SUNTORY FOUNDATION WEB ESSAYS

想像の未来とその向こうの今

堀江 秀史(ほりえ ひでふみ)

東京大学大学院総合文化研究科助教
2016年度、2017年度鳥井フェロー

アステイオンVol.91

『アステイオン91』
サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編、CCCメディアハウス 発行
※書影をクリックするとAmazonサイトにジャンプします

アステイオンWebサイトにて目次をご覧いただくことができます。

想像の未来とその向こうの今

堀江 秀史
Hidefumi Horie

アステイオン

想像の未来とその向こうの今

堀江 秀史 Hidefumi Horie

 2019年12月発行の『アステイオン』91号は、よく売れたそうである。「可能性としての未来」と銘打たれた同号の特集では、「100年後の日本」を、世代と性別、そして専門を異にする、主として国内の学者たち計64名が論じている。本稿は、この評判を呼んだ特集を記念したイベントの報告である。イベントは、2020年1月24日、東京大学駒場キャンパスⅠにて開催され、池内恵・東京大学教授と待鳥聡史・京都大学教授の両講師に対して、『アステイオン』編集部の小林薫氏が質問するかたちで進められた。

特集論考に寄せて
 講演はまず、両氏がこの特集に寄せた内容を掘り下げるかたちで始まった。
 池内氏は特集の締めの位置に、「一〇〇年後に記された「長い二一世紀」の歴史」と題した黙示録を寄せている。その要諦は、デジタルメディアの隆盛による区分の喪失である。近代において重要視された百科事典的で体系的な情報は、「ガリ勉」によって個人の頭へと移管され、それが頭の良さと見做されてきた。しかし現在、情報は無数にクラウド上に保管され、そこにうまくアクセスし、それらを統合できることが頭の良さの証明として受け取られるようになっている。自動翻訳の発達で、言語的な障壁も取り払われつつある(特集の論考では、文字情報と音声、映像情報との区別も失われるとしており、これは日常的なインターネットの使用経験からよく理解される)。情報を何語で認識したかは不問となり、またそれを誰がいつ発したかも問題にならない状況が生まれつつある。即ち、名前や行動の日付など、ラベル的な情報によって統合されていた個別具体性(オリジナリティやアイデンティティ)が、喪われていくのである。また、英語学習がますます重要視され、事実上の世界言語となりつつあるいま、英語は翻訳の媒介を担う言語となっている。このことが、翻訳機にかけたときに英語に直しやすい言葉を選ぶというかたちで、日本語をも変容させるとした。
 関連して待鳥氏は、国外逃亡したカルロス・ゴーンが海外で行なった会見の訴求力に触れ、海外への発信力は、欧米言語的な思考に馴染みやすい言葉選びや論理構成を身につけることが肝要だが、日本語と欧米言語には開きがあり、日本語を基盤にものを考えることが、海外への発信力の弱さとなっているとみる。その繋がりから、池内氏が触れた、日本語の英語変換の問題を興味深く思うとした。言葉とは思考そのものであり、英語(になり易いかたち)でものを考えることは、思考様式の変化も意味する。そしてその変化は、日本文化そのものの変容をも導く。これは今後どう考えていくべきか、と問いを開いた。

 待鳥氏の特集論考「それでも民主主義は「ほどよい」制度だろう」は、政策決定の場面で、ビッグデータを処理して民主的正当性を伴った「最善」解を導くAIが発明されようとも、不完全ながらも随時それを人間の手で修正することができる代議制民主主義は存続すると論じている。加えてこの場にて、織田信長やナポレオンといった天才的政治家の判断の背後には、紹介されることなく埋もれた数々の失敗例がある、とも語った。人間には到達不能のビッグデータというブラックボックスのなかでくだされ、遡った検証が不可能となるAIの判断に頼っていては、問題が起こったときに対処しようがなく、決定的な破綻を招きかねない。失敗も想定して織り込み、修正可能な段階が存在する体制はやはり必要だ、という見解である。さらには、政治においては、100の内99までは合理的に進めても、最後の1で例外的で不合理な判断が挟まれることがある。それが上記の天才たちの持った力でもあった。これも、AIには持ち得ない代議制民主主義の力である。

学問と大学の未来
 話題は、学問と大学の未来へと移された。「30年後ならまだしも」と書く論者が多い特集であったが、では、その比較的予測しやすい30年後と、かなり不確実で論者たちにとって難敵となった100年後に「学問と大学」は、どうなっているか。
 池内氏は、今から30年前に行なわれた1990年代の大学院重点化は、それまでの一子相伝的な大学運営を変えたとみる。大学院とそこで学ぶ者を増やして競争原理を導入した。その帰結として現在、ポスドク人材が溢れたが、一方で人口減に伴う経済規模の縮小がある。それに対応させるべく、人員削減と有期雇用が溢れる現状が生まれた。これからの30年で、それが行きつくところまで行く。恒常性が薄れて人とお金が足りない大学へ、企業の寄付も見込めなくなる。辿り着くのは、相続税対策などの実利を伴う個人の寄付である。大学はこのとき、「あなたが個人として残したいものは何か」と問い、それを大学に託さないか、というかたちで寄付を募ることになるだろう。窮乏化の果てに大学は、有限な人間が何を残すかを問いかける「本当の場」になっているかもしれない。
 100年後については、特集論考で記している通り、心とか理性とかといったものが個人に存するという近代固有の考え方が通用しなくなり、それらが個人から切り離される状態が生じている筈である。それは古代において哲学や宗教が理性を人間一人一人を超えたところにあると捉えていたことと重なる。人間は、コンテンツを自分の外に置き、広大な砂場でシャベルひとつを手に持つような存在となるだろう。以上池内氏による見解である。

 30年後のような線形的な予測が立てられない故に、100年後の予測は難しい、と待鳥氏は語る。100年の間には、例えば100年前と現在には戦争が横たわっているように、必ずや断絶や飛躍がある筈だからだ。待鳥氏は、この困難な予測に先だって、大学の100年前を振り返る。すると、100年前は、日本で帝国大学の数が増え、私立大学も認可されたころだったと分かる。これらの近代的な大学は、国民国家の理念を根底に、研究と教育を一体化させたものである。即ち国という単位を前提に成立したのが現在に続く大学なわけだいている。その大学はいま、英語の業績を伸ばすことを奨励され、結果として人材の海外流出を招いている。興味深いのは、国がこれを国力の強化の方策と位置付けていることだ。日本語での教育や研究を行なってきた国民国家のツールとしての大学において、「グローバル化」を推進すれば、国という縛りは緩くなり、国民国家の解体へと繋がる。こうした実情と反対に、国がそれを「国際化」によって国力増強に繋がると位置付けているのは奇妙である。これは30年後や100年後に影響を及ぼすだろう、と指摘した。
 池内氏はこれを受けて、100年後、国民国家の教育システムとしての大学入試が意味を成さなくなったとき、一人一人を国がきちんと教育するのではなく、権力をもった個人が実子を哲人政治家として養成する制度、即ち家庭教師の時代がくると、大胆に予想する。一般に、いまあるものが、たとえ30年後の段階で成功と見なされても、60年後には失敗になるということがある。こういうとき世は、正反対の方向に振れる。大学に話を絞ると、もう30年もすると、国民国家のシステムとしての大学はもたなくなる。そうした大学の反対の方向にあるのが家庭教師であり、大学人は、権力者や金持ちの家庭教師として、自らの活路を見出すのではないか、と述べた。

大学人が一般向けに書くことの意義
 イベントの最後に、『アステイオン』は書店にも並ぶ一般向けの論壇誌であり、学会誌とは性質を異にする。専門家コミュニティへではなく、一般に向けられた媒体に書くことの意義をどう捉えているかとの問いがあった。
 これに待鳥氏は次のように応じた。特に生活の根拠地が物理的に定まっているうちは、国民国家の言語的な紐帯は大切である。現在アメリカに見られるような分断の構図が日本でも深刻化することがないように、一般の人に学術的な知見を開く媒体が必要である。あるいは、政治学は特に、社会の成員たちが何を疑問に思っているのかを意識すべきで、国民国家の結びつきが弱くなりつつある今だからこそ、なお意識的に、日本の社会において日本語で一般の人々のために学問の知を開いていく必要があるのではないか。
 池内氏の回答はこうである。過去30年を経て、大学改革は、英語、査読付き、引用数多、即ち影響力を持つことを推奨するといういまの傾向へと帰結した。そこでは、世界で適用可能な普遍性をもつもの、あるいは経験則に反する奇抜な内容が評価される。こうした専門的業績ばかり求めるひとは、これから『アステイオン』のような一般誌には書きたがらなくなるだろう。しかし、これがもう30年続いたらどうなるか。この傾向が辿り着く先は、特定の国家の政治にとって意味がない論考ばかりが書かれ、それを国が税金で支える根拠が見出されなくなるという状況である。業績にのみ価値を見出していると、結果、自らが苦境に立たされるようになるわけだ。こういうときに、一般向けに書いていると、それを読んだ親から家庭教師の依頼がくる。そこで必要なのは家庭で使われる母語である。一般向けに書くことの実利性がここにおいて改めて見直される。遠回りして30年後に、身近な人との当然のコミュニケーションの重要性という当たり前のことに気づくことになるだろう。

まとめにかえて
 学問と大学の現状を、未来を占うという方便を使って分析したこのイベントは、結果として大学(学問)と現在の社会の結びつきを捉え直す試みとなっていたように思う。その捉え直しは、社会に育まれた研究がその成果をいかに還元するかという方法の問題へと、即ち、英語か自国語か、術語か通俗語か、それぞれの利点と弊害を考えることへと、落とし込まれていた。
 池内氏の論ずる、あらゆる側面での区分の喪失は、不可避の未来なのかもしれない。それでも、大学がこれからも現実世界の批評装置としての役割を変えないならば、大学人は自らの営為の固有性を主張する存在であり続けるだろう。既存の区分をご破算にするのも大学なら、それを再統合するのも大学であったはずだ。

 会場で64本の論考のなかでのおススメを尋ねられた際、待鳥氏は論考(論者)を三つのタイプに分けた。①自分の専門をベースにまじめに語るもの、②面白可笑しく化けて語るもの、③ギブアップしてしまうもの(これはそもそもほぼ載っていない)である。そのうえで、待鳥氏は、②では化け方の上手かった五百旗頭薫氏の昆虫譚を、①では「立派」な態度として土居丈朗氏の財政破綻への警鐘を挙げた。池内氏は、皆が書きあぐねる中真っ先に真っ直ぐに提出されたという事実の深みを以て、特集巻頭を飾る、皇室安寧を書いた君塚直隆氏の論考を挙げた。なお、論考の順番は提出順だそうで、池内氏が最後なのは、その苦悩を物語っているとのこと。
 ちなみにわたしは、鳥井信吾氏の論考が印象に残った。サントリー文化財団の理事長らしく、酒の神秘とその研究の見聞を語るものだが、どれだけの科学的分析を以てしても、酒の熟成、その「肌ざわり」は解明されない、ゆえにAIによる再現は不可能だという。一日のゴールのようなウイスキーの香りには100年後も人為が及ばないと聞くと、どこか安心する。

堀江 秀史(ほりえ ひでふみ)

東京大学大学院総合文化研究科助教
2016年度、2017年度鳥井フェロー

アステイオンVol.91

『アステイオン91』
サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編、CCCメディアハウス 発行
※書影をクリックするとAmazonサイトにジャンプします

アステイオンWebサイトにて目次をご覧いただくことができます。

サントリー文化財団 SUNTORY FOUNDATION