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ウイスキーとミステリーの世界

『レディ・ジョーカー』

(1997 日本) ; 作/高村薫; 出版/毎日新聞社

レディ・ジョーカー

(ストーリー)
物井清二がその企みを実行に移したのは、単なる欲望のためではなかった。食品業界のガリバー日之出麦酒造株式会社の採用試験を受けた孫の孝之が、不当な理由により就職差別を受けた。そのことが物井の中に眠っていたあるものを呼び覚ましてしまったのだ。普段は競馬だけが楽しみの孤独な老人。彼の体内に滾るものが眠っていようとは、誰も思わなかったはずだった。1995年3月24日夜。その日之出の城山社長が何者かに誘拐された。警察はすぐ捜査に乗り出したが、犯人グループの素性はおろか、その狙いを掴むことさえできなかった。やがて送られてきた犯人のメッセージは、驚くべきことを日之出に対して要求していたのだった。大森署に勤務する合田雄一郎は、本庁の刑事が見落としていたある手掛かりに気づき、独自の推理を働かせるのだが……。豪腕で力作を送り出し続ける作家・高村薫が企業小説に挑んだ渾身の一作。第52回毎日出版文化賞受賞作。


最初に読んだときには気づかなかったが、『レディ・ジョーカー』は男の独酌を魅力的に描いた作品なのである(別に独酌は男だけの特権ではないのだけれど、女性があまり出てこないのだから仕方がない)。たとえば一人息子を交通事故で失ったばかりの父親が飲む酒。これは痛々しい。

習慣で手だけ洗った後、ウイスキー一本とグラス一個を手にソファに座り込んだ。(中略)そうして膿み続ける靄をかき分けるだけの夜がまた、始まるのだ。

きっと飲めば飲むだけ頭が冴えていく酒なのではないかと思う。こういう酒は辛い。飲まなければいいのにと思うのに、飲まずにいられないからまた辛い。

これに対して明るい酒も書かれている。主人公合田雄一郎が部屋で気楽に飲む酒。きちんとした性格の男らしく、まず台秤にグラスを載せて150グラム量って注いでから飲み始めたりしている。ビンに爪で印をつけてその晩飲む量を決める人は見たことがあるが、そうやって重さを量る人は見たことがない。大人の飲み方とはそういうものなのかな。真似してみよう。酒のお供もなかなか凝っている。のんべんだらりとテレビを観ながら飲むのではなく、読書をしながら飲むのだ。しかも普段は読まないような本を。

グレン・グールド著作集第一巻の『フーガの技法』の章は寝る前の睡眠薬に。『商行為法講義』はまた今度。付き合い上の必要に迫られて買ってみた『あなたも歌えるカラオケ百選』は、一曲も歌えない。

結局合田は科学雑誌の『はくちょう座新星V1974の誕生と死』という記事を選んで読み始めるのである。

三年前に爆発したV1974は、天文学史上、誕生と消滅の双方を観測することが出来た唯一の新星で、質量の違う二つの星の連星系の中で発生する新星爆発の理論が、観測によってかなりの部分裏付けられたという。浮世離れした質量と高温と高速の中で起こる核融合の話を読む間、合田の頭は空っぽになり、グラスのウイスキーは三分の一ほど減った。

どうです? いかにも無意味で疲れなくて楽しそうな酒でしょう。さっきのお父さんにも何か難しい本を渡して、これでも眺めながら飲みなさいと言ってあげたいところだ。私の経験でも疲れているときには、何か普段は読まないようなものを眺めながら飲むと楽しい酔いがまわってくることが多い。そういうときには、注ぎっぱなしにできるウイスキーがいちばん手ごろでいいのだ。

お勧めは新古今のような歌集か、あまり難解ではない現代詩集。難しすぎると目が泳いで、ついついグラスの方に手が伸び勝ちになるから、度を過ごしてしまっていけないのである。深くはわからない、でもなんとなくわかったような気持ちにはなる、そういう感じのものがいちばんいいようである。

作者の高村薫は酒豪で、スピリッツのグラスを傍らに置いていつも執筆をしているという。なるほどである。これはきっと作者本人がリラックスするときの飲み方なのだろう。


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