冒頭を読む

 

国家、政党、国民
― 重心なきトライアングルの政治史

清水唯一朗

(慶應義塾大学総合政策学部教授)

騒がしい幕開け ― 明治維新の理想と現実

明治維新は理想を掲げた幕開けだった。新政府は五カ条の誓文により、公議輿論の樹立、国民の一致団結、自己実現社会の実現、因習を打破して世界に学ぶことを新しい国家の所信として示した。いささか理想的に過ぎる嫌いはあるが、260年の安寧をもたらした徳川政権を乗り越えるだけの正当性を得るためには、それだけのインパクトが必要であった。

もっとも、そうした理想がすぐに実現するほど甘くない。何より長い間安定した社会で生きてきたひとびとにとって、維新は、これまで経験したことも考えたこともない激変であり、国家はこれまで出会ったことのないものであった。

明治2年、公議輿論を実現するための場として公議所が設けられた。全国260藩の代表が一堂に会して議論するなど、誰も経験したことがない。集められた議員たちは漢学の素養を持つ藩の重臣であり、洋学を修めた政府委員と激しく衝突した。茶屋に集まっては談合を重ねて多数派工作を重ねた。両者の対立は廃刀令をめぐって頂点に達し、先行きに不安を覚えた政府は公議所を縮小改組してしまった(山崎有恒「明治初年の公議所・集議院」鳥海靖ほか編『日本立憲政治の形成と変質』吉川弘文館、2005年)。公議輿論の導入は時期尚早、挫折を余儀なくされた。

市井のひとびとにとっても、新政府の改革は性急なものであった。旧社会の秩序は壊され、情報は錯綜する。物価高を見越して借金をしてまで生産拡大に踏み切った生糸農家を、国策によるデフレが襲う。彼らは担保として差し出していた土地を失ってしまう(松沢裕作『生きづらい明治社会』岩波書店、2018年)。

急激に変化する国家の不条理に、ひとびとは不満を募らせていった。自己実現社会はどこにいったのか。何を信じて生きて行けばよいのか。理想ではじまった新しい国家は、ほどなく変化と不安に苛まれる苦しい現実を生み出していった。

舞台を照らす光明 ― 憲法の制定

苦境のなかに一条の光として差し込んだのが憲法制定である。明治維新から20年間、国政に声を届けられなかったひとびとが、国会を通じて意見を表明することができる。政治参加の道が開けることへの期待はもちろんであるが、国家の基本法が定められることは、一定の方針のもとで国家が運営されていく安心感をもたらした。五日市憲法をはじめ、多くの私擬憲法案が書かれたことは、参加の欲求と共に安定の希求の現われであった。

憲法の原語であるconstitutionは「共に立てる」の意味を持つが、大日本帝国憲法は国民が「共に立てる」ものとはならなかった。数多の私擬憲法案が物された一方で、伊藤博文ら起草者たちは外界と遮断して立案に臨んだ。公議所の反省からであろうか、百家争鳴を避け、理想に走り過ぎず、実現可能であることが重視された。

「共に」立てるという意識を担保したのは天皇であった。のちに無二の存在感を放つ明治天皇も即位した時は年少であり、ひとびとは将軍を最上位の存在と捉えていた。憲法制定までの20年、新政府は天皇を国家の頂点とする「君徳培養」に取り組んだ(笠原英彦『天皇親政』中央公論社、1995年)。天皇は、憲法草案の審議に連日臨御することで憲法の位置を確かなものにすると共に、国家元首、国民の庇護者としての自らの地位を確立した。


清水唯一朗 Yuichiro Shimizu
(慶應義塾大学総合政策学部教授)

1974年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻後期博士課程単位取得。博士(法学)。東京大学特任助手、ハーバード大学客員研究員などを経て現職。専門は日本政治外交史、オーラル・ヒストリー。主著に『政党と官僚の近代』(藤原書店)、『近代日本の官僚』(中公新書)、『憲法判例からみる日本』(共編著、日本評論社)など。

 

地方社会と明治憲法体制
― 官僚・政党・町村長

池田真歩

(北海学園大学法学部講師)

はじめに─国家と地方社会を繋ぐ回路

国内人口はおよそ4,000万人、対外戦争を経ておらず国土の外縁は現在とほぼ同じだが、北海道と沖縄は本土と異なる法律体系の下に置かれている。国民の過半が農業を営み、町村が大合併を経てなお1万5,800を数えるのに対し、人口2万5,000人以上の自治体たる市の数は40に満たない。大日本帝国憲法が発布された1889年の、年末時点における日本の概況である。

明治憲法は、明治維新を主導した薩摩・長州藩出身者らが率いる藩閥政府と、彼らによる「専制」を批判し政治参加の拡大を求める自由民権運動勢力が対峙する状況の下で発布された。国会が開設され議会政治が本格化する一方、議院内閣や普通選挙の制度化は見送られている。かかる憲法の下、戦前日本の政治は、総じて超然主義的な志向をもつ官僚と民権運動の系譜を引く政党の角逐に大きく規定されつつ変動することとなった。 ここにおいて官僚と政党は、国家と地方社会を各々いかなる回路によって繋ごうとするのか。またその回路と関わって、地方社会の自他認識は、どのように成形され、また変形していったのか。

小稿では右の問題を、官僚・政党に加え、いわゆる地方社会の名望家層として彼らの働きかけを受けることとなった町村長を加えた3主体に焦点をあてて考察する。検討範囲は1880年代末から1920年代末まで、すなわち、帝国憲法の発布前後を始点とし、昭和恐慌(1930年~)、満州事変(1931年)、五・一五事件(1932年)等によって幕を開ける「危機の30年代」前夜を終点としよう。この約40年間における段階的変化、わけても第一次世界大戦(1914~1918年)を挟んでの変化の大きさを重視しつつ、事態の推移をたどることとしたい。

自律的な地方社会の幻視?
─明治憲法体制と地方自治体制

帝国憲法の発布から3カ月を経た1889年5月、入念な検討を経て前年に公布されていた市制・町村制が、全国に施行された。同法をはじめとする地方制度の整備を、藩閥政府はいたく重視していた。元老院での法案審議に説明のため臨んだ内務卿の山県有朋は、地方制度の整備は国会開設にむけて内閣が進めてきた「準備中の最大最重なるもの」であると訴えている。

その「準備」における山県らの苦心のひとつは、いかにして来たる国会へ、政党結成に動きつつある自由民権運動家たちとは異なる、地方社会の穏健分子を呼び込むかという点にあった。無給の「名誉職」である町村長などに推され地方行政に参画する行為と、代議士として全国政治に参画する行為とを一直線に繋いだ山県は、「みだりに架空論を唱へて天下の大政を議するの弊」は、「老(ママ)着実の人士」、つまりは町村長を務めるような名望家層が国政を議することで一掃され、「政府と議会との軋轢」は後を絶って「帝国の安寧を永遠に保維」することが可能となる、と述べる。

自律的な地方社会に多くを托したのは、藩閥政府内部の人間だけではなかった。新進の言論人たる陸羯南くがかつなんは、藩閥政府に批判的であったが、国会開設が近づき結社や演説会が再び盛り上がりつつあるなか、「純然たる地方人民の集合」が生みだす「地方的団結」に大きな期待を寄せている。この団結が「完全たる集合体」としての「真正の政党」を帰結し、そこからやがて「強大健全なる輿論」が生まれるだろうと、陸は記した。


池田真歩 Maho Ikeda
(北海学園大学法学部講師)

1987年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は日本近現代史、日本政治史。主な業績に「明治中期東京市政の重層性」『史学雑誌』第121編第7号、「「医は仁術」のゆくえ」佐藤健太郎ほか編著『公正から問う近代日本史』(吉田書店)など。

 

「天下」の残影
― 「東アジア」における近代の苦難

平野聡

(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

大日本帝国憲法の発布から130年に及ぶ歴史、あるいは明治以来の歴史は、第二次大戦前後の曲折はあれども、確実に日本社会に法の支配を定着させ国民統合を実現する歴史であった。そしてこのことは単に日本の歴史であったのみならず、「東アジア」(本稿では主に、漢字と儒学を中心とした中国文明・中華文明の影響が広がった範囲を指す)の国・地域における近代国家形成を促す歴史でもあった。

とはいえ同時に、前近代における「東アジア」の歴史世界の特徴と、西洋を起源とした近代国家・近代国際関係との間に様々な不連続なり齟齬が存在することによって、「東アジア」という地域に特有の問題が立ち現れ、グローバルな相互依存の時代においても容易には解消しないアイデンティティ上の対立が再生産されているように思われる。

そこで本稿では、前近代の「東アジア」社会の中に蓄積されたアイデンティティ上の様々な重層やすれ違いが、近代国家の時代に入ってどのように捉えられ、国民形成や立憲制の課題が何故各国の内政と外交における深刻な問題へと転化したのかを概観し、今後「東アジア」の国家が取り組むべき長期的な課題とその難しさを考えることとしたい。

中国文明と「天下」の論理

事の根源は、前近代の中国文明を中心に成立していたとされる「天下」の秩序が、文明の共有によって文化やアイデンティティの違いを超えた平等主義的な共存を実現させるという、他の世界宗教や文明が有した機能を必ずしも果たさなかったことによる。むしろ中国文明は、自文明の優越に対する信念と経済的な繁栄を根拠として、異なる文化やアイデンティティの上に超然と立ち、様々な存在を「天下」の中に整序することで、異なるアイデンティティとの間の衝突を最小限に抑えようとするものである。その根底にあるのは、上下関係・優劣関係が存在することを率直に認める、現実主義的で不平等な人間観である。

このような発想が黄河中流域=「中原」で生まれて拡大した背景にあるのは、周囲に農業地域を従えた都市国家の豊かさと、その中で発生した甲骨文字、そして漢字を用いて文書行政を行う文明の早熟さであり、豊かな自らと、未だ漢字を用いず自文明に染まる前の人々とを対比して「中国」「中華」と「夷狄」を峻別する華夷思想が生み出された。さらに、有徳の聖人君子が「礼」によって上下関係を円滑にすることで、「天下」全体に秩序がもたらされると説く儒学が生まれ、漢代以後国家の学問として定着すると、漢字で書かれた儒学を通じて「礼」を実践できるか否かが「華」と「夷」の基準となり、中国文明と儒学の価値観が分かちがたく結びつくことになった。

しかし、中国文明そのものは決して「華」の専有物ではない。現在「夷」である人々も、行く行くはその価値を理解して共有すべきであり、そのためにも聖人君子による「教化」が正当化される。「普天の下、王土に非ざるなし」(『詩経』)という文言が、このような精神の象徴である。実際「華」の中国文明は、その魅力によって「夷」であった人々を取り込んだ。例えば周王朝のようにかつて「夷」であった地域からも、中国文明を代表する伝説の聖人君子を輩出するようになったし、のちに様々な北方の騎馬民族が「中原」に南下する度に、「華」への同化が繰り返された。中国文明と、その担い手たる漢人・漢族と呼ばれるようになる人々は、時折外来勢力の蹂躙を受けつつも、総じて文化的共同体として拡大再生産され、その事実が中国文明の正当性に関する言説を内向きに強めた。


平野聡 Satoshi Hirano
(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

1970年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院法学政治学研究科准教授を経て現職。専門はアジア政治外交史。著書に『清帝国とチベット問題』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞)、『「反日」中国の文明史』(ちくま新書)など。

 

日本が「国家」になったとき
― 水戸学から主権論へ

苅部直

(東京大学法学部教授)

「国家」とstate

まず、「国家」という言葉の意味について考えてみよう。この漢字熟語は漢籍に由来するものである。1915年に上海で初版が刊行された辞書『辞源』(縮印合訂本、商務印書館、1987年)によれば、もともとは春秋・戦国時代に諸侯の領地を「国」、それに仕える卿大夫のことを「家」と呼び、両者をあわせた形で、「国家」が「国」の通称となったという。もともとは、王・皇帝の支配が及び、「中華」の文化を共有する領域としての「天下」よりも、狭い領域を指す言葉だったのだろう。

本特集の平野聡による論考、また檀上寛『天下と天朝の中国史』(岩波新書、2016年)が示すように、チャイナの伝統思想において「天下」は広大な空間である。それは「中華」の文明が生まれた中原地域(黄河中流域)を広くこえて、「夷狄」の住む土地までを含む。これに対して「国家」は、その言葉で朝廷・皇帝・天子を意味する場合もあることを考えると、諸侯の領地にせよ、「天下」全体にせよ、その統治に関わる者たちを構成員とする組織という含意をもっている。

日本でももちろん、「国家」という漢字熟語は早くから受容されていた。『日本書紀』は前近代の東アジアにおける共通言語であった漢文で書かれているが、そこで「国家」にあてられた和訓は「あめのした」もしくは「みかど」である。たとえば欽明天皇13年10月条には、天皇に仕える物部尾輿・中臣鎌子が「我が国家みかどの、天下あめのしたきみとましますは」(原漢文を古訓風に読み下した)と奏上した文句が見える。支配対象としての土地・人民よりも、主として統治者集団を指す言葉として「国家」が使われていたことをよく示す例であろう。

しかしこのことは同時に、前近代で使われた「国家」という言葉が、近代においてstate、Staatの訳語として使われた「国家」とは重ならない要素を含んでいることも明らかにする。典型的には、かつて勝俣鎮夫が『戦国時代論』(岩波書店、1996年)で論じた、戦国大名の用いた「国家」の文句が挙げられるだろう。戦国大名が家臣や子孫にむけて統治者としての心得を説く文書で、「国家のため」という表現を用いていた。この場合の「国家」とは、大名の支配領域としての「国」と、大名を頂点とする武士の組織としての「家中」とを合わせた概念と考えられている。徳川時代に大名を指す表現として「国家」が用いられたのも、この言葉づかいを継承したものと言える。

もちろん、「鎮護国家」といった表現に見られるように、日本全体にわたる統治組織もしくは支配領域の意味で「国家」が使われる例も、古代からあったと思われる。だが具体的な支配者集団のイメージとして、大名の「家中」のような地方の支配組織の方が「国家」という表現になじみやすかっただろう。日本列島全体のような広大な空間を支配する機構としての、あるいは地域をこえた「国民」の一体性と政治参加を前提とする国民国家としての、近代の「国家」とはやはり異なっているのである。

しかし同時に、近代の主権国家としてのstate、Staatの概念と、漢字熟語「国家」、もしくはその近世日本における用法とが、重要な部分で重なっていたことも見逃せない。福田歓一「思想史の中の国家」(1997年初出、『デモクラシーと国民国家』岩波現代文庫、2009年、所収)や、篠田英朗『「国家主権」という思想─国際立憲主義への軌跡』(勁草書房、2012年)によれば、16世紀にニッコロ・マキアヴェッリが説いたstato、そしてジャン・ボダンが論じたÉtatの概念によって、近代の主権国家の思想が生まれていった。


苅部直 Tadashi Karube
(東京大学法学部教授)

1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、『丸山眞男』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、毎日書評賞)、『「維新革命」への道』(新潮選書)、『日本思想史への道案内』(NTT出版)など。

 

明治前期の「治教」
― 「国家と宗教」問題を再考する

齋藤公太

(國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所助教)

はじめに

内村鑑三に師事した無教会主義のキリスト者であった政治学者の南原繁は、昭和17年(1942)に上梓した『国家と宗教─ヨーロッパ精神史の研究』のなかで、「古代的な神政国家また神政政治の理想への復帰を目ざす」当時の風潮を批判している。南原が目指していたのは、あくまで政教分離と信教の自由を保障しつつ、「愛の共同体」という理念化された宗教の理想を国家において実現することであった(『南原繁著作集』第一巻、岩波書店、1972年、105─110頁)。ここに「祭政一致」が喧伝された太平洋戦争中の日本に対する批判が込められていることは容易に見て取れよう。

南原自身の思想の複雑な内実はさておき、戦後の日本の文脈のなかで「国家と宗教」をめぐる問題が語られる際には、しばしば戦前の日本がある種の「神政国家」として描かれてきたように思われる。それは「現人神」たる天皇を戴く近代天皇制や、「国家神道体制」として語られてきた。そのため現代の政治権力と宗教教団との関係や、大嘗祭のような皇室祭祀の問題が議論される際には、政教分離と信教の自由を侵害していた「神政国家」の過去が引き合いに出されることになる。

そうした現代的問題は本稿の扱うところではない。ただ少なくとも確認しておくべきは、「政教分離」は元来多義的であり、様々な解釈が可能であるということ、また政教分離は必ずしも「信教の自由」と同一の水準にはないということである(阿部美哉『政教分離─日本とアメリカに見る宗教の政治性』サイマル出版、1989年)。このことはむしろ日本において立憲制が確立された明治期においてこそ意識されていたかもしれない。教派神道の一つであった神宮教の機関誌『教林』のなかで、明治27年(1894)に磯部武者五郎は神道を「国教」とすべきことを主張し、次のように述べている。

人或ハ言ふ我国の如き既に憲法上信教の自由を公許せるに国教を定むるハ明に憲法に違反して人の信仰を束縛するものなりとこれ一を知て二を知らざるなり如何んとなれば国教を定むるとて之を奉せざるもの罰し奉するを賞せバすなわち人の信仰を束縛したるものなれども決して此の如きことをなすにあらず国教を定めて道徳の標準を示し信仰を起さしめて之を導くに在るなり(『教林』第7号、68頁)

神道を国教化すること。それは明治憲法の第28条によって規定された信教の自由の否定を意味しない。なぜなら国教制を採るヨーロッパの国々においてそうであるように、ある宗教を国教にしたとしても、それを標準としつつ他宗教の信仰の自由を認めうるからである。むしろ当時の政府のように神社を「非宗教」と偽り、その儀礼を国民に強制することは、キリスト教徒との深刻な対立を招くと磯部は懸念する(その懸念は後年的中することになる)。信教の自由を認めて衝突を回避しつつ、神道を国教と定めることで「国体」を「外教」(キリスト教)から守る。それが磯部の構想であった。

この磯部の論説が示しているのは、当時確固とした「神政政治」が存在していたわけでなく、神道・神社の宗教性や、政教分離、信教の自由をめぐって様々な解釈の可能性があったということである。そもそも今日使われている「宗教」という概念は前近代から日本に存在していたわけではなく、欧米で用いられていた“religion”の訳語として明治期に輸入されたものだった。したがって右に挙げた問題の解釈は決して一義的ではありえず、様々な試行錯誤が行われた。


齋藤公太 Kota Saito
(國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所助教)

1986年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻博士課程修了。博士(文学)。國学院大學研究開発推進機構ポスドク研究員を経て、現職。専門は、近世・近代日本思想史における政治と宗教。主な著作・論文に『「神国」の正統論─『神皇正統記』受容の近世・近代─』(ぺりかん社)、「「国家神道」と教育勅語─その狭間にあるもの」(『徹底検証 教育勅語と日本社会─いま、歴史から考える─』(岩波書店)

 

「兵制論」の歴史経験

尾原宏之

(甲南大学法学部准教授)

徴兵制 ― 東京・ソウル・パリ

若い友人に、カン・スンジュン君(仮名)という日本在住の韓国人がいる。35歳になるカン君はとにかく韓国社会に批判的で、酒を飲むと産経新聞顔負けの発言が飛び出す。

10代のころ、カン君は韓国での体罰教育に耐えられずイギリスに渡り、そこで長期滞留した。その後どうしたものか東京に流れつき、私立大学の日本史学科に入学する。卒業論文のテーマは、戦前日本の徴兵制である。日本の徴兵制は、韓国徴兵制の祖型と目されることがある。カン君は筋金入りの軍隊嫌いで、どうにかして兵役を免れようと悪戦苦闘していた。卒論テーマの選定はこのことに関係している。

その後カン君は日本人女性と結婚し、そのまま日本で就職した。韓国語、日本語、英語のトリリンガルなので、外資系企業の東京拠点で重宝される。結果として、厳格なことで知られる韓国の徴兵制をすり抜けることに成功しつつある。

注意深くカン君の周囲を見わたすと、兵役を忌避する韓国人青年が同じように日本人女性と結婚して軍隊に行かなかった事例が散見される。国境を超えた愛を疑うつもりはまったくないし、愛情以外の動機がある結婚が悪いとも思わない。だが、もし韓国に徴兵制がなかったら、彼らの人生は現在と同じだったろうかとつい考えてしまうのも事実である。

カン君は、兵役を拒否して投獄された経験を持つ人、反戦活動家、軍隊に行きたくないので外国に居続けている青年などと緩やかなネットワークを作っている。そのなかには、フランスへの亡命に成功した韓国人兵役拒否者も存在する。日本でも記者会見や講演会などを開いていたからご存知の方もいるかもしれない。彼は2013年にフランス政府から難民認定され、手厚い保護を受けつつパリで暮らしている。韓国の徴兵制は良心的兵役拒否を認めておらず、代替服務制もないことが難民認定の決め手になったようだ。

だが、最近になって状況が大きく変わってきた。排泄物を食べさせる、性的虐待を加えるなどの陰惨ないじめが取り沙汰される韓国の徴兵制軍隊だが、文在寅政権下で軟化の気配を見せている。憲法裁判所は代替服務制が用意されていない兵役法を違憲とし、大法院(最高裁)では良心的兵役拒否を無罪とする判決が下された。これを受けて韓国政府は代替服務制を設けることになった。服役期間も陸軍だと21カ月から18カ月に段階的に短縮される。

韓国人兵役拒否者を難民として受け入れたフランスでも変化が見られる。現大統領のエマニュエル・マクロンは2017年の大統領選挙で徴兵制の復活を公約にした。ただし、具現化しつつある政策はいささか拍子抜けする内容で、16歳になった男女全員に1カ月間の奉仕活動を義務づけるというものだ。BBCの報じたところでは、「市民文化」がその中心テーマで、警察や消防、軍隊での訓練や教育ボランティア、慈善活動などが選択肢にあげられている。

Service National Universel(普遍的国民役務)と名づけられたこのプログラムは、フランス政府のウェブサイトによれば1997年に停止された徴兵制とは別物で、社会的・地域的な結合、国防や安全保障の問題に関する認識の向上・発展などを企図している。もともとマクロン大統領は1カ月間兵役そのものを体験させるプログラムを構想していたので、かなり骨抜きにされたようだ。

フランスが難民認定するほど過酷だった韓国の徴兵制が緩和される一方、そのフランスでは奉仕活動という名目ながら新しい〈兵役〉がはじまろうとしている。スウェーデンでも、昨年徴兵制が復活した。


尾原宏之 Hiroyuki Ohara
(甲南大学法学部准教授)

1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、東京都立大学大学院社会科学研究科単位取得退学。博士(政治学)。NHK、首都大学東京助教などを経て、現職。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災』『娯楽番組を創った男』(ともに白水社)、『軍事と公論』(慶應義塾大学出版会)など。

 

明治憲法体制創造の論理と立憲主義
― 主権と統治権について

嘉戸一将

(龍谷大学文学部准教授)

はじめに

日本国憲法制定の際、第9条のほかにも、熱を帯びた論議を呼んだ争点がいくつかある。そのひとつに、国民主権と象徴天皇制の問題を挙げることができよう。両者が少なくとも当時、分かちがたくひとつの問題を構成していたのは、国民主権を採用すると、天皇制が廃止されない限り、主権者としての国民との関係で天皇に何らかの制度上の位置づけを施す必要があったからだ。いずれも今では日本社会に制度としてすっかり定着しているが、当時においては単に政治的論議を呼んだだけではなく、理論的に文字通りの「革命」をもたらすものとまで論じられた。

例えば、憲法学者の宮沢俊義は、国民主権を採用することは日本国憲法制定過程で決められたのではなく、ポツダム宣言の受諾を決定した1945年8月の時点ですでに決まっていたとする「8月革命」説を提唱し、これに対して法哲学者の尾高朝雄が主権者の交代を重視する見方の権力偏重性を批判し、大日本帝国憲法(以下、明治憲法と表記する)と日本国憲法との間に連続性(「ノモス主権」)があることを主張したことなどは、よく知られている。

たしかに表層的には、国民主権と象徴天皇制をめぐる論議は、誰が主権者であるか、より厳密に言えば、カール・シュミット流の「決断者」が誰であるかという問題に見える。すなわち、『政治神学』(1922年)における主権者の定義「主権者とは例外状態について決断する者である」に合致するのは誰であるか、という問題だ。ここで言う「例外状態」とは既存の法秩序の停止を意味し、したがってその「決断」を下す主権者とは、法に拘束されない全能者である。

周知のように、明治憲法体制における主権者については、大別して二つの学説が異なる見解を呈示していた。すなわち、天皇機関説は法人としての国家が主権者であると主張し、天皇主権説は天皇が主権者であると主張していた。1935年の天皇機関説事件によって、実質的に前者は学説としての命脈を断たれていたのだが、それはともかく、いずれの学説をとるにしても、国民主権を規定することが大きな変革を意味するのは間違いないだろう。

とはいえ、ここで留意する必要があるのは、明治憲法そのものには「主権」や「主権者」なる文言はないということである。主権者をめぐる学説の争いは、明治憲法の第一条(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」)や第四条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」)に規定された「統治」や「統治権」のあくまでも解釈上のそれである。一見すると、些細な表現上の問題にすぎないが、実際には、そこには単に日本社会の民主化をめぐる問題のみならず、国家のあり方や法秩序の根拠をめぐる本質的な問題が見出せる。そこで、ここでは明治憲法の統治権に注目して、明治憲法体制創造の論理について考察することにしよう。

佐々木惣一の統治権論

日本国憲法制定期に象徴天皇制に異を唱えた憲法学者のひとりに、佐々木惣一を挙げることができる。佐々木は天皇機関説を主張していた憲法学者であり、滝川事件で京都帝国大学を辞職したことでも知られており、そう言って良ければリベラルな憲法学者を代表する人物であって、主権者=天皇の立場から象徴天皇制に異を唱えたのでは決してない。

では、何故、佐々木は異を唱えたのだろうか。理由は二つある。一つは「象徴」という文言が不可解であったことにあり、もう一つは統治権に代わって規定された国民主権なる観念には統治権に見出せるような含意がなかったことにある。


嘉戸一将 Kazumasa Kado
(龍谷大学文学部准教授)

1970年生まれ。東京大学法学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程中退。専門は、法思想史、政治思想史。著書に『再発見 日本の哲学 北一輝─国家と進化』(講談社学術文庫)、『西田幾多郎と国家への問い』(以文社)、『主権論史─ローマ法再発見から近代日本へ』(仮)(岩波書店、近刊)などがある。

 

「統治権」という妖怪の徘徊
― 明治憲法の制約を受け続ける日本の立憲主義

篠田英朗

(東京外国語大学大学院総合国際学研究科教授)

本稿は、日本の憲法学において存在している「統治権」の概念に着目することによって、日本の国家論の特徴を分析することを試みる。「統治権」は、130年前の1889年に制定された大日本帝国憲法(明治憲法)によって、導入された概念である。本来は、明治憲法の消滅とともに、ともに消滅してもよいものであった。ところが明治憲法の概念構成に慣れ親しんだ憲法学者たちによって、戦後の国家論においても援用され続けることになった。

日本では立憲主義は、「権力者を制限すること」と否定的な意味でのみ用いられる。政府を通じて社会的価値を実現していく要素は、日本では立憲主義から取り除かれる。その背景には、「主権者である国民」は「統治権を行使する国家」を制限し続けなければならない、という独特の概念構成がある。しかしこの概念構成にしたがった独特の立憲主義の理解は、明治憲法の残滓の中で思考し続けている憲法学者たちによる自作自演によってもたらされたものである疑いが強い。

「統治権」の登場

日本では「主権」の概念に比するものとして、「統治権」の概念がある。この「統治権」という概念は、基本的に欧米の学術的概念を導入して成立した日本の社会科学においては珍しく、日本独自の概念である。「主権」が、「sovereignty(独souveränität、仏souveraineté)」の語の翻訳であり、必然的に欧米における「主権」をめぐる議論によって左右されるものであるとすれば、「統治権」は全く違う。欧米に「統治権」という概念が存在していないため、「統治権」は、欧米での学術動向に左右されることがない。

それでは日本においてどれだけ「統治権」概念を検討する作業が行われているかと言えば、特に第二次世界大戦以降の日本においては、そのような作業は、ほとんど行われていない。つまり欧米での議論に触発されることもなく、だからといって自ら積極的に概念を検討することもせず、ただ漠然と独自の概念を独自だという認識もなく使用し続けているのが、日本における「統治権」をめぐる現状である。

日本で広く流通している憲法学の基本書・芦部信喜『憲法』の冒頭部分の記述を見てみよう。

一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。したがって、領土と人と権力は、古くから国家の三要素と言われてきた。

さらに高橋和之の基本書『憲法』第1章を見てみよう。高橋によれば、絶対王政によって国家が確立されて「領域的支配権」が確立されて、「領土、国民、統治権(主権)」の三要素を持つ国家が生み出されるようになった。これらの要素が憲法典に記述がないのは、「憲法の前提ではあるが、憲法の中で確認するには必ずしも適さない」からだと注釈するが、根拠となる文献類を提示することはない。

このように「統治権」は、「国家」の存立を本質的に規定する重要概念として措定されている。「国家」それ自体が、「統治権」の概念によって説明されているのである。ところが、それにもかかわらず、「統治権」とは何か、という問いは発せられない。そこで、「統治権」概念が曖昧なままでとどまっている程度に応じて、「国家」概念も曖昧なままにとどまってしまう。


篠田英朗 Hideaki Shinoda
(東京外国語大学大学院総合国際学研究科教授)

1968年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。ロンドン大学LSE博士課程修了。広島大学平和科学研究センター准教授などを経て現職。専門は国際関係論。著書に『平和構築と法の支配』(創文社)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞)、『集団的自衛権の思想史 ― 憲法九条と日米安保』(風行社)など。

 

昭和期日本における「国家」と「社会」

趙星銀

(明治学院大学国際学部専任講師)

明治の「国家」、大正の「社会」

日本の近代史の中で「国家」と「社会」は対照的な双曲線を描いてきた。「国家」とは何か、「国家」をどうすればいいかという問題が時代の中心課題となる時もあれば、社会の問題がそれ以上に重視される時もあった。維新と廃藩置県、大日本帝国憲法の制定と公布が行われた明治期を前者、つまり「国家」の時代と呼ぶならば、大正から昭和初期にかけての時期は「社会」の時代と呼ぶべきであろう。

「社会」の時代としての大正期を考える際、有用な参考となるのが歴史家有馬学の研究である(以下、有馬学『日本の近代4「国際化」の中の帝国日本1905~1924』中公文庫、2013年を参照)。有馬は戦前の日本の中で国家的なものの価値がもっとも後退し、相対化された時代として1920年代を挙げる。「立国」に専念した明治の志士たちとは違って、この時期の政治学者や官僚を含む多くの知識人が熱く語ったのは「社会」であった。そして、この20世紀初頭の日本「社会」を埋め尽くした人々が「大衆」であった。

「大衆」は、大量生産と大量消費、関東大震災(1923年)と成人男子の普通選挙法制定(1925年)などの社会的経験を経て、1920年代に発見され、命名された新しい人間像であった。彼らは生産者であると同時に消費者であり、選挙権を持つ政治的主体であると同時に宣伝や動員の対象でもあった。

そして大衆の生活する現実の空間として「社会」を捉える際、そこに蔓延していたのは経済的な困窮であった。当時活発に行われた様々な「社会調査」の多くが、慢性的な不況の中で営まれた労働者の生活実態に向けられていた。

しかしこのような社会調査は、たとえば明治期の下層社会探訪とは異なる眼差しを持っていたことを有馬は指摘する。生活の困窮が調査の対象となる場合でも、それは貧民の惨状とそれに対する慈善や救済を目的とするようなものではなかった。貧困は、観察者と同じ社会を生きる多数者の現実である点で、「我々の社会」の問題として意味を持っていた。調査者は統計学的手法を用いて家計支出、保健、衛生の側面から余暇や娯楽にいたるまで、大衆の全生活を調べた。それは社会の実態を正確に把握し、規格化して、改良しようとする試みであった。

こうして「社会」が大正知識人たちの関心事となってくるにつれて、国家をも社会の一部とみなす政治理論が台頭した。国家を社会集団のうちの一形態として捉える「多元的国家論」がそれである。

有馬は杉森孝次郎、長谷川如是閑、大山郁夫、蠟山政道などの理論における社会による国家の相対化の要素を指摘する。論じ方は様々だが、人々の「生活」と密接に関わっている領域という意味で「社会」が重視された点は多くの論者に共通している。

だが、このような多元的国家論は日本の国家論の中では少数派であった。またそれが学説として流行した時期も短かった。主な理由として、有馬は理論と現実のミスマッチを挙げる。多元的国家論が理論の世界で流行した時代に、現実の国家はかつてよりも強大な力で社会に介入していたのである。

しかしこれは単なるミスマッチではなかった。たとえば多元的国家論の故郷といえるイギリスでは、理論と現実の関係はもっと複雑であった。そこには、古典的な自由放任主義が多くの人々を生活苦に陥れ、社会的な不平等をもたらしたという現実が先行していた。それに対する反省を踏まえ、社会政策の拡充を通して国家が個人の生活に介入する積極国家が台頭したのである。


趙星銀 Sungeun Cho
(明治学院大学国際学部専任講師)

1983年韓国生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。2017年より現職。専門は日本政治思想史。著書に『「大衆」と「市民」の戦後思想 藤田省三と松下圭一』(岩波書店)、論文に「「高度成長」反対 藤田省三と「一九六〇年」以後の時代」(『思想』第1054号)、「松下圭一における「政治学」と「政治思想」」(『政治思想研究』第17号)など。



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