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サントリー地域文化賞 | 地域文化を考える/インタビュー

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地域文化はこれからが楽しみ

下河辺 淳氏

Atsushi Shimokobe

東京海上研究所理事長

[プロフィール]
サントリー地域文化賞選考委員。1923年東京生まれ。東京大学建築学科卒業後、戦災復興院入所、国土庁事務次官、総合研究開発機構(NIRA)理事長を経て現職。戦後の日本の国土計画に携わり続ける。

「地域文化ニュース」第16号(1997年7月)掲載

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――今日は、長年、日本の国土計画に携わり、マクロな視点で日本全体を御覧になっていらっしゃる下河辺先生に、時代の流れと地域の文化の関係についてお伺いしたいのですが。


下河辺 最近、縄文文化が話題になっていますが、これはわからないことが多いだけに楽しいですね。全国の遺跡をたどってみると、どうも黒潮に乗って小舟が流れ着いたところに、縄文文化が伝播していったようなのです。そしてさらに面白いことには、その構造は今でも続いているように思えるのです。日本列島の自然条件が、文化を伝えるとても大きな基礎になっている。

  文化の伝わり方

 奈良・京都に都があった時代は、主に日本海沿いに文化が伝わっています。この時代には、「小京都」なんていって、都の文化があることを自慢していたんですね。江戸時代にもそういう文化の伝わり方というのはありますが、江戸の文化というのは、全国各地の文化が江戸に集まって洗練されてできたものなんです。
 あの頃は、「特産物」というのはモノだけでなくて、学問から芸能、さらには動物とか虫とか植物まで「特産物」といっていたんです。それは、文化そのものといってもいいのではないでしょうか。三百諸侯、様々な文化が花開いていて、文化がお国自慢になっていた。それが江戸に集まってきて洗練され、海外に出て、非常に高く評価されたのです。当時のヨーロッパのアーティストにいろんな影響を与えていますよね。そう考えると、「日本ってなかなかいい国なんだなぁ」って思いますね。
 ところが、明治維新になると、今度は西洋文明を導入することがテーマになるんですね。その中で一番大きいのは鉄道文明じゃないでしょうか。西洋の文化が東京を窓口にして日本に入ってきて、鉄道に乗って全国に伝わってゆく。それが「駅前文化」として庶民化してゆくとともに、また、東京から地方に文化が流れてゆくという構造に変わったのですね。そして、東京で直接異文化に触れたいと思った地方の若者は、鉄道でどんどん東京に出てくるようになった。
 戦争中には、一時、政府が大政翼賛会型の文化を強化しようとして、地域文化の振興に力を入れた時期もありました。でも、戦後になると、今度はアメリカ文化が入ってきて、その方向はまた180度変わってしまうのですよね。なにしろアメリカ文化というのは、大衆性をもっていて伝播力がありますからね。あっという間に全国に伝わっていったのですね。
 そして、日本は産業優先で経済大国になりました。昭和50年代には、梅棹忠夫先生や山崎正和先生たちから、産業に偏重することへの警告が発せられ、また一方では、自民一党体制への反発から地域主義者の革新系首長も出てくるという流れが生まれました。これが一種の文化活動になっていった。
 しかし、今日では産業優先でも自民党一党体制でもなくなったので、敵を見失った文化活動が方向性とかエネルギーを失いかけているように思えます。

――そうすると、これからは、どういう流れの中で新しい文化が生まれてくるのでしょうか。


下河辺 恐らく、想像していなかったところから、想像もしていなかったものが突然、突出してくるのではないでしょうか。ですから本当は、静かに待っているのが一番いいんだと思うのですが、私なんかは楽しみで、ついついいろんなことを考えてしまうのです。

  東京を出てゆく人たち

 その一つは、浮浪してきたアーティストが住み着いて、地域で活動を始めるということなんです。日本には、昔からそういう伝統があったと思うのです。近年では、利賀村の鈴木忠志さんや富良野で演劇塾を開いている倉本聡さん、サントリー地域文化賞を受賞した田中泯さんの例がありますよね。山梨の富士山のふもとで、農業をしながら舞踏芸術を磨いているのですが、田中さんの舞踏は日本よりも海外で大きな評価を受けている。
 こういうことは、芸術の分野だけで起きているのではないのです。異文化との出会いを求めて東京に集まってきた人たちの中で、東京を出て行く人たちが少しずつ増えてきました。
 統計では、昭和15年から25年の10年間に生まれた人たちの3人に1人が東京に住んでいます。ほかの世代と格段の差があって、こういうのは人類史上、世界にも例がありません。この異常さは、経済からだけでは説明ができないのです。そして今、この世代の人たちが、これからの人生を選択しなければならない時期になったのです。会社員が大部分ですが、定年退職が目の前に見えて来て、価値観が非常に分かれてきた。かなりの部分がこのまま東京で死ぬことを選択するのですが、東京を出て、地方や海外に住むことを選ぶ人たちも現れてきたんですね。
 20世紀文明というのは、アスファルトだとかコンクリートだとかの人工的なもので都市を作っていくものだったのですが、それを人々が半分否定しはじめるようになり、自然の中で生きたいということが、東京を離れる大きな動機になっています。
 それから、20世紀というのは芸術からスポーツにいたるまで、すべての文化空間をイン・ドア化してしまったのですが、21世紀に向けてアウト・ドア化の流れが出て来たということも、これからの地域文化を考えるうえでの大きなテーマになると思いますね。

  “佳疎”と“光齢化”の時代

 そして、こういう人たちが小さな町や村に行くと、東京で身に着けた技術や文化がその地域で役に立って、地域での出会いから、新しい文化の動きが生まれたりもするんですね。
 ですから、私は、いつまでも過疎を嘆いている時代ではないと思っているのです。人が多すぎないからいい、自然が多いからいいという側面もある。「過疎」という字は「佳疎」に変えた方がいいのではないでしょうか。それから、「高齢化」というのもイメージが悪いから「光齢」にしたらどうでしょうかね。
 現在65歳以上の人は1900万人いますが、その中で社会的に介護を必要とする方は300万人ぐらいなのです。後の1600万人のうちの90%ぐらいは、家を持っていて、貯蓄は若い人よりはるかに多い。そして、部分的には肉体的不自由を抱えていても、それ以外は健康で、時間の自由もあり、世界的に見てかなり高学歴なんです。こういうシルバー世代が余生を楽しむようになって文化的マーケットをつくり、若者の経済活動の対象になって行けばいいんじゃないでしょうかね。
 これからの産業は文化とか健康とか環境とか、今まで行政が担当していたものが中心になると思うのです。ですから、産業がビジネス・チャンスをつかみながら文化のレベルを引き上げてゆくようになれば、とても面白いと思うのです。

――文化のあり方がガラっと変わりますね。


下河辺 先が見えないと言って日本の将来を嘆く人がいますが、私は全くそうは思わないんですね。これからが、まったく楽しみなんです。
(所属・肩書きはインタヴュー掲載時のもの)

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