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ハーヴィ・ガールズ

西部を旅する乗客たちはどうしていたかというと、機関車の交換や時間調整などにより停車時間が長くなる駅で下車して、駅に付随していたレストランで食事をした。運行中の列車内で事前に食事の注文を受け付け、電信でオーダーを到着駅に伝え、到着すれば食事を摂れるという気が利いたシステムにはなっていたが、サービスは最低だったらしい。

当時の駅のレストランにとっての乗客は、ただ通過のために立ち寄った人であり、再び、あるいは常連となって来訪する客など数が知れていることを見越しており、サービス精神は皆無だったらしい。客の食べ残しの再利用など日常的におこなわれていたという。

フレッド・ハーヴィは1875年頃にはカンザス州やコロラド州にコーヒーショップを開店して商売を軌道に乗せはじめ、ビジネスでの列車移動を常としていた。そんな暮らしのなかでレストランや駅近くの宿泊施設の劣悪な環境によってふたりの子供を失い、自分自身も健康状態を悪化させた。こうした体験が彼を新規事業の道へと邁進させることになる。

ハーヴィは鉄道沿線のレストランや宿泊施設のサービス向上を目指す。1876年からアチソン・トピカ・サンタフェ鉄道と提携。計12000マイルにおよぶ沿線駅の約100マイルごとに品質の高いレストラン、ハーヴィ・ハウスを展開させていった。

この店舗展開は当時としては画期的といえるシステムで運営された。停車駅ごとのレストランで同じメニューにならないように考えられ、同じレストランでも4日ごとにメニューを変更して客を飽きさせないように工夫したのである。乳製品はもとより新鮮な食材は鉄道で運べばいい。食材の供給業者も厳選し、農園や農場も自社で運営管理した。そして磨き上げた銀食器、清潔なナプキンやテーブルクロス。彼は客に上質感と安心感を与えた。

品質の統一に関しては、本部管理のもとに食材集中加工センターであるカミサリーを設置し、本部作成のメニュー・レシピで調理されたものを各店舗に鉄道で配送した。

もうひとつ特筆すべきは、ハーヴィ・ガールズである。1883年から東部やヨーロッパで高等教育を受けた若い女性をウェイトレスとして大量顧用して、厳しく教育する。清潔感があり、笑顔と上品なサービスを徹底させた。彼女たちの存在は料理とともにより大きな反響を呼ぶことになる。

この頃はまだ“ドッジシティ(カンザス州)より西にレディなく、アルバカーキ(ニューメキシコ州)の西に女なし」と言われた時代だった。西部の男たちにとって、ハーヴィ・ガールと結婚することがステータスとなる。彼女たちは西部のイメージアップに多大な貢献をしたのだった。余談だが、ジュディ・ガーランド主演で彼女らを描いたミュージカル映画『ハーヴェイ・ガールズ』(1946年/邦題/日本未公開)があるそうだ。

そして鉄道の発達やプルマンカー、ハーヴィ・ハウスの人気によって、映画の西部劇で必ず登場する酒場、サルーンが大きく様変わりする。

(第50回了)

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