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家族的非類似性

今井 亮一(いまい りょういち)

東京大学大学院人文社会系研究科・現代文芸論研究室
2014-15年度 鳥井フェロー

アステイオンVol.91

『アステイオン91』
サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編、CCCメディアハウス 発行
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家族的非類似性

今井 亮一
Ryoichi Imai

アステイオン

家族的非類似性

今井 亮一 Ryoichi Imai

 『未開人の性生活』という、人類学者マリノウスキーの著書がある。小説家の中上健次がこの本を読んで「母系一族」というエッセイを書いた通り、母系社会であるトロブリアンド島民の風俗を探究した書物だ。この中になかなか興味深い話が出ている。

 マリノウスキーによれば、トロブリアンドの人々は妊娠に男は必要ないと考えている。女が子供を孕む理由は「霊」であって、精子ではないのだ。彼らにとって性行為は愛の行為でこそあれ、生殖とは切り離されている。したがって、生理学的な父子関係が欠如している。こうして母系制が作られている。

 だが、一見これと反するような「作法」がある。それは子が誰に似ているか、という問題だ。彼らは母方の親戚を「同じ身体」、父親を「よそもの」と見なしている以上、子供は母方の親戚に似ていると感じられていそうなものだが、事実はその逆だという。つまり、子は父親には似ていても、母親には似ていないとされる。それどころか「タプタキ・ミギラ」という違反さえある。これは現地語で「彼の顔をその親族にたとえることによって冒瀆すること」といった意味で、母親やきょうだいに似ていると述べるなど侮辱なのだ。

 「100年後の日本」をめぐってこの挿話を紹介したのは、母系制になっていると予想するためではない(この父権的な日本で、それだけはあり得ない「可能性としての未来」だと思う)。この話が興味深いのは、「家族は似ている」という当然のような考えさえ、ただの思い込みかもしれないという点だ。それは言い過ぎだとしても、「お母さん/お父さんにそっくりですね」という言葉は、現代日本ではいい意味で使われる場合が多いだろうが、時にそれは冒瀆になるという点だ。もちろん「蛙の子は蛙」という諺もあるように、家族的類似が「侮辱」となる文脈を考えることも難しくない。例えばDVを犯す夫と別れた母親にしてみれば、子供が前夫に似ていると言われるのは、侮蔑とは言わずとも嬉しい指摘ではないかもしれない。それがきっかけのように娘を虐待してしまう母の様子が、面影ラッキーホールの衝撃作「ゴムまり」に歌われているし、中上健次の芥川賞受賞作「岬」は、血縁がもたらすこうした負の類似が重要な主題である。

 ここで未来に想像を向ければ、例えば100年後、子供への遺伝子操作が解禁されていたとしたらどうだろう? 両親は子供へ受け継がれた遺伝子に対し、自分に似てほしいところは残し、似てほしくないところは改変するだろう。これが一般化したとき、「お母さん/お父さんにそっくりですね」という表現は素朴な褒め言葉になるだろうか? もしその「そっくり」な要素が両親にとって似てほしくなかった部分だったら……と、言いよどむことになるのではないか。いや、100年後程度であれば、遺伝子操作が高値もとい高嶺の花となった結果、親に似ていないことが経済的ステータスの誇示となる世界の方が現実的だろうか。

 遺伝子操作はいささか突飛だとしても、第三者からの精子/卵子の提供による出産や、養子縁組の普及など、子供を得る方法はますます多様化していくはずである。こうして生物学的なつながりがない家族が増えた時、「家族は似ている」という言葉はどのような意味をもつのだろうか。

 ところで、先述した通りトロブリアンドの慣習においては、「同じ身体」である母系との類似は「冒瀆」となる一方、実は父親との類似は自慢の種となる。彼らの社会では、子供を抱いたり膝に乗せたりしてあやす、背負う、洗う、母乳以外の食事を与える、といった仕事は父親の義務であり、子にとって父とは「愛情と保護のもとに自分を育ててくれた男」という存在らしい(ちなみに、だから「母に夫がいない者」は不幸とされる)。そんな父親たちにとっては、一緒にいる時間が長く、自分の手で食事を与えている子供は、自分に似るのがむしろ当然なのだ。ということは、これは私の憶測だが、母系との類似が「冒瀆」となるのは、それが父親からの愛情の不足を示唆するからかもしれない。

 つまりトロブリアンド島民にとっては、生物学的な関係は家族の類似をもたらさず、世話をするといった社会的な関係からこそ類似が生まれる。そしてマリノウスキーによれば、父と子のあいだにはそれ故に「きわめて強い情緒的な紐帯が存在している」。ありていに言えば、血縁でつながっていることより、実際に「家族」としてつながっているからこそ家族は似ているのであり、感情面でもつながっているのだ。この点から敷衍すれば、「100年後の日本」で遺伝子的にはつながっていない家族が増えたとしても、「家族は似ている」という言葉はこの社会的・情緒的つながりを指す言葉として、やはり一種の自慢や褒め言葉として残っているかもしれない。ただ血縁があるというだけで「家族は似ている」とされるのも、考えてみれば不思議な話ではないか。

 もっとも、血縁による家族的類似がマイナスの意味を帯びる場合を先に挙げてみたように、育てた愛情によってこそ親子が似るという考えの負の側面を考えることも、難しくない。高学歴の親が子に受験などで過度な期待を押しつける教育虐待は、際たる例だろう。だが、トロブリアンドの文化を一種の鏡として照らせば、そもそも「家族は似ている」という考えをいいとか悪いとか云々するだけでは、まだ一面的な話だ。父親と似ているのはいい、母親と似ているのは悪い、という以外に――というか、もしかしたらそれ以上に――彼らの基本原則にあるのは、母方の親族と子供は似ていないが家族であるという意識のようだ。「家族は似ていない」、いわば家族的非類似性がここにはある。

 「100年後の日本」を予想することは、つまるところ、「100年後の日本」が「今の日本」とどれだけ似ているか/いないかを考えることだと思う。いまゼロ歳の子供がいれば、100年後といえばその子の長い一生を考えるくらいのスパンだから、親子がどれだけ似ているかという話は案外遠くない。100年後の日本は今とほぼ「同じ身体」を有しているから、きっととても似ている。だが「同じ身体」を有しているだけだから、きっと全然似ていない。いやはや、100年後が今と似ているなんて、冒瀆もいいところじゃないか。トロブリアンドの社会ほどでなくとも、日本でも男性の育児参加は進むだろうし、ほかにも様々な変化を受けるに違いないから、100年後の日本は「よそもの」にこそ似ているはずだ。こうして似ていないからこそ、「100年後の日本」は「今の日本」と「家族」なのだと信じたい。

*引用はすべてB.マリノウスキー『新版 未開人の性生活』泉靖一・蒲生正男・島澄訳(新泉社、1999年)によった。

今井 亮一(いまい りょういち)

東京大学大学院人文社会系研究科・現代文芸論研究室
2014-15年度 鳥井フェロー

アステイオンVol.91

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サントリー文化財団・アステイオン編集委員会 編、CCCメディアハウス 発行
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