍庫で作った角氷と、店の透き通った氷とではまったく気分が違う。見かけもそうなのだが、大きな氷がごろんと転がったグラスは、ずっと掌に載せていても温まらないのがいいと思う。水割りの氷は幾分か溶けることを計算して入れているはずで、一杯飲み終えると氷が一回り小さくなっている。そんなときグラスの周囲にはしっとりと露がおりているが、まるで氷ががんばってグラスを冷やしながらかいた汗のようで微笑ましい。スコッチ・ウイスキーは氷を入れず、ウイスキーと同量のよく冷えた水で割って飲むのが正しいらしいが、氷が無いということにはどうしても寂しさを感じてしまう。スコットランドの酒場にはまだ行ったことがないが、もし行ったら水割りに氷をお願いしてしまいそうだ。きっと笑われるだろうけど、あの氷を鑑賞するのもウイスキーの楽しみの一つなのだから仕方がない。

オン・ザ・ロックのときはもちろんランプ・オブ・アイス、オールド・ファッションド・グラスの中に大きな氷が1つきっちりと転がった状態が望ましい。バーテンダーがあれを丸く削る芸はまさしく職人技だ。それが見たくて、わざとロックの後に他の酒を頼み、もう一度ロックに戻してバーテンダーに氷を削らせたこともある。厄介な客だと思ったろうが、それをつまみ代わりにして飲んでいたのだから、これも仕方がないのである。向こうもプロで、笑みを浮かべながらアイス・ピックを握っていた。

横山秀夫の短篇「真夜中の調書」には、警察官たちの溜まり場になっているスナックが出てくる。なにも警察官に限らずとも、こうした店は各所にあるものである。常連客の好みを反映して、特化した店である。それを好む客がいるので、珍しい煙草が置いてある。トイレにゴルフコンペの写真が貼ってある。知った顔ばかりが集まるので、非常に居心地がいい。こうした店では食べ物のお品書きはなく、何ができるのか、客たちは頭で暗記しているのである。転勤してまた戻ってきたりすると、その頭の中のメニューが消去されてしまっていて、しばらくの間困ることになる。もっとも、乾きもの以外にはたいしてレパートリーはないので、無理に記憶する必要もないのだが。

――「まったく、営業妨害で訴えてやりたいよ。けどまあ、佐倉チャンが一週間で自白させてくれたんで助かった。ホント、一時はどうなるかと思ったもん。ご苦労様。はい、これあたしの奢り」
コロッと陽性に転じた語尾とともに水割りのグラスが差し出された。
佐倉が礼を言ってグラスを口元に運ぶと、美鈴は豆菓子とえびせんを皿に散らしながら溜め息をついた。

こうした店でボトルをキープすると、たまに氷をアイスペールで出されることがある。客の前にペールを置き、それで水割りを作って出してくるのだ。確かに仲間意識でくだけた感じなのはいいけれど、あれは困るなあ。なにしろ氷も水割りの重要な要素なのだ。面倒でもいちいち冷凍庫の氷を使ってもらいたい。どんなになじみになっても決してそこのところを怠らない店に出会うと、嬉しくなってどんどん通ってしまうのである。氷は冷たいけど、心は暖かい店なのだ。


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