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現代世界の新たな「羅針盤」? ―『新しい地政学』をめぐって―

新しい地政学

著者 北岡 伸一/細谷 雄一編
  田所 昌幸、篠田 英朗
  熊谷 奈緒子、詫摩 佳代
  廣瀬 陽子、遠藤 貢
  池内 恵
 
発行 東洋経済新報社
発行日 2020年3月12日
目次  
序章 古い地政学と新しい地政学(北岡伸一)
<第Ⅰ部 理論的に考える>
第1章 新しい地政学の時代へ(細谷雄一)
第2章 武器としての経済力とその限界(田所昌幸)
第3章 国際紛争の全体図と性格(篠田英朗)
<第Ⅱ部 規範・制度で考える>
第4章 人権の普遍性とその濫用の危険性(熊谷奈緒子)
第5章 国際協力という可能性(詫摩佳代)
<第Ⅲ部 地域で考える>
第6章 プーチンのグランド・ストラテジーと「狭間の政治学」(廣瀬陽子)
第7章 「アフリカの角」と地政学(遠藤貢)
第8章 「非国家主体」の台頭と「地域大国」(池内恵)
終章 中曽根康弘の地政学(北岡伸一)

伊藤 頌文(いとう のぶよし)

防衛省防衛研究所 戦史研究センター 国際紛争史研究室 研究員
2018年度鳥井フェロー

現代世界の新たな「羅針盤」?
―『新しい地政学』をめぐって―

伊藤 頌文
Nobuyoshi Ito

調査研究

現代世界の新たな「羅針盤」?
―『新しい地政学』をめぐって―

伊藤 頌文 Nobuyoshi Ito

 冷戦の終結から30年が過ぎ、「ポスト冷戦」期の終焉も語られつつあるなかで、リベラルな国際秩序の行方に対する不安が広がっている。そのような傾向を反映して、世界の在り様を理解する方法としての地政学が、再び注目を集めるようになった。地政学という概念は、それ自体に明確な定義が確立しているわけではなく、きわめて曖昧なものである。しかも学問の軍事利用という歴史的経緯もあって、とりわけ日本ではこの用語が強い拒否反応を引き起こすことも多かった。一方で、特に安全保障や戦略を語る際に地政学という言葉はしばしば用いられてきたし、国際関係において遠近を含む地理的な要素が国家の政策決定に作用するであろうことも容易に想像できる。同時に、人間の活動領域が宇宙やサイバー空間へと広がり、情報通信技術が圧倒的な早さで進化し続けていることを考えると、現代世界を従来のような地理的近接性、あるいは大陸国家と海洋国家、中央と周縁といった単純な構図では捉えきれないのも明らかであろう。
 サントリー文化財団の「新しい地政学の時代における国際社会を考える」研究会による成果物として出版された『新しい地政学』(以下「本書」と表記)は、地政学的な視点から現代世界を眺め、その現状と展望を論じる材料を提供してくれる一冊である。表題にもなっている「新しい地政学」は、旧来の地政学的思考を引き継ぎつつ、時代の変化に応じた現代的な諸論点を取り込んで発展させたものである。本書で扱われる範囲は実に幅広く、理論的・歴史的な分析に加えて、規範や制度の側面にも光が当てられるほか、世界大の影響をもたらしている地域的な問題も取り上げられる。各章の内容はいずれも独立した一つの主題として語られ得るものであるが、「新しい地政学」という同一の視座を導入することでそれぞれが有機的に結ばれ、現代世界の複雑かつ重層的な姿を浮かび上がらせている。そこで以下では、本書の内容に多くを負いつつ、読後感を含めて若干の論点を提示してみたい。
 まず取り上げたいのは「地図を見る・読む」という行為のもつ意味である。たしかに移動手段の発達によって世界の時間的・心理的な距離は確実に短くなっているし、インターネット空間における情報は瞬く間に伝達されるようになった。とはいえ、空間としての絶対的な距離は今も昔も変わらない。そこから生じる問題は「新しい地政学」の時代においても重要性を失わないと思われる。たとえば中国の台頭は現行のリベラルな国際秩序に対する最大の挑戦であるといえるが、地理的に近接して歴史的関係も深く、その軍事的脅威にも直面する日本と、ユーラシア大陸の反対側にあって直接的な干渉を受けにくい欧州とでは、その対応や危機感に違いが生じるのは十分に考え得ることであろう。翻って、「アラブの春」を発火点として悲劇的な状況が続く中東情勢について、大量の移民・難民が押し寄せて混乱含みの対応を迫られている欧州連合(EU)と、そうした危機意識が相対的に希薄な日本という対照的な状況も、地理的な要因が作用している点では同根である。
 東アジアあるいは極東に位置する日本で暮らす一般市民にとって、中東やアフリカなどの遠い場所で起こる出来事への実感が湧きにくいのは、ある意味で自然なことなのかもしれない。もちろん、実際には様々な形で世界の動きが日本にも影響を及ぼしているのであり、グローバルな視野を欠くことは問題だが、さりとて地理的な遠近による関心の濃淡を無視することも不適切であろう。陸と海、中心と周辺といった古典的な地政学的思考にとどまらず、常に世界を俯瞰する意識を保ったうえで個別の問題を眺める態度にこそ、「新しい地政学」の本質が表れているといえる。その意味で、地理的な要素への目配り、「地図を見る・読む」ことの重要性は一層高まっていくのではないか。
 また、本書の議論を通して、依然として国際社会の主要な構成員の地位を占める国家という存在がもつ強靭さも、改めて浮き彫りになると思われる。グローバル化の進展とともに国家間の相互依存がより顕著になり、国際機関や非国家主体の役割や存在感がこれまで以上に高まっているのは事実である。その一方で、昨今の様々な事例を眺めると、逆説的に国家という制度・組織の重みが増しているようにも見受けられる。たとえば、アメリカのトランプ政権による自国第一主義やイギリスのEU離脱、各国で台頭するポピュリズムなどがすぐに思い浮かぶだろう。リベラルな国際秩序にとってこの傾向は決して好ましいものではないが、その背景には急速なグローバル化に取り残された人々の不満の高まりがあり、リベラルな政治勢力やエスタブリッシュメントが彼らの存在や声を軽んじてきたことの代償ともいえる。グローバル化の負の側面が表出することへの反動として、国家が再び強調されるようになるのは大衆社会における一つの帰結であり、これらの現象を単に悪しきナショナリズムの発露と切って捨てるだけでは、問題の根本的な解決にはつながらないだろう。
 国家の重要性という観点でいえば、様々な分野で国際協調が進む時代において、特に政治や安全保障にかかわる国家間の深刻な対立が生じることも、何ら珍しい現象ではない。たとえば、経済相互依存が深まる一方で日中間の政治的・軍事的摩擦が発生し、それが産業界にも大きな影響を与え、サプライチェーンを多角化する重要性が認識されたことは記憶に新しい。また、日韓の歴史認識をめぐる政治的な対立は、東アジアの安全保障体制の枠組みにまで波及している。加えて、具体的な政策を履行するのは、多くの場合において依然として国家単位である。とりもなおさず、国際的な人の移動や出入国管理、検疫といった施策を実行する国家の役割の大きさとその意味を、我々はまさに今般の新型コロナウイルス問題を通して再確認することになった。世界がさらに一体化しつつある時代にあっても、国家の存在感は今後も相応のものであり続けるだろうし、そこに「新しい地政学」を媒介とした国家論の可能性も広がるように思われる。
 本書で扱われる「新しい地政学」の概念が、地政学という言葉によって一般に想起される範囲を大きく超えていることは前述の通りだが、その特徴がさらなる議論の有益な土台を提供しているともいえる。経済や人権、グローバル・ガバナンスといった諸論点は、従来の地政学においてはあまり顧みられなかった分野であるし、本書が提示する「新しい地政学」との接続によって、より深い理解にもつながるだろう。それと同時に、宇宙やサイバーなど、古典的な地政学の時代にはなかった空間も人間社会の構成要素となるなかで、地理と歴史に根差して世界を理解する試みとしての「新しい地政学」が、どこまでの説明能力を有するのか、そして今後どのような論点が加わり、いかなる議論の蓄積や深化が進むのか、ここから広がる興味は尽きない。
 本書が掲げる多様で豊かな知見に触れつつ、日本と世界の来し方と行く末をじっくりと思索することは、先行きが不透明な現在の国際社会を考えるうえでも有意義な営為となるだろう。その意味で、「新しい地政学」は我々にとって新たな「羅針盤」のような存在なのかもしれない。本書を触媒として、今後どのような議論が展開され、思考が深まっていくのか、一学徒として非常に楽しみである。

新しい地政学

著者 北岡 伸一/細谷 雄一編
  田所 昌幸、篠田 英朗
  熊谷 奈緒子、詫摩 佳代
  廣瀬 陽子、遠藤 貢
  池内 恵
 
発行 東洋経済新報社
発行日 2020年3月12日
目次  
序章 古い地政学と新しい地政学(北岡伸一)
<第Ⅰ部 理論的に考える>
第1章 新しい地政学の時代へ(細谷雄一)
第2章 武器としての経済力とその限界(田所昌幸)
第3章 国際紛争の全体図と性格(篠田英朗)
<第Ⅱ部 規範・制度で考える>
第4章 人権の普遍性とその濫用の危険性(熊谷奈緒子)
第5章 国際協力という可能性(詫摩佳代)
<第Ⅲ部 地域で考える>
第6章 プーチンのグランド・ストラテジーと「狭間の政治学」(廣瀬陽子)
第7章 「アフリカの角」と地政学(遠藤貢)
第8章 「非国家主体」の台頭と「地域大国」(池内恵)
終章 中曽根康弘の地政学(北岡伸一)

伊藤 頌文(いとう のぶよし)

防衛省防衛研究所 戦史研究センター 国際紛争史研究室 研究員
2018年度鳥井フェロー

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