バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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フィラメント・ランプ

京都と大阪の境、山崎周辺は竹の里である。筍(たけのこ)の産地でもある。サントリー山崎蒸溜所も竹林に囲まれている。岩清水八幡は淀川を挟んで山崎蒸溜所を抱く天王山と対峙する男山に位置している。

ムーアが送った岩清水八幡周辺の竹は、世界のどこの竹よりも柔軟で強く、実験で約2450時間灯りつづけたという。それからはフィラメントがセルロースに取って代わる1894年まで、エジソンのため、世界の灯りのために輸出された。

フィラメントは改良を重ねられ、タングステンとなり、現在は白熱電球からダイオードLEDの時代となったが、市民生活に不可欠となる電球のはじまりはジャパニーズウイスキーの故郷周辺の竹だったのである。

エジソンはサムライが使った竹製の弓矢に目をつけていた、との話もあるが、それでも東南アジア各国、キューバ、エクアドル、ブラジルといったさまざまな国々に竹ハンターを派遣している。こうして集まった竹は1,200にも上ったらしい。そのなかから選ばれたのがジャパニーズ真竹だった。

ただし、エジソンの白熱電球には苦い落ちがある。1854年、ドイツからの移民、ハインリッヒ・ゴーベルという時計職人が竹ひごを炭化したフィラメントを使い電球を開発。自分の経営する宝石店のショーウインドを照らしていたことが判明し、1893年に裁判でゴーベルの優先権が認められている。54年当時はあまり話題にもならず、製品化を目指すまでにいたらなかったらしい。

とはいえ、スワンやエジソンたち研究者が費やしたトライ&エラーがあったからこそ、高品質での製品化を実現できたのである。


エジソンの白熱電球の一般公開は1883年。バーボンウイスキーの里、ケンタッキー州ルイビルで開催された博覧会(Southern Exposition)だった。

エジソンはウイスキー好きであったといわれている。エジソンと山崎、そしてケンタッキー。なんだか因縁めいているような。130年以上の時を経たいま、ビームサントリーがウイスキーで世界の人々のこころを照らしている。

ではバーボンウイスキーをどうぞ。エジソンがフィラメント開発に傾注した姿は、クラフトマンシップそのもの。選ぶならばクラフトバーボンがベストというもの。なかでも「ノブクリーク シングルバレル」がふさわしい。

ビーム家6代目ブッカー・ノーが深遠で力強くリッチなバーボンを目指して創出した100プルーフ(アルコール度数50%)の「ノブクリーク」。それを7代目フレッド・ノーがさらに力強いものにし、よりリッチな甘みを抱かせたのが120プルーフ(60%)の「ノブクリーク シングルバレル」である。

9年超もの熟成樽のなかから選び抜いた1樽の香味は、オークの香ばしさ、キャラメルのような甘み、濃厚で長く深い余韻で魅了する。

味わうほどに、胸に明るい光が灯り、乾いたこころの壷を潤す。

(第33回了)

for Bourbon Whisky Lovers