LONG INTERVIEW VOL.1

    スイッチの在り処

    世の中の固定観念に囚われず自分らしく生きる。それは口で言うほど簡単なことではない。息苦しさを覚えながら、袋小路に迷い込みながら、誰もが必死で毎日を過ごしている。そんな時こそ、心の、身体のSWITCHを切り替えよう。自らのクリエイションで数多くの人々を感動させる表現者たち。彼らはどのようにしてその表現や生き方に辿り着いたのか。 彼らの言葉は、あなたにとってのSWITCHを見つけるための道標となるだろう

    At The End of Winter UTADA HIKARU/PHOTOGRAPHY: TAKIMOTO MIKIYA/STYLING: OGAWA KYOHEI/HAIR & MAKE UP: INAGAKI RYOJI

    LONG INTERVIEW

    宇多田ヒカル

    [解放されていく私]

    今年、宇多田ヒカルは『Fantôme』に続く待望のニューアルバムのリリースと、2010年以来となる久々のツアーの開催がアナウンスされている。デビュー20周年を迎えて、変わる想い、そして変わることのない意志とは?二つのテーマから彼女のSWITCHを紐解くロングインタビュー

    TEXT: UCHIDA MASAKI

    プロデューサー・宇多田ヒカル

     宇多田は一九九八年のデビューから全ての自身の詞曲を、さらに二〇〇四年以降はほぼ全てのトラックのアレンジとサウンドプロデュースを自ら手掛けてきた。その彼女が四月二十五日にリリースされる小袋成彬のファーストアルバム『分離派の夏』で、初めて他のアーティストのプロデュースを全面的に手掛けた。新たなSWITCH を経たプロデューサー・宇多田ヒカルの視点を彼女自身と共に考察していく。

    ――宇多田さんが自身のことを俯瞰で見る、いわゆるプロデューサー的な視点であり感覚というのは、かねてから自覚的に持っていたものですか。
    「むしろ私はそっちの感覚のほうが強いんですよ。それが自分の個性というか一番の特徴だなあと思うんですけど。例えば曲を作っていて、私は本当にずっと好き勝手やらせてもらってきたのでほとんど口出しされないんですけど、時々、ディレクターやプロデューサーから『もしかしてここ、こうしたほうがいいんじゃない?』とか『ここ、二小節足してみたら?』という意見が上がると、『あ、そうしよっか』と、すぐに受け入れちゃう。自分の音楽をトータルで手掛けている人は、大抵の場合、『全て自分で決めなきゃ嫌だ』という人のほうが多いと思うんですが、どうも私は自分のアイデアと他人から提案されるアイデアを同一視しているみたいで。だから自分のことも他人みたいというか、他人として自分と接している自分、客観視している自分の方が強い。つまり主観がすごく弱いんですね」

    ――過去のインタビュー記事などでは「自我の不在」という表現での指摘もありました。
    「当然、私にだって自我はありますよ。ただ鈍いんですね。能力として助長されなかった。だから会社勤めとか、集団生活の中で、組織の一員として働かなければいけないような仕事に就いていたら、途中で身体を壊して脱落してしまっていたでしょうね。主に一人でやって、あとは信頼している数名のスタッフとしか接触しないというやり方だったから、ここまでやってこられたんだと思います」

    ――メジャーデビュー前、英語で歌っていた宇多田さんに「日本語で歌ってみたら?」と提案したのもプロデューサーとのことでした。そこでもし、「嫌だ、英語で歌う」と拒否していたら、宇多田ヒカルは違ったストーリーを歩んでいたのかもしれない?
    「そうかもしれません。私、YouTubeに上がっていた母親のインタビュー映像を観て、ぞっとしたことがあるんですよ。それは母が十九の頃の映像で、『自分でああしたいとかこうしたいとか無いの?』みたいな質問に対して、『私、やりたいことなんてなーんにもない! 周りに言われたことをやるだけ』と答えていて。すごく雑に言っちゃうと、それって私が今話したことと同じじゃないか、とびっくりして……遺伝もあるんですかね?(笑)」

    ――“ニューヨーク生まれスタジオ育ち”だった宇多田さんは、幼少の頃からご両親が携わる音楽制作の現場を見てきました。そうした環境からの影響は作用していると思いますか。
    「どうかな。私は両親の音楽自体には携わっていませんでしたし、私が母の制作現場にいて、たまに『歌って』と言われて『嫌だな』と思いながら歌っていただけなので。ただ、母の手助けを父がしている様子を見て育ったことは確かなので、私が当たり前のように自分で作詞作曲してトラックも作ってセルフプロデュースをするようになったのは、物心ついた頃から親をモデルとして見てきたせいなのかもしれませんね。他の人が歌詞を書くとか、他の人が歌うというパターンもアリなんだ、ということに、だいぶ後から気付いたぐらいでしたから」

    ――宇多田さんはデビュー前、初めてのデモ録りのスタジオで「コーラスはこうでね」と、すでに自分で場を仕切っていたんですよね。
    「十四歳の子がデモ録りでそんなこと言ってたなんて、周りはさぞ不思議な気持ちだったんだろうなあ、ということにも後から気付きました(笑)」

    ――自我よりも客観視する自分の方が強いということを、ご自身が自覚したのはいつ頃でしたか。
    「十九歳の時かな。産婦人科に行ったら卵巣のう腫が発覚して。後から考えたらもっとその場でショックを受けて『どうしよう?』というリアクションがあってもよかったのに、『じゃあ明後日は撮影があるので、その翌日なら手術できます』と、淡々と自分で手続きを進めて手術を終えて、その後、かなり早いタイミングで仕事に戻ったんです。でも、ある日突然、雑誌の取材の現場で崩壊しちゃったんです。現場に着いたら脳が情報を処理できなくなっちゃって、『うわわわわあ、無理!』と崩れてしまった。初めてその場で仕事をキャンセルして、その後の仕事も全部キャンセル。結構な大ごとになりました。そこで初めて『辛いよう』とか『怖いよう』という気持ちが、一、二カ月後にタイムラグを挟んであの場で出たことに気付いた。その後も、突然悲しくなると、『もしかして、ちょっと前に起きた、あのこと?』となって。気持ちを抑えることがデフォルトになっていたんです。それが最初でしたね。かなり不健康だし、いろんな人に迷惑をかけるのはよろしくないから、その後はちょっとバランスを取らなきゃいけないと思うようになりましたけどね」

    ――“アーティスト・宇多田ヒカル”が考察する“プロデューサー・宇多田ヒカル”の特徴とは?
    「それこそ今回の小袋君とのやり取りは、自分がどういうプロデューサーなのかということを知る上で勉強になりました。彼も他人のプロデュースをするので、二人で『プロデューサーって、全部ガチガチにコントロールしたがるタイプか、アーティストに好きにやらせて、ちょこっと手を加えるタイプの二つに分かれるよね』という話になったんですが、私は完全に後者でした。さっきも話した通り、これまで私自身が自由にやらせてもらってきたので、創作について誰かに何かを言われる感覚も、自分が誰かに何かを言うという感覚もわからないんです」

    ――自分の中にない感覚で采配はとれない。
    「そうですね。それにそもそもそんなことをしても意味がないと思うし。自分で作詞作曲編曲して歌も歌うというやり方って、他人から変更点を提案されると、『いや、その一階の水回りを動かしたら、二階のあっちも動かさなきゃいけなくなるじゃん?』みたく、家の設計に素人から口出しされるような感じなんですね。だから自由にやってもらう姿勢がベーシックにあって、あとはちょっと必要な時に口を少し挟むくらいでした。小袋君とは、互いに事情のわかる建築家同士みたいでとても楽でした」

    ――制作における小袋さんの作詞に関しては?
    「彼はこれまで自分の思いを“人に伝える”という観点を全く持ってこなかったんですね。だから制作の最初の頃は、自分が書きたいことを書けばそれが作詞、みたいな考えで。表現したいものはぼんやりとわかるんだけど、この書き方だと聴き手に響かないなと思う歌詞がいくつかあったんです。それで、『ここだけわかり易くすれば全体が伝わるよ』とチョチョイと提案したり。最終的にはその曲は彼がボツにしたので、私が歌詞に口出しした曲はアルバムには入っていないんですけど、そのやり取りから後はものすごい速度で意図を吸収してくれたので、あとは下手に口出しをしないほうがいいと思った。そういう判断も、アーティストでもあるプロデューサーの強みなのかもしれません」

    ――小袋さんのデビューに際して宇多田さんが寄せたコメントの通り、今回のプロデュースについては「この人の声を世に送り出す手助けをしなきゃいけない」という思いが動機だったそうですね。『Fantôme』での小袋さんとの共演を経て、彼のデビュープロジェクトが始動に至るまでの経緯とは?
    「簡単に言うと『Fantôme』の現場で彼の歌を聴いたスタッフが、『いいじゃん! 君、何でもっと歌わないの?』となったんです(笑)。私も、彼がトラック作りにあたってラップトップでピコピコと地味な作業を全部自分でやる人だと知って、『私と同じだ!』と驚いて気が合って。作詞作曲だけでなく、編曲も、DAWを使ったプログラミングも全部やる“歌い手”と出会ったの、初めてだったんです。それで、彼と私のスタッフも意気投合して『じゃあこのチームでやったらいいんじゃない?』となった。だから私が積極的に提案したわけでもなかったし、誰かが強く提案したような場面もなかったんですよ」

    ――成り行きというか、タイミングだったんですね。
    「昔からいつかは誰かの制作に携わってみたかったので、みんなで小袋君を『やろうか?』と盛り上がった時、『いまがそのタイミングなのかな』と思って。自分が表に出る仕事ばかりをしているとちょっとしんどい時もあるし、今は五十、六十と歳を重ねても音楽に携わっていきたいと思っているけど、そもそも人前に出るのがあまり好きじゃないので、裏方に回る仕事も並行してできたらという気持ちはずっとあったんです。彼はインディーズでは既に名の通った人でしたが、世間的にはまだほとんど無名ですよね。私は“才能”という言葉を簡単に使うのは好きじゃないし、私自身、それは概念であり架空のものだと思っているから信じていませんけど、彼ほどの人がまだ知られていないなんてすごくもったいない。だから彼を世に送り出す手助けをすることが使命と感じられたし、それが自分の次のステップとして自然と行き着く場所だとしたら面白いなあと。でも一番の理由は、やっぱり最初から彼の音楽を『すごくいい!』と思ったから。そうじゃなきゃできないと思う。だって、『これ、どう直せって言えばいいんだろ?』ってなっちゃうのは……」

    ――センスの喧嘩は泥試合になりますからね。
    「そうそう。だからご縁ですね、本当に。惚れ込んでいないとできないし、互いにプラスも無いとダメだと思うから」

    ――五月リリースの椎名林檎トリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』では、小袋さんと二人で「丸ノ内サディスティック」のカバーを歌われています。
    「去年、小袋君のラジオに私がゲストで出た時に、『カラオケとか歌ったら楽しくない?』となって。いろんな曲を候補に挙げたんですけど、どれも権利的な問題とかいろいろあって。それなら林檎ちゃんだったら私が個人的に知っているからと、彼女本人からこの曲の“EXPO ver.”のトラックを使っていいという許諾をもらって、それでカラオケしたのをラジオで流したんです。今回のお話が来た時、それだったらちゃんとこの曲をスタジオで作り込もうということになって」

    ――かなりグルービーなカバーになりましたね。
    「ちょうど私のレコーディングのためのミュージシャンが揃っていたので。ドラムがChris Dave。ピアノがReuben Jamesっていうサム・スミスのお抱えの若いピアニスト。ベースは『Fantôme』でもいっぱい弾いてくれたJodi Milliner。Jodiもサムのレコーディングでもたくさん弾いている人です。その三人で、ギターはなし。だからジャズ色が濃いんです。素晴らしいバンドだったので、みんなで一緒にセッションしながら作りました。私、これ、今まで自分が関わった曲の中で一番聴き直しているかもしれない。すごく気に入っています」

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