WHiSKY on the Web ウイスキーミュージアムウイスキーと文化ウイスキーとミステリーの世界 > 特集:ウイスキー「謎」のブレンドに挑戦した作家たち

ウイスキーとミステリーの世界

『動機は問わない』

(1996 日本) ; 作/藤田宜永; 出版/徳間文庫

動機は問わない

(ストーリー)
相良治郎は私立探偵だ。渋谷区鶯谷町にある事務所兼住まいにねぐらを定め、今日も依頼人からの電話を待っている。相良の父親は博徒で、葛飾区に小さな組を構えていた。だが新興のやくざとのいざこざが絶えず、ついにはそのために命を落としてしまったのだ。組は解散し、相良は母と母の実家のある仙台に移り住んだ。組のあった建物は取り壊され、今はボーリング場になっている。相良は東京の街を故郷としながらも、その故郷に拠り所を失った男なのだ。彼にできることは、依頼人たちの抱える哀しみを見つめることだけ。
その相良の元に懐かしい顔が訪ねてきた。寺島晃だ。妻の美加代が失踪したため、行方を捜してほしいというのだ。晃も美加代も相良の仙台時代の級友だ。相良は美加代に淡い恋心を抱いたことがある。ほろ苦い想いを噛みしめながら、相良は依頼を引き受けた。『理由はいらない』(新潮文庫)に続く、大人のハードボイルドシリーズ第二弾。


ウイスキーは時間の神の恵みものである。味と香りを決定づける重要なポイントの一つに樽熟成があり、樽の中で静かに呼吸しながらウイスキーは神秘の力を宿していく。長い年月の間に、樽の容積の何分の一か空気の中に蒸散して失われてしまうが、蒸溜所ではこれを、「天使の取り分」と呼んでいるそうだ。神の恵みを受けるために、どうしても必要な貢物というわけである。ウイスキーの樽は普通巨大な貯蔵庫で、何層にも積み上げられて保管されるが、層の上下では室温にも違いが出る。古来より、樽の上下を入れ替える方法や、貯蔵庫の風通しをよくして温度差をなくす方法など、さまざまな工夫がなされてきた。後者は、人の手が触れる回数をなるべく減らして、時間の神に思う存分力をふるってもらおうとしているのである。室温にとどまらず、眠っているウイスキーに異変はないか、樽からの漏れ出しはないか、などと熟成期間中職人は最大限の注意を払い続けている。そのさまは、わが子の眠る姿を見守る親さながらだろう。

若かりしころを振り返って、そのころの自分の青臭さ、とげとげしさに愕然としたことはないだろうか。私はある。できればそのころの自分を樽に詰めて、ウイスキーのようにまろやかに熟成するまで寝かせてしまえれば、と思う。人間は、世間の風に吹かれながら成長しなければならないから、なかなかまろやかな仕上がりにはならない。ウイスキーのように時の神の加護が得られればいいのに。

いずれにしろ、ひょんなことで二十数年前に、淡い思いを抱いていた女を思い出すことになった。だが、この思い出に痛みが伴うはずもない。私は久し振りに、懐かしいという気分にとらわれ、半分ほど残っていたウイスキーの瓶を空にすることになった。

私立探偵の相良治郎は高校時代の同級生・寺島晃からの依頼を受けた。やはり同級生だった妻の美加代が失踪したので捜してほしいという。一瞬だけ過去が甦ったのだ。高校時代にはガリ勉タイプだった晃と、反戦集会に顔を出すほどに奔放だった美加代、高校時代には二人が結婚するなどとは夢にも思わなかった。歳月が二人をどのように変えたのだろうか。また、二人の目に自分自身はどう変わって見えるのだろうか。

二十数年の歳月といえば長いようだが、ウイスキーの熟成の年月を考えればそれほどでもない。もっと長い時間を費やして成長するウイスキーもあるからだ。一人で過去を想う夜には、自分の過ごした年月ほどのウイスキーをグラスに注ぎ、その輝きに越し方の記憶をゆだねてみるのがいい。

俺の過ごしてきた歳月は、このウイスキーほどの偉容をもたらしてくれただろうか。

俺の残してきた業績は、このウイスキーほどに馥郁たる薫りを放ってくれただろうか。

俺はこのウイスキーほどに人に好まれる人間に成長したのだろうか。

答えはグラスの中にあり、また自分自身の中にある。


【仏陀の鏡への道】目次へ【新宿鮫】