バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

ニューオーリンズ・ジャズ

南北戦争前に一端下火になったものの、戦後再びコンゴ広場は復活する。用済みとなった南軍の軍楽隊の楽器が流出し、ブラスバンドを形成するのがたやすくなる。これが19世紀末にはピアノのラグタイムと影響し合い、リズミカルなダンスミュージックが誕生していく。そしてヨーロッパ的メロディーラインとアフリカン・ビートが融合し、ジャズを生んだとされる。

ブルースの発祥との相違点は、大プランテーションによる綿花栽培で過酷な労働を強いられていたアフロアメリカンが心の叫びを表現したのに対し、ジャズを生んだ環境は都市部であり、比較的自由であったことだ。

ニューオーリンズは消費の町であった。解放された黒人、そしてクレオール(黒人と白人のハーフをはじめ、フランスやスペイン領時代を背景とするさまざまな人種を指す)たちは、それなりのお金を手にすることができた。

とくに1897年から1917年の間に設置されていた歓楽街ストーリーヴィルでは客引きのためのバンド演奏が盛んで、ミュージシャンとしての働き口に苦労することがなかった。そして他の店よりも目立つ演奏を要求された。こうした状況下で即興的演奏も生まれ、ジャズは進化していく。破滅的な嘆きが漂うブルースの発祥とはかなり異なっている。


ニューオーリンズは現在でもアメリカ有数の観光都市である。3つの通り、カナルストリート、エスプラネードアベニュー、ランパートストリートにミシシッピ川で区切られた地域をフレンチ・クオーターと呼ぶ。植民地時代の美しい町並みを残す世界的にも有名な場所だ。フランス領時代、ブルボン朝から名づけられたバーボンストリートもある。

では、バーボン。ニューオーリンズでジャズのサウンドが響きはじめようとしていた頃、ケンタッキーではビーム家4代目となるジェイムズ・B・ビームが動きはじめていた。1892年、姉の夫ハートと共同でクリア・スプリングスの谷に新たな蒸溜所、ビーム&ハート・オールドタブ蒸溜所を建設。事業を拡大し、バーボンのトップメーカーとしての地位を強固なものにしようとしていた。

そして1897年に「ボトルド・イン・ボンド法」が制定される。これにより深遠で力強いバーボンが生まれていった。ただし1920年の禁酒法施行前までのことだった。興隆はニューオーリンズのストーリーヴィルとほぼ同じ期間といえ、力強いバーボンは禁酒法で姿を消した。

その後ジャズは北上しニューヨークで開花するが、ビーム家がかつての力強いバーボンを復活させたのは1988年のことになる。6代目ブッカー・ノーが原点回帰を目指し、クラフトバーボン「ブッカーズ」を製品化する。

さらには4代目ジェームズがクリア・スプリングスに新蒸溜所を建設した年から100年後にあたる1992年、アルコール度数100プルーフ(50%)の名品「ノブ クリーク」が誕生する。

ボトルの独特のスタイリングは、ブーツに隠しやすい形状のフラスクボトルが流行った禁酒法時代を物語るものだ。ウイスキーをつくりたくても、つくれない時代があった。ブッカー・ノーは祖父ジェームズの無念さ、耐え忍んだ年月をビーム家の子孫に伝え遺したかったのかもしれない。

(第38回了)

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