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言葉の「彼岸」へ行くために―言葉を尽くした台風前夜―

学芸ライヴ(東京)vol.2
「『表現する』ということ、『伝える』ということ-どもる×チンパンジー-」

日時 10月11日(金)16時
場所 松本楼本店
ファシリテーター 玄田 有史氏(東京大学教授)
ゲスト 伊藤 亜紗氏(東京工業大学准教授)
齋藤 亜矢氏(京都造形芸術大学准教授)

太田 泉 フロランス(おおた いずみ ふろらんす)

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
2018年度鳥井フェロー

言葉の「彼岸」へ行くために―言葉を尽くした台風前夜―

太田 泉 フロランス
Izumi Florence Ota

フォーラム&学芸ライヴ

言葉の「彼岸」へ行くために―言葉を尽くした台風前夜―

太田 泉 フロランス Izumi Florence Ota

 「気の毒に、フランスの王様は顔が半分しかない。」これは清の皇帝が、太陽王として名高いルイ14世から贈られた、横顔で描かれた(プロフィール)肖像画を受け取った際に発した言葉だという。皇帝がそれまでの生涯で一度も人間の横顔を見たことがない、ということは当然無いだろう。この逸話は、肖像画に描かれる人の顔貌というものは正面観であるという皇帝の揺るぎない認識を示している。その認識から逸脱した絵画が驚きをもたらしたのだろう。時代は変わって20世紀、パブロ・ピカソは、様々な視点から見た人間の身体の形態を組み合わせて、慟哭する女性を描いた。有名な《泣く女》だ。清の皇帝が見たならば、どんな感想を漏らしてくれただろうか。再び時代は変わり――今度は我々ホモ・サピエンスの時代を飛び越えて――300万年前へ、南アフリカのアウストラロピテクスの洞窟の住まいからは、直径8センチほどの小石が発見された。マカパンスガットの小石と呼ばれるこの赤褐色の小石は、中央部分に2つの丸、そしてその下に横長の長方形の窪みがあり、まるで少し目の寄ったユーモラスなヒトの顔のようだ。これは被造形物ではなく自然界から選びとられたものだが、彼らはコレクションした。丸い石の上の3つの窪みを顔に見立てたのであろう。

 2019年10月11日、「『表現する』ということ、『伝える』ということ - どもる×チンパンジー -」というテーマで行われた学芸ライヴは、経済学者であるファシリテーターの玄田有史氏が、2名のゲスト伊藤亜紗氏と齋藤亜矢氏を招き、事前打ち合わせなしでとことん話し合うというもので、奇しくも台風前夜であったことも相まってかスリリングに知的好奇心を刺激された。
 美学者で現代アートを専門とする伊藤亜紗氏は、自分とは異なる身体から世界を見たいという願望に端を発し、現在は障害を通じた人間の身体のあり方についての研究を展開する。当日は視覚障害のある人にどのようにスポーツを伝えるか、という取り組みを紹介した。言葉による実況解説では取りこぼされてしまうスポーツの質感―跳躍の前の「タメ」や柔道における力のせめぎ合いや駆け引きなど―を伝えるために、タオルや紐、キッチンペーパーなどのそのスポーツとは全く関係のない道具を媒体として使用する。例えばタオルの両端を両者が持ち、それを競技の動作の瞬間や選手の身体の緊張に合わせて、引いたり緩めたり振ったりすることで、視覚障害者と目の見える発信者が道具を使って協働し、言わば「もう1つの競技空間」を作り上げる。ジェネラティヴ・ビューイングと伊藤氏の呼ぶこの方法は、競技の中の、言葉ではいかんとも伝え難い力の動きや速度の緩急を、道具を使って異なる動きに「翻訳」し、両者は新しい動きを文字通り「生成」する。そこには旧来の情報伝達の理論(伝達モデル)にみる、発信者が情報を例えば言語化して発信し、それを受信者が受け取って解釈するという構図を抜け出た、発信者と受信者がまずコミュニケーションをとることによって、伝達内容が立ち現れてくるという新しい理論(生成モデル)がある。様々な動きを道具で翻訳しスポーツに見立てることで、両者は自身の「視点」を離れて他者のそれを体験することができる。
 一方の齋藤亜矢氏は、京都大学でチンパンジーの研究をされた後、東京藝術大学で博士号を取られた方で、現在は認知科学の視点から芸術についての研究を進めている。チンパンジーと発達段階の人間の子供の描く行為を比較していくことで、なぜ絵を描くのかという根源的な問いに迫る。チンパンジーも各個体で画風が異なり、誰の作品かを様式から弁別することができる。彼らは報酬のためではなく、楽しい、面白いという動機から絵を描くという。人間とは異なり、チンパンジーは自らの描線を何かに見立てるという視点を持たないため、具象を行うことはないそうだが、その作品は人間の抽象画家のそれのようである。
 符号化、という言葉が印象的であった。何かを「伝える」「表現」には、表情や仕草、声、言葉、文字や図などがあり、一旦感じたものをこれらの表現として符号化し、それを通して受信者は解釈内容を得る。後者3つは人間のみが使用するもので、これによって我々の情報伝達は効率化し、社会は発展していった。しかしその利便性の影で抜け落ちたものがあり、それを再び拾い上げることができるのが「アート」の優れた点ではないかと齋藤氏は推測する。

 筆者の専門は美術史、特に西欧中世の金細工作品だ。主たる作品は聖遺物容器で、これはキリスト教における聖遺物(聖人の遺体やその一部、聖人に関連した物品などで、神の力を地上に発現させるメディアとなるもの)を収める高度に宗教的なものである。筆者は常々、中世の人たちがこれらの作品に対して持った感覚を体験したいと願っている。伊藤氏が他の身体から世界を見たいと言うように、自分も中世人に「変身」してその感動を得てみたい。文献を渉猟し、作品の実見調査を重ねるに従って、片鱗のようなものを掴めたようであっても、それはやはり言葉による理解であり、ましてや信仰心を持たない身には作品を通じて神の荘厳を感じることは難しい。作品を前に熱狂する心は、美術史的・近代的な文脈でそれを賛美し興奮する歓喜であり、そこからの脱却は絶望的なように思われた。
 しかしながら筆者は得難い体験をすることになる。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼である。スペインの北西部に位置するこの都市は、聖ヤコブの墓を擁し、その遺体つまり聖遺物にまみえるために中世以来多くの人がこの地への巡礼を行った。巡礼路上の芸術作品を見たい、そして中世人の歩いた道のりを同じく徒歩で追体験してみたいという願望のもと、「フランス人の道」を歩くことにした。時は8月半ば、40度を超えることもある灼熱の日差しの中、木陰もない巡礼路を1日30キロ近く歩くのは想像以上に苦しい体験だった。日の出前に起き、暗いうちから歩き出し、午後4時ごろにようやく1日のノルマの距離を終える。村の巡礼宿に空きがなければ、棒になった脚を引き摺って次の村まで行かなくてはならない。足は水ぶくれだらけ、毎朝靴を履くたびに涙が出るほど痛い。巡礼路は私有地や牧場の中も通るが、ある早朝には、ロバに太ももを噛まれまでした。苦難の道である。Wi-fiもない、パソコンもない。村々を歩いて巡る旅で、毎日小さな教会や礼拝堂を訪れていた筆者は、大都市レオンの大聖堂に辿り着いた際、衝撃を受けた。「こんな凄いものを人間が作れるはずがない、神の領域だ」。

 美術史学の基本要素にディスクリプションという手法がある。それがどのような作品かを言葉で説明することで、仔細な作品観察を行う(筆者は無類のディスクリプション愛好者であり、作品を前に延々と言葉を発し続けてしまう)。美術史を研究する立場としては、中世ヨーロッパに制作された作品を有機的に理解し、その機能や意義を論じるために、作品がその只中にあった枠組みを言語を介して身につけることを常々目指している。この枠組み無くして作品を論じることは叶わないが、当然これでは言語を介した理解を逸脱することはできない。その一方で巡礼の生活では、非常に身体的な経験が大聖堂の荘厳さをまるで雷のように伝えてくれた。足を痛め、体力を使い、そして画像データに溢れる現代社会から離れることで視覚までも日常から逸脱する。スポーツを理解するために、道具の翻訳の力を借りて、別の視点、他者の感覚を獲得するジェネラティヴ・ビューイング同様、筆者も身体の状態や情報入手環境を変えることで、作品を理解するための異なった文脈を獲得できたように感じられる。

 冒頭の清の皇帝が見た肖像画がどのようなものだったのかは分からない。息を呑むような美しさだったかもしれないし、駄作だったかもしれない。何れにせよ皇帝のコメントは自らの肖像画の規範という枠組みに縛られたものである。枠組みは時に必須であり、時に邪魔になり、時にそこから自由になりたいともがく枷のようなものかもしれない。我々人間の殆どは言語という枠組みから逃れることはできない。しかしそこにはほんのわずかな隙間があって、その隙間に伊藤氏は言葉を介さない新しいコミュニケーション、齋藤氏は「アート」――高度化された現代の社会においても変わらない、人間のある種原始的な部分――を突破口に迫ろうとする。現代人が人間の原始的な部分を見つめ直すことに期待しながら、改めてマカパンスガットの小石を見るとその表情はより一層ユーモラスに見えてくる。

学芸ライヴ(東京)vol.2
「『表現する』ということ、『伝える』ということ-どもる×チンパンジー-」

日時 10月11日(金)16時
場所 松本楼本店
ファシリテーター 玄田 有史氏(東京大学教授)
ゲスト 伊藤 亜紗氏(東京工業大学准教授)
齋藤 亜矢氏(京都造形芸術大学准教授)

太田 泉 フロランス(おおた いずみ ふろらんす)

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
2018年度鳥井フェロー

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