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ウイスキーとミステリーの世界

『デズデモーナの不貞』

(1999 日本); 作/逢坂剛; 出版/文藝春秋

デズデモーナの不貞

(ストーリー)
<ぼく>は、めまいとともに立ち上がった。どうやら石段を駆け降りようとして転げ落ちてしまったらしい。しかもどうやらその時に誰かにぶつかり、転落に巻き込んでしまったようだ。慌てて傍らに倒れている男の体を確かめるが、呼吸もしており、命に別状はないようだった。<ぼく>は男を放置してその場を立ち去った。こうしてはいられないのだ。今出てきた店に、口論した恋人を残してきてしまったのだから。今すぐ戻って詫びれば、彼女も<ぼく>を許してくれるかもしれない。<ぼく>はバー《まりえ》を目指してひた走った。
<おれ>は、バー《まりえ》のストゥールに腰を落ち着けて何かを待っていた。初めて入った店なのに、ママのまりえという女はやけに鋭い。まるでこちらの秘密を見抜くような態度で<おれ>に接するのだ。しかし<おれ>の秘めた目的を悟られるのはまずい――。
バー《まりえ》を舞台にして交錯する<ぼく>と<おれ>の人生。果たしていったい何が起こるのか?(収録作「闇の奥」より)


バー《まりえ》は池袋西口にある店だ。駅前一帯が再開発できれいになる前に開店したというから、一応古株に入る店だろう。赤丸証券の袖看板の手前の横町を入って、二本目の路地を右へ曲がったところにある。奥に向かって細長い、小さなバーで、L字型のカウンターは、10人も座ればもういっぱいになってしまうくらい。混んでいる晩にはストゥールの後ろで立ち飲みする客もいるという。

この店のママが、沢野まりえだ。色白で、長い黒髪の女性。黒いドレスを好んで着ていて、年齢は不詳。35かもしれないし、45かもしれない。黒目がちで、鼻筋はきりりと通っているが、口は両端が少し下がりぎみで、手ごわそうな感じがする。不思議な雰囲気でこの店を支配しているのである。余計なことを言わないのがまりえの主義。例えば、寂しさをまぎらわそうとしつこく口説きにかかった客には、あなたに飲ませる酒はない、と宣言する。または客に他の客のプライバシーをしつこく聞かれても、ほかのお客さんの噂はしない主義なの、とつれない。大人の飲み方ができない客お断り、の店なのだ。

まりえは言う。「ここは、寂しい人が寂しいなりに、お酒を飲むところ」と。ウイスキーグラスの中にちらりと覗く、自分の人生のかけらを覗くために、客はこの店にやって来る。その《まりえ》が引き寄せた5つの事件を描く連作短篇集が『デズデモーナの不貞』だ。酒場で起こる5つの出来事に、人生の不思議がほの見える。『カディスの赤い星』で直木賞を受賞した逢坂剛は、フラメンコ、西部劇、映画、暗黒小説と多彩な方面に関心を持つ作家だが、大人が大人の酒を飲む作法に厳しい人物でもある。すべからく読者は本書から大人の飲み方を学ぶべし。

厳しく、冷たいように見えるまりえだが、もちろん心の中には熱いものを抱えている。最終話「まりえの影」でまりえは、ある人の身を案じながら飲んでいる。バーボンを喉に放りこむようにして、あおるのだ。気遣う客に、「バーボンをストレートで飲むときは、これ以外の飲み方はないでしょう。喉がかっと焼ける、その感触を楽しむんだから」と言い返す。喉がやける、その感触もまた熱い思いの象徴なのだろう。ウイスキーは静かにたしなむ酒、しかしこんなスピリッツを掻きたてる飲み方も時にはあっていい。


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