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ウイスキーとミステリーの世界

『水の眠り 灰の夢』

(1995 日本) ; 作/桐野夏生; 出版/文藝春秋

水の眠り 灰の夢

(ストーリー)
村野善三はトップ屋だ。トップ屋とは週刊誌のトップ記事をスクープするためのフリー記者。「週刊ダンロン」のトップ屋集団である遠山軍団のナンバー・ツーとして、村野は働いていた。一九六三年九月。折から世間を騒がせていた連続爆弾魔・草加次郎の犯行を追い続けていた村野は、ちょっとした揉め事に巻き込まれた。家を飛び出した甥を連れ戻しに葉山のさる豪邸に出向いたところ、家出した十代の少女を連れ帰ることになってしまったのだ。少女の父と兄は、少女に容赦ない暴力を奮うのだという。やむなく少女を自宅に泊まらせ、村野は友人の家に転がり込む。だが、しばらく経って村野が知らされたのは、その少女・佐藤多喜子の他殺死体が隅田川に浮かんだという事実だった。殺人犯の汚名を着せられ、真の犯人を追うことを決意した村野だったが……。高度成長期を舞台に、男たちが熱く闘っていたころが描かれる。私立探偵・村野ミロの父親を主人公に据えたミステリー。


私は会社員時代、上司と飲みに行くことをしない部下だった。理由は簡単で、みなが仕事を終えた後も私だけは忙しかったからである。すでに会社とは別に文筆の仕事を始めており、夜はそのためにあるものだという思いが強かった。だから行きたくても行けなかったのである。そんな私が言うのも気がひける話なのだが――。

若い会社員が上司と飲みに行くのを嫌う気持ちはよくわかる。単純に楽しくないからだ。なんでも若い者同士の方が楽しいのは当たり前である。思えばバブルの時代が罪作りだったのである。あのころに、会社は自分を養ってくれるもの、という甘えが根強くなった。実際にはそんなことないのである。会社が自分を養ってくれるように見えるのは景気がよくて人手が必要なときだけで、人が要らない時代になればただ要らないのである。自分は自分で養わないといけない。自分が働きやすい環境は、自分自身で作るしかないのだ。自分を一個の個人企業ともって任じなければならない。最近の就職難を体験している若手の社員は、少し上の世代よりそのことに自覚的なのではないだろうか。上司に誘われてもそんなに嫌がらないでついてくるはずである。それは別に、上司のあなたの人徳(だけ)ではないから。たぶん、彼はお供をすることのメリットを無意識のうちに脳裏で計算している。それはそれでいいと思う。打算的に生きられる知恵があるのは素晴らしい。

『水の眠り 灰の夢』には、今はもうなくなってしまったトップ屋集団という群像が登場する。言葉は変だが、一匹狼の群れ。つまり一人一人が一国一城の主であると自認しながら、仕事のために他の人間と一緒にいる、という関係である。共闘であり協働だ。そんな彼らだから、仕事が終われば緊張感をほぐすために共に酒を飲みもする。俺はおまえの喉笛に食いつこうと狙っているわけじゃないんだよ、そう態度で示すために、酒場で胸襟を開いて話をするわけだ。そういう男たちが集う店が、昔は処々にあった。『水の眠り 灰の夢』には「深海魚」という店が出てくる。

村野が入って行くと、入り口のテーブル席もカウンターもほぼ満席で、誰も村野に注意を払おうともせず大声でしゃべっていた。(中略)彼らを掻き分けてかろうじて奥に進むと、 <軍団> の木島、橋本と共に後藤がいた。後藤はカウンターの端に腰掛け、横にクニ坊と呼ばれているアルバイトの若い女を座らせて話し込んでいた。(中略)

「いらっしゃあい」

クニ坊が村野に笑いかけて席を譲り、後藤のと同じダルマのハイボールを作ってくれた。

一匹狼を気取って、一人で飲んでばかりいるうちはまだまだ、ということなのだ。一人で闘える人間だからこそ、他の誰かと酒を飲める。胸中に湧き起こる思いを裡に秘め、明るく笑って狐と狸の化かしあいを演じられてこそ一人前。そういうときには、むしろごてごてとした肴は不要かもしれない。ウイスキーと塩豆で十分。だらしなく酔うために飲むのではない。むしろ酔いながら己を引き締める。話相手に胸襟を開いて話しかけながら、決して心の奥底までは覗かせないという腹芸を身につける。

作者桐野夏生がオリジナルブレンドの競作「謎2002」で作ったウイスキー「ダーク・エンジェル」は、「余韻の苦味」を演出した酒であったという。たぶん、そういう酒の場で飲まれることを念頭に置いたウイスキーだったのではないかな。頭の芯をぴりっとさせたままで飲む酒は、余韻とともに寝床へと持ち帰られる。そして翌朝目覚めたとき、不思議に視界が透明になったような感覚が訪れるのである。さあ、今日も一日闘おう。


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