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『死にゆく者への祈り』
A Prayer for the Dying

(1973 イギリス) ; 作/ジャック・ヒギンズト; 訳/井坂清; 出版/ハヤカワ文庫

死にゆく者への祈り

(ストーリー)
元IRA将校のマーチン・ファロンは、今や死人も同然の身の上だ。彼がIRAを脱退したきっかけは、装甲車と間違えてスクールバスを爆破し、大勢の子供を死なせてしまったためだが、テロリストの精鋭として中核にいた男をIRAが黙って見逃すはずがなかった。英国警察の捜査の手も背後からひしひしと迫ってくる。ファロンに残された唯一の活路は、犯罪王ミーアンから国外脱出の代償として暗殺の仕事を請け負うことだけだった。
 暗殺の仕事は簡単だった。だが、ファロンは殺人の現場をカソリックの神父に目撃されてしまう。口封じのために神父を殺せと命令するミーアンだったが、ファロンは意外な手段で神父の口を閉ざすことに成功する。神父と、彼の盲目の娘を護るためにミーアンを牽制するファロン。果たしてその狙いは達せられるのだろうか。英国冒険小説の大御所ヒギンズ初期の記念すべき傑作。ミッキー・ローク主演で映画化もされ人気を博した。


あなたは乾杯のとき、何に祈りを捧げるだろうか。捧げない、という人もいるだろう。無神論者だから? しかし酒精の神に愛されたかったら、謙虚な気持ちを持った方が賢明である。居酒屋なんかで大きな声を出すのが恥ずかしいという人は、もごもごと口の中でつぶやくだけでもいい。何かに感謝して味わう酒は格別の味である。

『死にゆく者への祈り』によれば、アイルランド人は祖国アイルランドの地で死ぬことを願って祈りを捧げるそうである。

――「あんたがアイルランドで死ねるように。アイルランドじゃ、そんなふうに言うんだろ?」

主人公マーチン・ファロンにとってこれは切実な願いであっただろう。彼は故郷喪失者なのである。元テロリストである彼にとって安息の場所はどこにもなく、終焉の時は間近に迫っている。唯一の願いは祖国の地を踏むことなのに、それは叶わぬ願いなのだ。ご存じのとおり、アイルランドの歴史はイングランド人支配との闘争史である。護るべき、拠るべき祖国があるから、先のような祈りの言葉も生まれた。アイルランドにキリスト教を伝えたとされる聖パトリックは、同時にこの地に酒の蒸留技術をもたらした人物であるともいわれている。アイリッシュ・ウイスキーと宗教とは不可分のものなのだ。アイルランド人にとって、アイリッシュ・ウイスキーは宗教であり、祖国そのものであり、それを飲むことは祖国の地を踏むことと等しい神聖な行為なのだといえる。故郷喪失者ならば、さらにその思いは切実である。

この小説の至るところでファロンはアイリッシュ・ウイスキーを飲んでいる。暴漢に痛めつけられ、傷ついた女性に優しく接するときの言葉もウイスキーにからめてだ。

――「一時間でもどる。それ以上はかからない。約束しよう。その後で、さっきのウイスキーを二人で飲もうじゃないか。そういうのはどうかね?」

圧巻は、ファロンがついに巨悪との対決を決意する場面だろう。彼はアイリッシュ・ウイスキーを呷りながら、神から授かった能力が腕が衰えていないことを確認する。それは一人神と契りを交わすための酒である。我が身に酒精の神のお導きがあるだろうことをファロンは信じている。故郷の酒を飲むということはそういうことだからである。酒場で必ずご当地のお酒を頼む人がわれわれの周囲にもよくいるが、彼らも密かな故郷喪失者なのかもしれない。それは神聖な行為だから、邪魔しないように。もしかすると、彼は今夜なにかの対決をする決意を固めたところなのかもしれないのだから。


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