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ウイスキーとミステリーの世界

『幻の女』
Phantom Lady

(1964 アメリカ) ; 作/ウィリアム・アイリッシュ; 訳/稲葉明雄; 出版/ハヤカワミステリ文庫

幻の女

(ストーリー)
夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった――。あるバーにおいて、スコット・ヘンダーソンは謎めいた美女で出会った。南瓜にそっくりの、一風 変わった帽子をかぶった彼女は、危うげな雰囲気を漂わせていた。――これをかぶっているときの、わたしには、用心することね! なにを仕出かすかわからないわよ!――スコットは彼女を誘い、ショウ見物に出かける。一夜の関係ということで、名前さえも聞かずに別れた相手。しかし、そのことがスコットの運命を決定付けてしまった。彼が不在の間に、何者かが彼の妻を絞殺したのだ。アリバイ証明のために「幻の女」を捜し求めるスコット。だが、必死の捜索にも関わらずその行方は杳として知れなかった。それどころかあの夜、彼と「幻の女」が一緒にいるところを目撃したはずの証人たちが、次々に殺害されていったのである! 叙情豊かに語られる、ミステリー史上に残る傑作サスペンス。


バーカウンターを止まり木と呼ぶ。その止まり木の隣りにどんな鳥が止まるのか。愛らしいさえずり鳥か、喧嘩を売ってくる剣呑な猛禽か。それは偶然の支配する事柄である。その偶然が人生を大きく変えてしまうこともある。

――ぼんやりと白い上着が、うつむいた彼の視野の上に近づいてきて、

「いらっしゃいませ」という声がした。

「スコッチ。それに水をすこし」と、彼はいった。「水はほんの少しでいい」

ウイスキーのグラスが空になっても、水は手つかずのままだった。

彼――スコット・ヘンダースンは鬱屈を抱えて手近のバーに飛び込んだ。そしてそこでは、運命のいたずらのような出会いが待ち受けていたのである。隣席に掛けた女性と、彼は突発的にショウ見物に出かけることになる。

――「ふたりの人間が一夜かぎりの友達として、いっしょにショウを見物する――ちゃんと筋道は通っているし、もっともで、また当然、必要なとりきめだわ。それでいきましょう。おたがいに体裁をつくろったり、嘘をついたりしないですむわけだから」

この出会いが吉と出るか凶と出るか。それがまったく予測できないのが、止まり木の出会いのおもしろさである。もし隣りに座った美女が「今夜の私は危険よ」という信号を発していたとしたら、声をかける度胸はおありだろうか――?

かつて、西新宿のはずれにTという名のバーがあった。午前一時に開店し、朝の七時まで営業するという経営方針のTは、銀座や六本木で痛飲した後の飲みなおしの場所として、知る人ぞ知る名店だった。それがある秋の日、ついに閉店したのである。閉店までの毎日、常連たちはTに通い詰めた。最後の夜には、どしゃぶりの雨が降った。

私もTの最後の一時を共有した一人である。それは感傷的な夜で、カウンターに止まった客はTの思い出を語り尽くすことに忙しかった。

こういうときは、不思議と湿っぽい空気にはならないものだ。そこはバーボン・ウイスキーが売り物の店だったから、自然と話題はバーボンの話になる。お互いの顔を見ているよりも、棚のウイスキー・ラベルを見ながら話すことの方が多かった店であるわけだし。その棚のボトルたちも次々に消えていった。常連たちの胃袋の中に吸い込まれていったのだ。やがて棚が目に見えて淋しくなり、そろそろ最後の時が訪れたという雰囲気になった。

そのとき、私の隣りに座っていた男性の客がストゥールから滑り落ち、大きな音を立てて床に転がった。最後の瞬間を待たず、眠りの世界へと落ちてしまったのである。彼の向こう側にいた女性が、仕方ないわねえという微笑を浮かべてその世話を焼き始めた。お連れさんですか、と尋ねると、今日初めて会ったんですと彼女は答えた――。

実は彼女が私と同じマンションの住人であることを知ったのは、その夜からしばらく経ってのことである。彼女の部屋を訪れると、そこにはなんとあの夜酔いつぶれた彼がいるではないか! 聞けば彼女は、酔いつぶれた彼を自室に連れ帰って寝かせたのだという。そして彼はそのまま部屋に居つくことに――。

これだから、止まり木の出会いはおもしろい。一つの歴史が終わる夜に、新しい歴史が始まったのだ。つい先日、二人が入籍したとの慶ばしい報告を受けた。まだ何も準備できていないのだが、祝いの品はあの晩のみ干したバーボン・ウイスキーのどれか以外に考えられないと思う。


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