バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

シカゴ・ジャズ

彼らはニューヨークではなく、シカゴであった。多くの文献に書かれていることだが、距離が近い。まず鉄道運賃である。旅費は安いほうがいいし、シカゴで失敗しても故郷にすぐ帰れるからだ。加えて南部ミシシッピ文化圏の同胞が多く、ブルースも理解でき、わかりあえるだろう、という期待もあった。

ニューヨークは黒人同士でも差別感情があったといわれている。長く住みつづけた黒人たちは大都会の洗練を身につけ、南部からの田舎者を馬鹿にしていたところがあり、南部ミシシッピ文化圏のミュージシャンたちは敬遠した。

こうした動きもあってシカゴは“ブルース・シティ”と呼ばれるようになる。

さて、ジャズの語源である。シカゴのナイト・スポットに出演するバンドは、なんたらディキシーランド(南部)という名称をつけることが多かったらしい。ジャズというワードがまだ存在していなかったからだ。

いろんな文献から推察すると、おそらく1910年代後半から20年代はじめにかけてのことではなかろうか。ある晩ある店で、リズムとウイスキーに心地よくなった客がノリで「Jass it up!」と叫んだ。このJassというワードはあまり歓迎されない猥褻な意味を持つ、シカゴ裏社会の俗語だった。

ただしミュージシャンたちはこのワードを気に入った。そこから転訛してJazzとなり、ディキシー・ジャズ・バンドとかニューオーリンズ・ジャズ・バンドといった名称をつけたバンドが登場するようになったといわれている。


1917年以降、ニューオーリンズからシカゴへと向かうミュージシャンがとくに増えた。連載第38回『ニューオーリンズ・ジャズ』で述べたが、ニューオーリンズにはストーリーヴィルという大歓楽街があった。遊郭とその周囲にはナイトクラブが軒をつらね、ジャズ・ミュージックはここから生まれた。

1917年春、アメリカは長引いていた第一次世界大戦に参戦する。ニューオーリンズは軍港となり、そこから兵士たちはヨーロッパ戦線へと送られたのである。アメリカ海軍は出征の地に遊興に溺れる街があることを嫌悪した。半年後に、海軍長官は強引にストーリーヴィルの閉鎖を命じてしまう。

それからというもの、ミュージシャンとして生き抜こうとするものたちは次第にニューオーリンズから離れていく。1920年代になると若いミュージシャンたちは北へ、シカゴへと向かうようになる。サッチモことルイ・アームストロングは1922年にニューオーリンズを離れ、シカゴへ登場。人気となった彼はニューヨークでのデビューを果たし、やがて世界的名声を得た。

連載17回〜20回で紹介したバード、チャーリー・パーカーは1920年カンザスシティ生まれ。18歳でシカゴに行き、それからニューヨークへ進出した。名高いミュージシャンの多くが、シカゴからニューヨークという道を歩んでいる。

シカゴにはいまでもクールなジャズを聴かせるライブハウスの名店がいくつもある。1907年創業で最古のジャズクラブとして有名な『グリーンミル』は、禁酒法時代にはカポネ・ファミリーの幹部だったマシンガン・ジャック・マックガーンがオーナだった。いまでもカポネの席が残されている。酒の闇取り引きにも使われたともいわれている。禁酒法なにするものぞ、である。長年にわたり多くの有名ミュージシャンやシンガーがここのステージに立ってきたのはもちろん、チャップリンをはじめ多くの著名人にも愛されてきた店である。

(第48回了)

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