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ウイスキーとミステリーの世界

『疫病神』

(1997 日本) ; 作/黒川博行; 出版/新潮文庫

疫病神

(ストーリー)
建設コンサルタントの二宮啓之は、勝てない博打だけが趣味の冴えない男だ。さまざまな建設現場の揉め事を処理する仕事をしているだけに荒事とも縁が深く、二蝶会に籍を置く桑原保彦に《ケツ持ち》を頼むこともある。しかし困ったことに、この桑原と二宮が顔を合わせると余計に事態がややこしくなることが多いのである。二宮は桑原を、桑原は二宮を、自分にとっての疫病神であると密かに思っている。
 今回の依頼は、産業廃棄物処理場建設にからむものだった。なにかと難癖をつけてくる地元の組合長の身辺を探れという。つまり、弱みを握ってほしいのだ。高額の謝礼につられて動きだした二宮だったが、たちまちきな臭い空気が漂ってきた。正体不明の相手からの妨害、依頼人の失踪。気づいたときにはすでに遅く、幾重にも利権がからんだ抗争の只中に二宮は足を踏み入れてしまっていた。果たして桑原は援けになるのか? 関西を舞台にした一大犯罪小説。


すべてに共通することだが、バーにも格式がある。下駄履きで通っていいバーがあれば、服装を選ばなければならないバーもある。かのジェイムズ・ボンドは、どんな国の任務に就くにあたっても、タキシードを携えて飛行機に乗った。服装チェックで出入りお断り、なんてことになったら女王陛下のスパイの名が泣くというものだからだ。まさか毎回正装で、というわけにはいかないだろうが、失礼にあたらない程度の身なりは必要。本当はバーにだって外見で客を選ぶ権利くらいあるのである。

『疫病神』の主人公、二宮啓之は揉め事に巻きこまれ、海に飛びこんで逃げるはめになる。運の悪いことにそのあとすぐに約束があり、バーで待ち合わせている相手がいたのである。恰好といえば作業着にゴム長、頭の傷を隠すための帽子。しかもずぶ濡れだ。こんな恰好でバーになど入りたくないが、やむをえず二宮は約束の場所に向かう。

ウェイターが二宮の作業帽を見る。

「なんや、ゴミでもついてるか」と、桑原。

「いえ……」ウェイターはあわてて立ち去った。

しかしこれは見たくもなるというもの。場所は一流ホテルの地下にあるバー。入り口でお断りされても文句をいえない店である。本来なら上着にタイ着用ぐらいが望ましい格式といえる。二宮は生きた心地もせずに飲んでいたのではないか。値段の張る酒を飲みながら、二宮はこんな感慨を漏らしている。

ジャック・ダニエルよりは柔らかいというだけで、微妙な味のちがいは分からない。高い酒には縁がないのだ。

しかしこれは、二宮の舌が縮み上がっていたためというより、普段から愛飲しているジャック・ダニエルがうまい酒だった、ということの要素が大きいように思われる。ジャック・ダニエルはおそらく世界でもっとも有名なアメリカン・ウイスキーで、一八六六年に創設された蒸溜所で作られている。これは現存する中ではアメリカ最古の蒸溜所だ。おもしろいことに蒸溜所のあるテネシー州リンチバーグではいまだに禁酒法が生きていて、住民は一切このウイスキーを飲むことができないのだという。

ジャック・ダニエルはテネシー・ウイスキーであってバーボンではない、とはジャック・ダニエル社の徹底したこだわりだが、たしかに製造法にもケンタッキー・バーボンにはない工程が組み込まれている。サトウカエデの木炭で樽熟成前のウイスキーを濾過するチャコールメロウイングがそれで、ジャック・ダニエルの玄妙な香りはチャコールメロウイングの賜物である。この過程によって原料の穀物に含まれる不純物が取り除かれ、まろやかな香りをかもし出すというわけだ。ジャック・ダニエルはヨーロッパでバーボンの代名詞となるほどに(そういう呼ばれ方をジャック・ダニエル社は嫌うかもしれないが)ポピュラーなウイスキーだが、万人向きでありながら同時に高貴な香りと味わいを備え持つという、非常にありがたく、親しみやすい酒でもあるのだ。

そういうわけで、ジャック・ダニエルの旨さを知っていた二宮は正しい酒飲みである。ただし服装はバツ。バーでウイスキーを飲むときは、きちんと着替えて飲みましょう。


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