SUNTORY FOUNDATION WEB ESSAYS

アメリカ政治における二つの空白

平松 彩子(ひらまつ あやこ)

南山大学外国語学部英米学科講師

アステイオンVol.93

『アステイオン93』
サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編、CCCメディアハウス発行
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アメリカ政治における二つの空白

平松 彩子
Ayako Hiramatsu

アステイオン

アメリカ政治における二つの空白

平松 彩子 Ayako Hiramatsu

 アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア市の中心に、マウントヴァーノンという瀟洒な文化施設の立ち並ぶ地区がある。初代大統領ジョージ・ワシントンのプランテーションと同じ名を冠するこの地区には、19世紀の鉄道王が蒐集した古今東西の美術品を展覧するミュージアムや、慈善家の設立した音楽学校と寄贈図書館があり、南北戦争の終了後から現在に至るまで、ボルチモアの文化と芸術教育の中心地として賑わってきた。マウントヴァーノンについて特筆すべき事柄は、新渡戸稲造が留学時代をここで過ごしたことを含め、多くある。しかし本稿がまず取り上げたいのは、新渡戸がこの地を去った数ヶ月後にミュージアム北側の公共広場に建てられた銅像と、その取り扱いについてのこんにちの議論である。

 銅像はメリーランド州出身で連邦最高裁判所の第5代長官を務めたロジャー・B・トーニー(Roger Brooke Taney, 1777年生−1864年没)のもので、件の鉄道王が1887年に市に寄贈した。トーニー裁判官は、南北戦争直前の1857年に「ドレッド・スコット対サンフォード判決」において、たとえ自由の身となったとしても黒人の元奴隷にはアメリカ市民としての権利を認めないとする最高裁判決主文を書いたことで知られている。

 法服をまとい左手を憲法に添えたこのトーニー裁判官の銅像は、2017年8月16日未明に、市政府の決断により撤去された。撤去の方針は市の有識者委員会がしばらく前から提案していたことではあったが、この日市長の命による突如の取り外し作業を後押ししたのは、その数日前にヴァージニア州シャーロッツヴィルで、ブラックライヴズマター運動の抗議デモを行っている群衆に白人至上主義者の運転する車両が突っ込み、死者を出すまでに至った事件であった。衝突の瞬間の映像は、瞬く間にネット上で拡散し、見る人を震撼させた。トランプ大統領は双方に非があると発言し、火に油を注いだ。実はボルチモアではその2年ほど前に、市警察の拘束中に25歳の黒人青年が不可解な死を遂げたにもかかわらず、担当した警察官がいずれも無罪放免となった別の事件があった。これに抗議した市民の一部が暴徒化し、治安維持のために州兵が市内に厳戒態勢を敷いた記憶は、市長の脳裏にも依然生々しく刻まれていたのであろう。シャーロッツヴィルの一件を受けて、地元の銅像周辺に活動家が集結することを恐れたボルチモア市政府は、闇に先んじて手を打ち、トーニー像を撤去したのであった。

 ただ興味深いことに、銅像と銘板は消えたものの、空席となった花崗岩の土台は3年以上経ったこんにちでも広場に残されたままである。下の写真をご覧いただきたい。

Base, Roger B. Taney Statue, Mount Vernon Place, Baltimore, MD.Photography in Public Domain.

Base, Roger B. Taney Statue, Mount Vernon Place, Baltimore, MD.
Photography in Public Domain.

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 『アステイオン』93号の「特集 新しい「アメリカの世紀」?」を読んで、印象に深く残ったのは、マーク・リラ「液状化社会」および大屋雄裕「赦しと忘却」であった。私はここに、アメリカ政治の二つの空白の領域を見いだした。一つ目の空白については、すでに冒頭で触れたので、大屋論考と合わせて後述する。コロナ禍の状況でアメリカ政治にとってより深刻なのは、もう一つの空白であろう。

 リラによれば、過去40年の間にアメリカでは、経済のグローバル化と、社会における個人の自己決定権や多様性を認める動き、すなわち「液状化」が進行した。この流れがもたらす恩恵を享受している人々がいる一方で、この流れを不快に感じ、抗おうとしている人々も一定数アメリカに存在し、既存の二大政党は後者にあたる有権者をうまく取り込むことができていない。そこへ登場したトランプは、この名もなき有権者の層を代弁することで支持を得た。トランプとその支持者は、共和党からレーガン保守派を追い出すことには成功したが、政党を政治イデオロギーや制度の面で再建するまでには至っていない。

 この名もなき有権者層とトランプの共和党が、私が考えたところのもう一つの空白である。リラの指摘は、トランプが政権を去った後、共和党が党内のこの空洞を果たして埋めることができるのか、また埋めることができたとしてそれがどういう形態をとるのかを考察する上で重要である。民主党政権が誕生しても、都市部以外の地域で優勢な共和党は、少数派が過剰代表される傾向にある政府の部門、例えば連邦議会上院において、かろうじて優位に立つことが今後も見込まれる。圧倒的多数の賛同を得られないであろうと自覚しているためか、上院共和党は、トランプ大統領在任中に下級裁判所も含めた連邦裁判所の裁判官の任命を数多く進めてきた。連邦裁判所の裁判官は終身制であり、ここで共和党が得た影響力はとても大きい。今後長い期間に渡り、特に文化、社会に関する事案について、裁判所の判決を通じて保守的な政策変更が起こるであろうことを想定しておかねばならない。そしてこの変化は、社会面での液状化をよく思わない人々の支持を得るであろうことは想像に難くない。

 しかし肝心の経済争点に関してはどうだろうか。共和党が選挙を介して多数派の支持を得るために、個別具体的な政策や財政再建のための構想、あるいは有権者動員のための組織化を進められているかといえば、大きな疑問符が付くだろう。トランプ支持者の吹聴する陰謀論が、これらのことをなし得るとはとても思えない。またコロナ禍を発端とする経済不況に共和党が有効なヴィジョンを提示できているかといえば、現状では首を傾げざるを得ない。リラの言う通り、今後4年間の共和党の再生は、アメリカの民主政にとって大きな岐路となるかもしれない。

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 リラが共和党の空洞の危険性を指摘したとすれば、大屋はリベラル派内部に見られる対立が、攻撃的な批判により表現の自由を萎縮させる状況を招いていることについて論じる。『ハーパーズ』誌掲載の「正義と開かれた議論についての公開書簡」は、「キャンセルカルチャー」と呼ばれる傾向を批判し「左右を問わない非リベラルな傾向に対抗して情報と意見の自由な交換、、、、、、、、、、、というリベラルな社会の原理(強調点原文ママ)」を取り戻すことを主張した。この書簡の署名欄に並ぶのは著名な人々の名前であることから、この書簡が言論の自由を独占しようとする権力性をすでに孕んでいることを大屋は認める。しかしそのこと以上に、大屋が強い警鐘を鳴らすのは、「キャンセルカルチャー」を推し進めるリベラル派内部の衝動的な主張に、「記憶の破壊と無知」や「無反省な自己中心主義」が横行している点である。

 「キャンセルカルチャー」は、この数年間デジタルメディアを主戦場として起きた様々な批判現象の総称である。銅像の撤去はそのごく一部にすぎない。だが、特にトーニー裁判官の像に関しては、アメリカ合衆国憲法と統治機構の変遷を考える上で象徴としての意味合いが大きいので私は言及せざるを得ない。冒頭の写真の空になった座席は、記憶の破壊として理解するべきなのだろうか。それとも古い土台の上に新たな記憶と展望が引き継がれる機会としてみるべきだろうか。

 ボルチモアの人々が2010年代の後半に起きたことを冷静に振り返ることができるようになり、この空いた台座の処遇を決めるまでには、思いのほか長い時間がかかるかもしれない。地元紙『ボルチモア・サン』の報道によれば、現在もトーニー裁判官の銅像は市政府所有の倉庫(ただし場所は非公開)に一時保管されているとのことである。市内のいずれかのミュージアムに、但し書きをつけて展示をする可能性は検討されているが、引き取ることを積極的に名乗り出る機関はまだ見つかっていないようである。他方で、銅像を鋳直して、公民権活動家の像に作り変え、元の台座に据えるべきだという声も存在するようだ。こんにちのボルチモア市の住人の3人に2人が黒人であること、またいまだに居住地域の住み分けと貧富の格差が人種の分断線の上に引かれていることを考慮すれば、この流れも自然なことのようにも思える。

 鋳直された新たな銅像にも、「ドレッド・スコット対サンフォード判決」とトーニー裁判官、そしてその像を建立した19世紀末の事情について、説明は添えられるだろう。少なくとも、ボルチモアにある大学の研究者はそうするように助言するだろう。またトーニー裁判官が左手で支えていたアメリカ合衆国憲法が連綿と続いていることは、必ず何らかの形で語り継がれ、ボルチモアに暮らす人々の間で議論されていくであろう。そのように、私は信じている。

(アメリカ南部州の各地に点在する類似の銅像の建立の経緯については、『アステイオン』93号掲載の清水さゆり「「アメリカの世紀」と人種問題の蹉跌」に詳しく説明されているので、そちらをご一読いただきたい。)

平松 彩子(ひらまつ あやこ)

南山大学外国語学部英米学科講師

アステイオンVol.93

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