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interview

直江兼続が生きた時代―戦国の世を駆け巡る武将たち

直江兼続の生涯を追うということは、主君・上杉景勝の生涯を追うこと。それはつまり、「戦国大名の雄たる上杉家が、豊臣家という統一政権に組み込まれながらも、トップグループの大名として存続していく過程を見ること」だとおっしゃるのは、大阪城天守閣研究副主幹の北川央先生。戦国の世の流れの中で上杉家はどのような趨勢を辿り、直江兼続はどのように活躍したのかを伺います。

上杉謙信の威光のもとに

直江兼続画像(部分)
江戸時代
米沢市上杉博物館蔵 [展示期間:5月30日(土)〜6月22日(月)]

老中松平定信が編集した図集『集古十種』に収められた直江兼続の肖像画を手本にして描かれたと見られる。

上杉謙信並二臣像
室町時代〜江戸時代
常安寺蔵

真言宗の祖師像に倣った僧侶姿の謙信像で、数珠と扇を手にする。青年期に出家した頃の姿との説もある。


武田信玄とともに龍虎と並び称される武将が上杉謙信。
天文20(1551)年に越後を統一、時の将軍より室町幕府の関東統治を補佐する関東管領の役にも任じられています。上杉軍は武田家、北条家などと争いながら越中や関東に侵攻し勢力を拡大。天正5(1577)年の手取川の合戦では、柴田勝家率いる織田軍に大勝。勢いづく織田信長をも恐れさせたのが上杉謙信だったのです。
「戦国時代最強の軍団だった上杉家の絶頂期を、景勝と兼続は謙信のお側近くでともに経験していました」。
その謙信が突如病に倒れ、上杉家中では景虎、景勝というふたりの養子のあいだで、後継者争いが始まります。天正6(1578)年、世に言う御館(おたて)の乱です。
「景勝、兼続の主従にとって、ここがいちばんの賭けだったでしょう。謙信は後継プランを明らかにせず急死したとはいえ、春日山城では二の丸に景虎が住み、景勝の居所よりも本丸に近く、本丸への距離で関係を推しはかると、北条家出身の景虎に関東管領職、景勝に越後国主を継がせる考えであったとも思われます。劣勢にあった景勝を推し立てたのが、直江兼続でした。結果的には上杉家当主となりますが、一歩間違えば危険な賭けです。北条、武田など周辺を包囲されて、非常に厳しい状況だったのですから」。

時勢を見極め、運を味方につけ

三宝荒神形兜(伝上杉謙信所用)
室町時代 16世紀
仙台市博物館蔵

三宝荒神とは仏宝・法宝・僧宝の三宝を守護する仏神。像は三面六臂で怒りの相を表わす。

金茶糸威最上胴具足(伝直江兼続所用)
桃山時代 16世紀
上杉神社蔵 [展示期間:5月30日(土)〜6月22日(月)]

兼続所用と伝える。直江家の家紋、二重亀甲花菱と秀吉から許された五七桐紋を付ける。兜の前立(まえだて)は日輪と櫂(かい)。

内部の混乱収拾に手間取っているあいだに、最強を誇った上杉家も謙信というカリスマあってこその勢力だったことを露呈し、みるみる国力を失っていきます。そのような状況下で景勝、兼続の主従は、織田信長の脅威、続く豊臣政権と向き合わなければならなくなるのです。
「豊臣政権への関わり方をひとつ間違えたために家を失っていく大名がたくさんあった中で、上杉家が存続できたのは、そうした挫折を経験し、国力が弱っていたことが逆に幸いしたのかもしれませんね」。謙信の権勢を間近で見ていたからこそ、自分たちの置かれた状況を冷静に判断し、プライドに固執することなく、うまく立ち回れたのではないかと言うのです。
運も味方しました。
「上杉家にとっては絶対絶命のタイミングで、天正10(1582)年、本能寺の変が起こります。越中を制した織田軍が上杉領の目と鼻の先まで攻め入り、あと一歩で……という時に、信長横死の知らせが届き織田軍は撤退。ほんとに数日の差で、九死に一生を得たのです」。
同様に、四国の長宗我部、中国地方の毛利など、本能寺の変によって多くの戦国大名が救われる結果に。近年の研究では、単に明智光秀の遺恨による偶発的な事件ではなく、信長の動向に危険を感じた保守勢力が信長包囲網を築き起こした、きわめて政治的な事件で、その保守勢力の中に上杉景勝も与していたという説もあるそうです。

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