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ウイスキーとミステリーの世界

『生誕祭』

(2003 日本) ; 作/馳星周; 出版/文藝春秋

生誕祭

(ストーリー)
世の中がまだ、空前絶後に浮かれ騒いでいたころ。六本木のディスコ・マハラジャで働いていた堤彰洋はのし上がるチャンスをものにした。幼なじみの三浦麻美が紹介してくれた不動産業者・薺藤美千隆に気に入られ、美千隆の経営するMS不動産で働くことになったのだ。折からの土地高騰を利用した利鞘稼ぎ。無知な老人を騙して安く土地を買い叩くくらいは序の口だった。美千隆が描く富の王国の夢をともに担うべく、彰洋は進んでどぶどろの世界へと手を染めていく。一方、美千隆の恋人である麻美は、伝説的なデベロッパーである波潟昌男の愛人となり、富貴を貪るとともに生の刺激を求めていた。そのためには、友人を不幸のどん底に叩き込むことも辞さない。彰洋と麻美、二人の刹那的な生き方は泡沫のような景気の中に漂い、どんどん上りつめていく。果たして泡粒がはじけるときはくるのか。暗黒小説の第一人者馳星周が、新境地を開いた犯罪小説。


ミステリー作家がウイスキーのオリジナルブレンドに挑戦する「謎2003」競作で、馳星周の「薫のブレンド」が販売されることになったと聞き、そのブレンドのイメージを知って、おやと思った。子供時代に田舎の森で過ごすことも多かった馳は、初夏の白州の森の香りをイメージしたブレンドに挑戦したそうなのである。マドレーヌの香りが過ぎ去った過去を思い出させる、とくればマルセル・プルーストの『失われし時を求めて』だが、馳のそれは、ちょっとしたプルーストではないか。ウイスキーの風味を表現するのに、そんなやり方もあったのか、と少し楽しくなってしまった。ブレンダーズ・セットを購入して、自分の思い出を表現する味をこしらえてみるのも悪くない。

私の場合、きっと亡父のイメージのウイスキーになる。父は、サントリーのオールドが好きでいつもあの達磨壜を常備していた。父の書斎は本で埋もれていたので、積み上げられた本の山の陰や頂などに、すとん、という感じに壜は置かれていたのである。本の山の埃の匂いとウイスキー。スモーキーな感じの香りが似合うかも。

『生誕祭』の主人公・境彰洋もウイスキーの芳香の中に過ぎ去りし日々の声を聞いている。

彰洋はロックグラスのウイスキーで唇を湿らせた。酔いがまわった視線で自分の内部を覗き見た。

彰洋を可愛がってくれていた祖父は、彰洋が十四歳のときに亡くなった。祖父は熱心なクリスチャンで、いつも下げていた十字架が彰洋への形見の品だった。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん。それが祖父の教えだった。

だが土地転がしの味を覚えた彰洋は、祖父の声を振り捨て、教えの誓いを破っていく。

彰洋は手の中のグラスに視線を向けた。水滴が付着したガラスの表面に彰洋の歪んだ顔が映し出されていた。

誰でも一人だけ絶対に嘘をつけない相手がいる。自分自身である。どんなに人を欺くことが巧い人間でも、自分自身を騙すことだけはできない。もしそれができるとしたら、その人は普通の意味の人ではない。中身は空洞である。空洞ではなく、柔らかな組織が中に詰っているから、ウイスキーをあおれば中に滲みこんでいく。心の中の冷え切った何かが温まり、忘れ去っていたはずの思いが甦ってくる。

ウイスキーを飲む人に忠告です。今宵あなたの中に失われた過去の思い出が甦ってくるはず。もしかするとそれは、ずっと縁遠くなったままになっている大事な人の思い出かもしれません。机の上に便箋を準備してから飲みに行きましょう。もしかすると、誰かに手紙を書きたくなるかもしれませんから。


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