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ウイスキーとミステリーの世界

『人形は眠れない』

(1991 日本) ; 作/我孫子武丸; 出版/講談社文庫

人形は眠れない

(ストーリー)
腹話術師の朝永嘉夫には秘密がある。彼の操る人形・鞠小路鞠夫はしゃべるのだ。腹話術なのだから人形が話すのは当たり前だが、鞠夫は嘉夫の意思と無関係に話す。つまり独立した人格を持っているのである。嘉夫の恋人、通称「おむつ」こと妹尾睦月はその秘密を知っている。鞠夫が、嘉夫の分裂した第二の人格の顕れであるということを。そして鞠夫が、事件の謎を解決する名探偵の能力を宿していることを。
保育園勤務の睦月は、同僚の披露宴二次会のパーティーに招かれたことがきっかけで、関口という青年と知り合った。関口は睦月に積極的な誘いをかけてくるが、嘉夫との関係がある睦月は好意を受け入れられない。しかも睦月の住む町内には連続放火魔がうろついており、嘉夫と鞠夫と共にその犯人捜しもしなければならないのだ。悩む睦月の脳裏に、ある考えが閃いた――。人形が探偵役を務める異色本格シリーズ第三作。


お酒にはいろいろな飲み方がある。自棄酒、祝い酒、時間つぶしの酒、口説き酒。あまり日常的ではない酒が、悼み酒である。誰かの死を悼みつつ飲む酒だ。

『人形は眠らない』は、我孫子武丸の鞠小路鞠夫シリーズの第三作にあたる作品で、初の長篇でもある。(前二作は短編集だったのだ。)その中で、鞠夫誕生秘話が語られている。それは鞠夫の主である朝永嘉夫が大学生を卒業したばかりのころに遡る話である。

暑い夏の最中、突如の悲報が嘉夫を襲った。親友である波多野征司の恋人、美濃部香里が亡くなったのだ。浴室での転倒が原因の事故死だという。嘉夫は波多野の部屋を訪れ、ともにウイスキーを飲む。追悼の酒だったが、意気消沈しているであろう友を励ますため酒でもあった。冷え切った心に、酒精の温もりを。

「……今夜は一人であいつの通夜をやろうと思ってたんだが、お前もつきあってくれるか」

「もちろん。そのつもりで来たんじゃないか」(中略)

さっきは口にできなかった言葉を今なら言うことができる。嘉夫は自分のグラスにもウイスキーを注ぎ、目の高さに持ち上げた。

「美濃部さんのために」

「……美濃部のために」

波多野はグラスを持ち上げて応え、すぐに嘉夫から顔をそむけて体を震わせた。嘉夫は気づかないふりをして窓辺に立ち、カーテンを開けて外を覗いた。

追悼の酒には醸造酒ではなく、ウイスキーのようなスピリッツが向いている。死者のSpiritを慰めるため? それもあるが、もう一つ理由がある。

大学時代、Sという友人を亡くした。驟雨のように突然の死で、周囲の誰もが死の事実を受け入れることができなかった。告別式は遠い町で行われ、往復して帰ってくるともう日が暮れていた。そのまま帰ることもできず、級友と連れ立って近くのバーに入った。渋谷の繁華街にある、雑居ビルの地下のバーだ。われわれは人数分に一つ加えた数のグラスをもらった。余分の一つは亡くなった友人のためのものだ。砕いた氷の上からバーボンを注ぎ、しめやかにそれを飲んだ。話題はもちろん限られている。友人に関する追憶の数々と、残されたご家族の思いについて。おいSよ、おまえだって残念だったろう。家族を置いて先に行ってしまうなんて。

そう語りかけたとき、グラスが、

りん

と鳴ったのである。まるで、なにかの魂がグラスに宿り、返事をしたかのように。

「Sがいる」

誰かがそう呟いた。

「おいS、疲れたろう。今日はゆっくりしていけ」

少し嬉しそうな声がそれに続いた。

――もちろんそれは心霊現象などではない。ウイスキーと室温によって少しずつ溶解した氷が崩れ、タイミングよく音を発しただけだ。ウイスキーはウイスキー。しかしその偶然が悼み酒にはふさわしいように思われた。死者に捧げられた酒がウイスキーでなかったら、そういう出来事は起こらなかっただろう。

悼み酒にウイスキーをお勧めするゆえんである。


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