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ウイスキーとミステリーの世界

『告別』
Valediction

(1983 アメリカ) ; 作/ロバート・B・パーカー; 訳/菊池光; 出版/ハヤカワ・ミステリ文庫

告別

(ストーリー)
ボストンで私立探偵業を営むスペンサー。彼にはスーザンという恋人がいた。だが彼女はハーヴァード大学で博士号を取得した後、ボストンにとどまることなくサンフランシスコの街へと旅立っていった。「わたし、どうしても一人でいたいの」そんな言葉を残して。
心の空隙を埋めきれずに苦悩するスペンサーと、それを気遣う相棒のホーク。だが、すべては時の流れるままに任せるしかない。そんなスペンサーが受けた仕事は、スーザンとの共通の友人、ポールからもたらされたものだった。ポールの知人が経営するダンス教室から、女性ダンサーが連れ去られたのだ。
犯人はカルト宗教集団〈ブリーズ〉。狂信的な教祖に率いられ、容易にその全貌を明らかにしない宗教集団を相手取って、スペンサーの孤独な闘いが始まる。ロバート・B・パーカーはスペンサー・シリーズで、探偵のライフスタイルを描くという私立探偵小説のあり方を確立させた。そのシリーズ中の注目作である。


スペンサーといえば、八十年代から九十年代にかけてもっとも有名だった探偵だ。そのスペルが通常のものではなく、英国の詩人スペンサーと同一のものであることを誇りに感じているように、スペンサーは元ボクサーという前歴でありながら文学を愛し、含蓄に満ちた言葉を口にする知性派の主人公として創り出された。今だにエクササイズをきちんとこなし、体型を保つというちょっとマッチョなイメージや、美食家で珍しい銘柄のビールを好むという嗜好は、作者パーカーが従来型の私立探偵像との差別化のために彼に与えたものだ。

しかし、ガールフレンドのスーザン・シルヴァマンと出会い、彼女との関係を第一に考えるようになってスペンサーは変わった。ビールだけではなく、ウイスキーも飲むようになったのだ。もちろん、他の私立探偵たちが好んで飲むバーボンではなく、スコッチか、アイリッシュ。そこらへんのこだわりは十分だ。アイリッシュ・ウイスキーを飲み、これに比べれば他の酒などリステリンと同じだ、とくさす過激な発言もある。

例えば、『告別』の一シーン。最愛の人であるスーザンがハーヴァード大学を卒業した後、西海岸のサンフランシスコに行き、就職してしまった。そのことに耐えるために飲む酒である。相棒である、ホークを呼び出して飲む。

――アトランティック街を横切ってマーケットへ行き、<J・J。ドノヴァンズ・タヴァン>のバアに坐った。私はアイリッシュ・ウイスキーのオン・ザ・ロックスにした。

「まだあんなものを飲んでるのか?」ホークが言った。

「伝統に忠実なんだ」

ご存じの通り、アイリッシュ・ウイスキーはアイルランド人の誇りであり、スコッチ・ウイスキーとともに、ウイスキーの元祖を自称している。もちろん、スタイリッシュで正統的な主人公であるスペンサーとしては、飲む酒としてアイリッシュを選ぶのは当然のことだろう。さすが、パーカー。でも、このウイスキーの酔いが、スタイリッシュな外面の殻を少し破り、情けない男の本音をちょっと覗かせることになる。こんな具合に。

――アイリッシュ・ウイスキーで気に入っているのは、飲むほどに口当たりがよくなる点だ。もちろん、不凍液でも同じことかもしれないが、人間は幻想で生きているようなものだ。

誤解を恐れずにいえば、『告別』は非常に甘党の作品である。だって、スペンサーが失いかけている恋人について思い悩む小説だもの。そこにはピリリとした男の矜持は感じられないが、逆に感情を剥き出しにせざるをえない、生の姿がある。そんな面を見せられて幻滅、という人もいれば、そんな面があるからこそ人間の生は楽しいのだ、という人もいるだろうね。ウイスキーで恋人を作ることは難しいかもしれないが、恋人がいない空白を満たすことはできるのである。


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