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ウイスキーとミステリーの世界

『かわいい女』
The Little Sister

(1949 アメリカ) ; 作/トレヴェニアン; 出版/角川文庫

かわいい女

(ストーリー)
「探偵のフィリップ・マーロウさんですか」電話口の向こうで話していたのは、よく聞きとれぬほど低い、少女のような声だった。マーロウの料金は一日40ドル。その他に経費は実費だ。そのことを伝えると、声は言った。
「とても、そんなにはさしあげられないのよ。私、そんなに給料をとっていませんし……」
だが、少女のように逡巡する依頼主は、結局マーロウの事務所のドアを叩くことになった。失踪した兄を捜してくれと言うかわいい娘、オファメイ・クェスト。カンサスの田舎から、行方を絶った兄を追ってハリウッドまで出てきたのだ。マーロウは彼女の差し出すなけなしの20ドルを受け取り、捜査を開始した。行く手に広がるのは、魔都ハリウッド。見かけの華やかさとは裏腹に、その背景には醜悪な顔を覗かせる街だ。卑しい街を一人行く孤高の男、フィリップ・マーロウ。彼が目にするものはいったい何か。


――「おい」と、私はいった。私はただ、オフィスの調度に呼びかけたのだ。緑色の書類ケースが三つ、古い絨毯、私に向かいあっている客用の椅子、三匹の蛾の死骸が少なくとも六ヵ月はそのままになっている天井の電燈の笠に呼びかけたのだ。小石をちりばめたような模様のドアのガラス、デスクのペン立て、疲れきった電話に呼びかけたのだ。

何もかもがくたびれ果てた私立探偵の事務所。フィリップ・マーロウはこれから、依頼人の女性と対面しなければならないのである。二つの殺人事件を経た後に彼がたどり着いた、ある答えを白日の元にさらすために。そのために彼が準備するのはバーボンだ。

――私は手をのばして、ウイスキーの壜をデスクの上においた。三分の一ほど残っていた。オールド・フォレスターだ。いったい、誰にもらったのだ。緑色のラベルの品物だ。お前などが飲む品物ではない。依頼者がくれたものにちがいない。私にもかつては依頼者がいたのだ。

オールド・フォレスターは、正統派のクラシック・バーボンである。その名前は南北戦争の将軍、ネイサン・ベッドフォード・フォレストにちなむといわれており、アメリカにおける壜詰めバーボンの第一号は、このオールド・フォレスターなのだ。ボトルラベルには、there is nothing better in the market(市場にこれに勝るものなし)の手書き文字が誇らしげに書かれている。壜詰め以前の樽売りの時代には、安酒を混ぜたまがいものが横行したが、それを防ぐ意図でオールド・フォレスターは密栓の壜詰めで販売開始されたのである。これが瓶詰めバーボンの第一号だ。市場にこれに勝るものなし、とは、いわば品質への絶大の自信を表す言葉なのである。翻って、この壜を前にしたマーロウは、

――私はウイスキーの壜を鼻に持って行って、匂いを嗅いだ。からだが慄えた。これではっきりした。ウイスキーの匂いを嗅いでからだが慄えるときは、私はものの役に立たないのだ。

作者レイモンド・チャンドラーが言わんとしていることは明らかである。マーロウは、誇り高きオールド・フォレスターほどには、自分の行動−−その品質−−に自信を持ってはいないのだ。これから自分が語ろうとすることは、おそらく真実だろう。だが、それを語ることが完全に正義が行われることを意味するかというと、それは間違っているかもしれない。こんな二律背反に落とし込まれながらも、マーロウは結局その行動をやり遂げる。そういう場面に直面した多くの人々がしたように、胸を衝く香りのウイスキーをグラスに注ぎ、それを飲み干すという決意の儀式を行い、彼は事務所の部屋を出る。正義が行われるのを見届けるために。世の中に、あるべき品質が取り戻されるのを確かめるために。


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