バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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プルマン・パレス・カー

1869年、ついに大陸横断鉄道が開通する。急ピッチで鉄道網が充実していくほどに、プルマンカーの設備が充実していくほどに、アメリカの旅はエンターテインメントの要素を色濃くしていく。

狩猟旅行のための狩猟列車、大自然を満喫するためのクロスカントリー列車、ピクニック列車など、19世紀後半には現代のツアー企画に通じるメニューがすでに存在していた。車輛は贅を尽くした個室はもちろん、図書室、美容室といったものまで備えてあり、車掌はオルガンやピアノを演奏して乗客サービスにつとめることもあれば、列車専用の新聞まで発行されたこともあったようだ。


ジョージ・プルマンは優れた企業家だった。車輛メーカーであるだけでなく料理人と食堂運営も含めた運行業務、つまりサービス事業も自社展開した。そこにはマイノリティを多く採用する。車掌は白人であったが、ポーター(荷物運搬人、赤帽)にアフリカ系アメリカ人を採用した。ラウンジボーイの多くはフィリピン人だったという。

リンカーンの奴隷解放に忠実であろうとする人道的な面と、給与を抑えられるという経営的理由もある。それでも、いい仕事に就くことができないアフリカ系にとっては最高の職だった。客からのチップを加えれば高給取りである。しかも当時の黒人社会では旅行の機会に恵まれることなどまずあり得ない。

運行スタッフは厳格なマニュアル訓練を受けた後に乗務し、最高のサービスを提供した。スタッフは乗客から自分の名前ではなく、全員が“ジョージ”と呼ばれた。プルマンの名前である。

1881年、プルマンはシカゴから14マイルほど南、カルメット湖畔に企業城下町をつくる。町の名はプルマン。最新工場に加え、労働不安を失くすために住宅、商店、図書館、劇場、公園、ホテルなどを建設、整備した。画期的であり、アメリカ社会からは大きな注目を集めた。

ただし1894年に業績が一時悪化するとストライキが起き、イリノイ州を飛び越えて政府が鎮圧に介入。プルマンが世を去った翌98年に彼の封建的統治に責任があるとして町の所有権を手放すことを命じられ、シカゴに合併されている。

それでもプルマン社には勢いがあった。世界中の豪華列車に影響を与えつづけた。その後、製造部門と運行部門の分割などを経験しながらも、モータリーゼーションや航空機の発達によって寝台車の需要低下がはじまる20世紀半ばまで変わることなく事業をつづけた。

さて、鉄道の発達やこのプルマンカーによって、アメリカ西部の酒場、サルーンが影響を受けた。次回は19世紀末、サルーンの盛衰を見つめてみたい。

ではバーボンを1ショット。四角いプルマンブレッドで話をはじめたから角型ボトルの「ノブクリーク」を味わう。何よりもプルマンカーが世界に知られるきっかけとなったリンカーン大統領の出生地、ケンタッキー州の農地、ノブクリークの名を冠している。

強く、そして滑らかなクラフトバーボンの甘いコクがこころの壷を潤しはじめると、時代を乗せてまぶしい輝きを放ちながらアメリカの大地を駆け抜けたプルマンカーの響が聴こえてくる。

(第49回了)

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