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ウイスキーとミステリーの世界

『罅/街の詩』

(1997 日本) ; 作/北方謙三; 出版/集英社文庫

罅/街の詩

(ストーリー)
私立探偵の浅生は私立探偵だ。元から探偵だったわけではない。昔は一流企業に勤める商社マンだった。二十五歳になったとき、自分が組織に属したために〈緩慢な死〉を迎えていることに気づいた。それから五年辛抱し、三十歳にしてついに一般社会からドロップアウトすることを決めたのだ。家族はいない。家族のように部屋に出入りする女ならいる。令子という名前の女だ。令子と浅生の間に言葉にして交わされた契りはない。浅生の生き方と同じように、すべては成り行きのままに任されている――。その浅生はある日、荒っぽい仕事を受けた。あるバーテンを店から追い出してほしいというのだ。依頼者はオーナーだ。そのバーテンは店を私物化して、売り上げをごまかしているのだという。浅生はバーテンの心を打ち負かして身を引かせるために、ある企みを実行に移した(『岩』)。現代ハードボイルドの第一人者、北方謙三による私立探偵小説。詩情溢れる連作だ。


宮仕えをしている人間で、勤めを辞めたいと思ったことがない人間はいないだろう。浅生は、その願いを実行に移してしまった男だ。うず高くなった鬱積がわが身を縛っていることに気づき、ある日ひょいとその人生から飛び降りてしまった。つまり、人生を捨てたのだ。だが、捨ててこそできる生き方というものがある。浅生は、普通の生き方を捨てた途端に、詩人になった。言葉にして読むのではない。自分の歩き回る街の上に詩を見つけるのだ。朝の舗道、夕日に照らされて伸びる影、町屋のたたずまい。誰もがそうしたものを詩として読めるわけではない。詩人の心を持った者だけが読めるのだ。だから浅生は詩人になった。職業は私立探偵だが、心は詩人なのだ。でなければ、酒場で女に誘いをかけられて酒を奢るのに、

「いいともさ、ただしシングルでな。君とは、まだダブルで奢るような仲じゃない」(『岩』)

なんて台詞は出てこない。

ときには自らの体を使って詩を書くこともある。表題作「街の詩」では、悪い仲間に入った青年を家に連れ戻すために、拳と拳を交えて決闘までするのだ。顔面を晴らせて帰ってきた浅生を見て恋人は驚くが、浅生は動じない。それどころか、

「街に詩を書いていたら、こんな顔になっちまった。抒情的なやつじゃなく、かなりシュールなやつさ」

そう言ってうそぶくのだ。

どうしたらこんな折れない心の持ち主になることができるのだろう。浅生ほどは無理だとしても、自分も街の詩人になりたい。そう思う人には、一つ助言を差し上げたい。

知らないバーに行ってみることです。知らない街の知らないバーに、たった一人で。ドアを開けて中に踏み込んだとき、あなたはどこからともなく向けられた視線を感じることでしょう。それは、バーテンダーの眼差しである。バーテンダーは、客と緊張感を持って向かい合っている。客の求めるものは何か、推し量っているのだ。あなたという客を受け止めるために、全神経が集中されている。あなただってぼんやりしているわけにはいかない。店に書かれた詩を読み取ろう。ボトルの列、磨き上げられたグラス。壁際の花。カウンターの瑕の一つ一つ。それらは詩を構成する一節なのだ。バーテンダーと客のやりとりが、それらの節に韻を踏んでいく。

ウイスキーの力を借りよう。モルトの芳香が詩情を高め、酔いが言葉を接合する。いずれひとかたまりの空気となった詩が、バーの中には漂うはずだ。そのときバーテンダーの視線が、柔らかく、暖かいものであることに気づくはずである。

浅生がとあるバーに書いた、詩の一節をご紹介しておこう。

店の中は静かなままだ。外の通りからも、ほとんど人声は聞こえてこない。私は、何杯目かのオン・ザ・ロックを空け、グラスを軽く振った。氷の触れ合う音が、沈黙をいっそう深くするようだった。(『街の詩』)


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