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ウイスキーとミステリーの世界

『葬列の朝』

(1995 日本) ; 作/斎藤純; 出版/講談社文庫

葬列の朝

(ストーリー)
美原耕斗はオートバイにまたがり、伊豆のS市を目指していた。東京のバーで知り合った不思議な男、州蔵孝明と、孝明の故郷であるこの町で落ち合うためだ。しかし、町に到着した耕斗を迎えたのは、孝明が失踪したという報せだった。奇妙な縁から、州蔵家の経営する岬ホテルに居着き、耕斗はこの町のテニスチームのコーチを務めることになる。
S市は決して見かけ通りの平和な町ではなかった。リゾートマンション用地取得にからみ、賛成派と反対派に別れて市民が争っていたからだ。そして耕斗自身もきれいな過去の持ち主ではなかった。将来を嘱望されたプロ・テニスプレイヤーでありながら、ある美人女優との愛人関係を発端としたスキャンダルに巻きこまれ、社会的生命を断たれて失意の生活を送っていたからだ。S市で暮しながら、再生の途を捜す耕斗。その背後にもどす黒い陰謀の手が迫っていた――。新しい時代の息吹を告げる、青春ハードボイルド。


テニスのラリーは会話に似ている。ネットをはさんで繰り広げられるボールの応酬、矢のようなサーブあり、意表をつくボレーあり……。プレイヤーはテニスコートでボールを追いながら、無言の内に対戦相手と無数の会話をかわしているのである。無心にゲームをする人は、ゲームを通じて効果的な会話のテクニックを学んでいるのかもしれない。会話が単なる言葉の羅列ではなく、魂のボールを相手のコートに打ちこむ、高等戦術のやりとりであるということを理解するために、これはいい学び方かもしれない。斎藤純の小説の会話は、非常にテニス的だ。読者は言葉の小気味いいラリーに酔うことができるだろう。

例えばこんな場面。主人公美原耕斗が六本木のバーで、州蔵孝明という不思議な雰囲気を持つ初老の男と出会うシーンである。

――男はオールドファッションと呼ばれるグラスを差し出した。にごりのない大ぶりな氷がひとつだけ入っていて、ウイスキーに冷気と輝きを与えていた。

「アイレイのシングルモルトだ。腹にびしっとくるぞ」

耕斗は黙ってグラスをもらった。(中略)

「どうだ?」

「ええ、びしっときましたよ。イワニセヴィッチのサービス・エースのようにね」

「そのうち魂にびしっとくるようになる」

アイレイとは、モルト・ウイスキーの重要な生産地であるアイラ島のこと。スコットランドのインナヘブリディーズ諸島の最南端に位置し、佐渡島程度の面積の島。小さな島だが、ブレンデッドスコッチにこのアイラ・モルトを入れないものはないという。すなわちスコッチのフレーバーの隠し味とでもいうべきモルトの産地なのだ。蒸溜所はすべて、海辺に立ち、ゆえにアイラ・モルトは独特の潮の香り、ヨード臭とスモーキーさを持つのである。

この香りが「びしっ」とくるゆえんだ。しかし、この鋭い香りに親しむことが、シングルモルトに親しむためには必要なのである。それが魂にびしっとくるようになったとき、その人は真のスコッチ飲みになったのだといえよう。これは、孝明から耕斗への、ウイスキーの飲み方伝授の第一歩なのだ。斎藤は、この短い言葉のラリーに、それだけの意味をこめている。これだから、こくのある文章で書かれたハードボイルド作品を読むのはやめられない。ウイスキーを楽しむときのように、そっと言葉を口の中で転がしてみよう。きっと思いがけない味わいが広がってくるはずだ。


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