冒頭を読む

 

歴史の中のリベラルな国際秩序

納家政嗣

(上智大学国際関係研究所特任教授)

はじめに

リベラルな国際秩序(LIO)が後退するという懸念が広がっている。2008年のリーマン・ショック、中国の影響力拡大、仏、独、蘭、伊など欧州主要国での左右のポピュリスト政党の伸張、きわめつけは2017年の英国のEU離脱とアメリカにおけるトランプの大統領当選であった。懸念が一挙に強まった。国により違いはあるがここで上がった声は、いずれも反グローバル化、反国際主義・自国第一、反多国間主義、反難民・移民など、冷戦後のリベラルな秩序観をことごとく否定するような主張だったからである。しかしそう言われて「リベラル国際秩序」がなんだったか、改めて振り返って見ると、そのイメージは甚だぼんやりしている。長く重苦しかった冷戦の後ではこういう期待を込めた表現にあえて異を唱える気にもならなかったということはあろう。だから例えは悪いがこの危機感には膨らまし過ぎた期待の二日酔いから冷めた繰り言のような印象がある。しかし繰り言から今後の方向性は導けない。リベラルの国際秩序が何かを検討し、今後の指針を探ってみたい。

リベラルな秩序の来歴

自由は、秩序によって守られ伸張されるべき価値であり、それ自体は秩序原理ではない。それを自己目的化すればむしろ秩序は混乱しよう。自由論の源流は、政治的にはJ・ロックに遡る。彼は自由を確保する条件としての私的財産権を含めて自由を定義し、そのために同意に基づく政府(民主政)の必要性を導いた。非自由主義的な時代に生きた彼の自由論は人間の解放の戦略だったといってもよい。このような初期の権力からの自由論は分かりやすいが、これが市民革命、とりわけフランス革命を経て平等原理とセットになり万人の自由(自由の普遍化)が目指されるようになると、自由は「他者の自由を侵さない限り」(J・S・ミル)の自由になり、自由と自由の衝突の調整、そして最終的にそれを担保する権力が不可欠になった。自由は、権力からの自由であると同時に、権力によって保障されるものになった。

自由のもう一つの源流は、A・スミスの各人の自由な利益追求が市場メカニズムによって全体の利益を導く、従って国家の介入は不要と説いた自由主義経済学にあろう。しかしここでもスミスは、対外的防衛、国内治安における政府の不可欠の役割を強調していたのである。こうして自由主義の体制は、国家の政治的枠組みの中で発展した。19世紀に入り資本主義市場経済、工業化とともに格差問題が深刻になると配分の正義という積極的自由が論じられ、自由確保における政府の役割はいよいよ大きくなっていった。政府(権力)の下で自由は、市場、民主政、法の支配という制度により確保される。

国際社会で自由を考える難しさは、それを保障する政治の枠組みがないからである。国際社会は、国内社会を代表する主権国家から構成される二次的な社会であり、国家を超える権力・権威が存在せず、主体たる国家の安全は保障されない。従ってここでは国家の生存が優先規範なのである。自由はもともと人間個人の自由をさしているが、ここでは個人の自由と国家の安全のいずれを優先するかという問題が不可避に発生する。国際政治学の現実主義者は、国際秩序は国家の生存を維持し、戦争を防止(消極的平和)できれば十分で、それを超える価値は、各国が国内で追求すればよいと考える。これに対して社会の最終主体は、国内であれ国際であれ個人と見る自由主義者は、戦争がないだけの秩序では不十分で、国際秩序も人間の自己実現の機会(自由)を最大化する秩序であるべきだという。ここでは個人の自由-国内の自由主義体制-国家の自決と独立-リベラルな国際秩序は、円環をなしている。


納家政嗣 Masatsugu Naya
(上智大学国際関係研究所特任教授)

1946年生まれ。
上智大学大学院外国語学研究科国際関係論専攻博士後期課程単位取得退学。上智大学、一橋大学大学院、青山学院大学教授などを経て、現職。専門は、国際政治、安全保障論。主な著書に『国際紛争と予防外交』(有斐閣)、『国際政治経済学・入門[新版]』(共著、有斐閣)など。

 

リベラルな国際秩序と権威主義諸国の挑戦

アーロン・フリードバーグ

(プリンストン大学教授)

現在の危機

「国際秩序」が危機に瀕している。近年、西側諸国の政府関係者及び専門家の間で、このような見解が常識のように語られている。「リベラルな」、「ルールに基づく」、あるいは「原則に基づく」といった形容詞で語られるこの秩序は、第二次世界大戦の終結後に形成され、70年にわたる大国間の平和と経済的繁栄の礎となったと言われる。しかしながら、2014年以降、ロシアのウクライナ侵攻、そして中国の南シナ海及び東シナ海における攻撃的行動によって、この現在の秩序が、現状変更を求める権威主義諸国に脅かされているとの認識が急速に強まっている。

この分析は誤りというわけではない。しかし不完全であり、ある意味では誤解を招くものである。「リベラルな秩序」という概念特有の含意は、「ルールに基づく秩序」や「原則に基づく秩序」といった言葉と同視されてしまうことによって不明確となってしまう。現在のシステムの起源を1945年に求めることも誤った理解を生じさせる。「リベラルな国際秩序」と的確に呼称される秩序が成立したのが第二次世界大戦直後であるのは確かだが、その構成国家は西側の先進民主主義諸国に限定されていた。アメリカ率いる西側諸国が真に「グローバルな」秩序の建設に着手したのは、冷戦が終結し、ソビエト連邦が崩壊した後のことである。この秩序は、かつて敵対した諸国を完全に取り込むものとなるはずであった。だが、その最も強大な国家は、未だ民主化を達成しておらず、権威主義体制を維持している。

楽観的で善意に満ちたこの取り組みの挫折こそが、現在の危機の根幹にある。

「リベラルな国際秩序」とは何か?

リベラル・デモクラシーと呼ばれる国内政治体制は、個人の自由に基礎付けられる。この原則の尊重は、表現と信教の自由、私的所有権、法の下の平等といった権利と、これを擁護する制度の整備へと帰着する。こうした諸権利の中でも特に重要なのは、代議制民主主義、法の支配と司法権の独立による個人の自由の確保、そして私的所有権と市場原理に基づく経済システムである。リベラル・デモクラシーに基づく国家機構の指導者は普通選挙によって選出される。しかし政府の権力は制約されており、個人の政治的・経済的権利を擁護する制度が設けられている。

リベラルな「国際秩序」は、その初期の理論家や支持者が思い描いたように、国内政治におけるリベラル・デモクラシーと同様の原理を、類似した方法で国際政治において具現化することを目指すものである。まず最も重要なのは、この国際システムを構成するのはリベラル・デモクラシーという国内政治体制を持つ国家だということである。18世紀の傑出した哲学者であるイマヌエル・カントは、これを立憲的な共和制と呼んだ。君主制国家では王侯貴族が政治的決定を独占し、その犠牲は一般の国民が負うことになるが、民主主義諸国ではこのような状況は生じない。したがってカントは、民主主義は必然的に平和的傾向を持つと考えた。

第二に、リベラルな諸国の市民が自由に商取引を行うことができるように、リベラルな国際秩序では自由貿易が許され、あるいは奨励される。自由貿易は個人と社会全体の物質的な富を増大させるのみならず、国際協調と安定が共通の利益であるとの認識を生み出すものと想定されている。

第三に、カントは、リベラルな国際秩序には、そのメンバーの共通性にもかかわらず、国家間の関係と行動を調整するためのメカニズムが整備されるだろうと考えていた。1795年に出版された『永遠平和のために』で詳述されたように、カントが思い描いていたのは世界政府や国際法で規制されたシステムではなく、共和制諸国からなる「平和連盟」であった。この国際的な連盟は、共和制という国内体制が普及するとともに拡大し、最終的には世界全体を包摂するものになると想定されたのである。

したがってカントは、まだいかなる国家にもリベラル・デモクラシーという国内政治体制が定着していない時代に、世界全体がリベラル・デモクラシーの国家で覆われ、自由に貿易を行い、共通の政治的連合に加盟する世界を構想したということになる。リベラルな国際秩序の古典的概念の本質は、ここに余すところなく示されているといえよう。


アーロン・フリードバーグ Aaron Friedberg
(プリンストン大学教授)

1956年生まれ。
ハーバード大学で博士号取得後、現職。専門は外交・防衛政策。ジョージ・W・ブッシュ政権でディック・チェイニー副大統領の国家安全保障担当副補佐官を務めた。主な著書に『支配への競争――米中対立の構図とアジアの将来』(日本評論社)、『アメリカの対中軍事戦略 エアシー・バトルの先にあるもの』(芙蓉書房出版)など。

 

アメリカン・ナショナリズムの反撃
―トランプ時代のウィルソン主義

中山俊宏

(慶應義塾大学総合政策学部教授)

はじめに

ウィルソン主義とは必ずしも第28代大統領ウッドロー・ウィルソンの外交ドクトリンに限定されるものではない。ウォルター・ラッセル・ミードが大著『特別な摂理(Special Providence)』(2001年)の中で、ウィルソニアンをハミルトニアン、ジェファーソニアン、そしてジャクソニアンとならぶ、アメリカ外交を構成する四つの主要な潮流のうちのひとつとして位置づけたことはよく知られている。リアリズムの大司教、かのヘンリー・キッシンジャーも、(当然、やや批判的にではあるが)ウィルソン主義を支えた「道徳的普遍主義(moral universality)」こそが、アメリカ外交の主流を形成し、20世紀以降のアメリカ外交を突き動かしてきたと評した。

アメリカは単に地図の上に広がる物理的な空間ではなく、世界史において特殊な使命を帯びた国だという感覚こそが、ウィルソン主義の核心にある。ウィルソン主義は、アメリカは「例外的な国(exceptional nation)」だという感覚が外の世界に向けて投射されたものでもある。それは世界を自分の姿に似せて作り変えようとする衝動を生み出し、それを実現するためのアメリカの対外介入を根拠づける原理となる。第28代大統領の名が冠せられるのは、ウィルソン大統領が、それをアメリカが対外行動をとる際の具体的な行動原理にまで高めたからだ。十分に力を蓄えたアメリカは、20世紀に入り、もはや内に籠る必要はなく、世界をつくりかえる準備ができていた。

1917年4月、ウィルソン大統領は、ヨーロッパ戦線への介入を唱えた議会演説で、かの有名な一節、「世界はデモクラシーにとって安全な場所でなければならない(The world must be made safe for democracy)」と訴えた。そして、ウィルソンは演説終盤で、以下のように述べる。「その役割を担うため、われわれは自らの命や運命、そして自分の全存在、そしてわれわれがもっているものすべてを捧げる。アメリカが自らの血と力を、アメリカの誕生を促した原理、そしてアメリカが大切にしてきた幸福と平和のために、幸運にも用いるべき日がついに来たことを誇りに思う」(1917年4月2日の上下両院合同会議演説)と。いま読んでも、その道徳的確信には驚かされる。

しかし、こうした感覚の源流は、独立宣言にまで遡ることができる。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、この宣言を「わが国と世界の運命に深く関わる文書(an instrument, pregnant with our own and the fate of the world)」と呼んでいる。それはやや挑発的な言い方をすれば、「世界革命」の文書であり、アメリカ革命は、すくなくとも原理的には、世界がアメリカになったときにはじめて完結するというロジックを内包していた。つまり、アメリカという国は、国境を超えて、世界を変えていこうという内的な衝動がその建国の理念に埋め込まれており、それが常に顕在化するとは限らないものの、他の外交潮流との関係性の中で、現実のアメリカ外交が形成されてきた。

ミードの四類型の限界

トランプ大統領が、「国家安全保障戦略(National Security Strategy)」(2017年12月)で提唱した「アメリカ・ファースト外交」は、どうもミードの四類型には収まりきらない。ミード自身は、トランプ外交をジャクソニアンの系譜でとらえることができると主張しているものの、そもそもミード自身、当初はジャクソニアンの典型としてジョン・マケイン上院議員をあげていることからもうかがえるように、かなりジャクソニアンの意味合いをずらしながら、トランプ外交に適用している(いうまでもなくマケインはトランプ批判の急先鋒である)。ミードは、軍人としての経歴を強調したケネディ大統領やジョージ・H・W・ブッシュ大統領らも、ジャクソニアン的な系譜の中で説明できるとしている。ジャクソニアンは、軍の文化に固有の名誉、勇気、誇り、そして自己犠牲に依拠し、トランプのアメリカ・ファースト外交とはかなり位相を異にする。たしかにトランプ政権の誕生とともに、大統領の執務室に新たにアンドリュー・ジャクソン大統領の肖像画が飾られたことがひろく伝えられた(これは解任されたスティーブン・バノン首席戦略官の発案だった)。しかし、トランプ大統領のアメリカ・ファースト外交がジャクソニアン的な装いを纏っているからといって、それがジャクソニアンだとは限らないだろう。むしろ、トランプ政権の軍出身の閣僚・高官たちは、アメリカ外交をトランプの影響から救い出そうとしているかのようにも見える。


中山俊宏 Toshihiro Nakayama
(慶應義塾大学総合政策学部教授)

1967年生まれ。
青山学院大学大学院国際政治経済学研究科博士課程修了。博士(国際政治学)。津田塾大学国際関係学科准教授、青山学院大学国際政治経済学部教授を経て、現職。専門は、アメリカ政治・外交。著書に『アメリカン・イデオロギー――保守主義運動と政治的分断』『介入するアメリカ――理念国家の世界観』(ともに勁草書房)などがある。

 

中国は強大化するのか

ミンシン・ペイ

(米クレアモント・マッケンナ大学政治学部教授)

ルールに基づく自由主義の秩序は今、第二次世界大戦後で最大の試練に直面している。致命的な危機にあると言う人さえいるかもしれない。西側の民主主義陣営の内部で右翼ポピュリズムの台頭、独裁的な人種差別主義者のアメリカ大統領選勝利、大きな格差、中間層の急激な衰退、そして移民に対する反動が、民主制の効率と正統性の低下につながり、自由民主主義国家の将来的な存続に疑問を生じさせている。西側の民主主義諸国は国内での困難に加え、自由主義の経済と安全保障の世界秩序にますます大胆に挑みかかっている中国、ロシアをはじめとする攻撃的で強大な独裁政権と相まみえるようになっている。

国内では民主主義に再び息吹を与えるとともに、対外的には攻撃的な独裁国家に対抗するという二重の課題解決は、西側民主主義諸国にとって極めて困難だったことだろう。それが今日、この二つの仕事はさらに困難の度を増している。

自由主義の世界秩序の要であるアメリカは自国の自由民主主義体制の存続に関して、おそらく1865年の南北戦争終結以降で最も危険な脅威に直面している。これまでのところは独立した司法やメディアの監視、力を強めた野党によってトランプ政権による最も危険な政策措置は阻まれているが、安心できる理由はまったく見当たらない。司法に攻撃の矛先を向け、メディアを悪魔化し、人種間の緊張をあおり立て、政敵のヒラリー・クリントンを刑務所に入れると脅すトランプ大統領は、大統領府とアメリカの民主主義の規範のほぼすべてを犯している。

その一方で、今や連邦政府の三権を一手に牛耳る共和党は、アメリカの民主主義の規範と機構の崩壊に関心がないようだ。2018年11月の中間選挙で民主党が少なくとも上下院どちらかの支配権を取り戻さないかぎり、アメリカの民主主義の崩壊がさらに進む危険は高まる一方になる。

世界で最も強力な行政府の支配権を独裁志向の指導者が握り、しかも「アメリカ・ファースト」の外交政策をはっきりと公約するという事態を受けて、西側は危険の度を増す世界において自由主義の秩序を維持し、それを再び高めていく上で不可欠なリーダーシップを欠くことになる。さらに加えて、西側の民主主義の機能不全に四つの世界的な難題が重なり、問題はさらに複雑化する。

経済のグローバリゼーション、技術革命、途上国から先進国への大規模な移民、気候変動の四つで、最初の三つは西側の社会構造に極めて強い緊張をもたらしている。中間層の崩壊を引き起こし、移民排斥主義の火に油を注ぎ、民族的アイデンティティに最も顕著な政治的亀裂が生じる恐れがあるからだ。

西側が直面しているのは政治的な試練だけではない。経済面での勢力バランスは西側から途上国に決定的にシフトしている。IMF(国際通貨基金)がまとめたデータによると、1990年の時点では西側先進国が購買力平価ベースで世界のGDP(国内総生産)の64%を占めていた。それが2007年には50%にまで低下。2017年には逆に途上国が世界のGDPの59%を占め、先進国の比率は41%に落ち込んでいる。

西側民主主義国家の衰退の兆候に乗じて、中国、ロシアをはじめとする世界の主要な独裁国家が国内での抑圧と国外での攻撃的行動を強めている。ロシアは2014年にクリミア半島を併合して以来、ウクライナに対する戦争を続けている。中国は南シナ海の係争水域に大きな人工島を建設し、領有権を固める第一歩とした。

国内では右翼ポピュリズムと移民排斥主義、国外では攻撃的な独裁国家による打撃を受け、自由主義の秩序の運命はどう転ぶかわからない状態にある。自由主義の秩序の終焉を宣言するのは早すぎるが、その破綻が可能性として考えられるということは、第二次世界大戦後の時代を通じて自由主義の秩序が支えてきた世界の平和と繁栄の将来に、数々の重要な疑問を浮かび上がらせる。自由主義の秩序の終焉は時代の転換点となるだろう。それは間違いなく新しい世界秩序を生み出し、世界の国々に適応を強いることになる。自由主義の秩序の終焉は、世界の主要国に機会と危険の両方を生み出すだろう。


ミンシン・ペイ Minxin Pei
(米クレアモント・マッケンナ大学政治学部教授)

上海外国語大学卒業後、ハーバード大学で修士号および博士号取得(政治学)。専門は外交政策、現代中国など。「フィナンシャル・タイムス」、「ニューヨーク・タイムス」、「ワシントン・ポスト」、「ニューズウィーク」などにコラムニストとして寄稿している。主な著書に“China's Trapped Transition: The Limits of Developmental Autocracy” (Harvard University Press, 2006), “China's Crony Capitalism: The Dynamics of Regime Decay” (Harvard University Press, 2016)など。

 

プーチン政権と地政学の復権
―ロシアの「大国」アイデンティティ

小泉悠

(未来工学研究所研究員)

はじめに――「地政学」の氾濫

ロシア人は「地政学」という言葉が大好きである、という話からこの文章を始めることにしたい。これは読んだとおりの意味であって、ロシア人との会話やロシア語の文章にはやたらにゲオポリティカ(геополитика=地政学)が登場する。ただし、政治と地理の関係に着目するという地政学的な考え方がそこに反映されていることは稀で、単に国際安全保障上の諸問題、という程度の使われ方である場合が多いようだ。この意味では、金融業界でよく用いられる「地政学リスク」に似た趣がある。

だが、ロシア語に「地政学」が溢れるようになったのは、ソ連崩壊後のことであった。ソ連では地政学がナチスのイデオロギーであるとされ、極めて否定的な扱いを受けていたためだが、現代のロシア人がこれほどまでに「地政学」という言葉を愛用するのは、どうも当時の反動なのではないかとさえ思われる。ソ連崩壊後に共産党書記長となったゲンナジー・ジュガーノフまでが『勝利の地政学』と題した書物を著したのはその好例であろう。

だが、地政学を抑圧したソ連時代においても、地政学がやたらに持ち上げられる現代ロシアにおいても、本質的な状況はあまり変化していないのではないか。というのも、地政学という言葉を用いるかどうかは別として、「地政学的なるもの」はソ連やロシアの国家観に深く根付いているように筆者には見えるためである。

では、ロシア的な文脈における「地政学的なるもの」とは、具体的にどのような思想であるのか。そして、それはロシアをどのような行動に導き、2014年以降に世界の耳目を集めてきた対外的行動とどのように結ばれているのか。本稿ではこれらの点について考えてみたい。

アイデンティティとしての地政学

ソ連崩壊後にロシアで興った地政学ブームは、ロシアにおけるアイデンティティの危機と深く結びついていた、といえば若干の違和感をもたらすかもしれない。この数年、日本でも一種の地政学ブームが起きており、書店へ行けば地政学と銘打った本が平積みになっているのを目にする。だが、こうした書物でアイデンティティという要素が注目されることは少ないようである。どちらかといえば、ユーラシア大陸の心臓部(ハートランド)を支配しようとする大陸勢力(ランドパワー)とこれを阻止しようとする海洋勢力(シーパワー)の対決という古典地政学の図式から国際政治の現状を説明しようと試みるものや、より純粋に地理的要素から個々の国家が置かれた状況を分析しようとする「景観学派」的なアプローチが多いように見える。しかし、ロシアにおける地政学思想、ことにソ連崩壊後のそれを考えるとき、アイデンティティの問題は避けて通ることはできない。

ソ連崩壊により、ロシアはあまりにも急速に超大国としての地位を失った。深刻な政治と経済の混乱により国力は低迷し、かつては世界最強を誇ったソ連軍も解体されて弱体化していった。何より、ロシアが共産主義イデオロギーを放棄したことは、西側の自由民主主義体制とは異なるモダニティのあり方をリードする思想的中心としての地位の喪失を意味していた。

かといって、誕生したばかりのロシアは新たなアイデンティティを確立することもできなかった。ロシアの代表的な国際政治学者であるドミトリー・トレーニンがその主著『ポスト帝国』(Dmitri Trenin, Post-Imperium: A Eurasian History, Carnegie Endowment for International Peace, 2011. 邦題『ロシア新戦略』作品社、2012年)で述べたように、新生ロシア連邦は自らを国民国家と位置付けるわけにはいなかった。約1700万平方キロメートルという巨大な国土に、ロシア人からアジア系諸民族まで、正教徒からイスラム教徒までの多様なアイデンティティを抱え込んだロシアが、何故現在の範囲でひとつにまとまっていなければならないのか。かつてのソ連であれば、その国歌が宣言するとおり、共産主義という理想に向かって団結した同盟(ソユーズ)なのだという理解が可能であったが、ロシアという連邦(フェデラーツィヤ)は国家としての団結を説明する原理を欠いていた。再び国歌を例にとれば、ソ連崩壊後のロシアはなかなか新しい国歌を制定することができず、2000年になってようやく制定された新国歌も、ロシアを「愛すべき我らの国」とするばかりで、団結の原理を示していない。果たして1990年代のロシアは、北カフカスではチェチェンの分離独立運動やモスクワの支配に服さない地方の知事たちに手を焼く結果となるのである。


小泉悠 Yu Koizumi
(未来工学研究所研究員)

1982年生まれ。
早稲田大学大学院政治学研究科(修士課程)修了後、民間企業勤務、外務省国際情報統括官組織専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究(IMEMO RAN)客員研究員などを経て、現職。ロシアの軍事政策を中心に旧ソ連の安全保障政策を専門とする。主な関心領域はロシア軍改革、核戦略、対外軍事関係など。著書に『軍事大国ロシア』(作品社)、『プーチンの国家戦略 岐路に立つ「強国」ロシア』(東京堂出版)など。

 

海洋グレートゲームの時代
―「新しいインド」とリベラルな国際秩序

ヴィヴェク・プララダン

(慶應義塾大学客員研究員)

インド外交の起源

アジアの紛争の構造によって、菱形をしているインドは縮小を続け、そのためインド政府はユーロアジアとインド太平洋の両地域の紛争構造の間にはさまれた巨大な楔としての立場に立たざるを得なくなっている。

イギリスの考古学者で技師のアレクサンダー・カニングハムは1871年に著書『インドの古代地理学』の中で、古代ギリシャの博物学者エラトステネスとストラボンが『地理書』においてインド亜大陸を菱形、あるいは不等辺四辺形と表現したことに言及している。宗主国イギリスが引き揚げた後の1947年にインド亜大陸はインド、パキスタン、東パキスタン(後にバングラデシュ)に三分割され、菱形という地勢上の概念には当てはまらなくなった。その菱形という地勢上の概念は、イギリスの帝国支配の安全保障のあり方に代わってインドの大戦略の基盤になりうるものだったが、三分割の陰に隠れてしまった。

イギリス帝国は、ユーラシアから東アジアまでを単一の戦略的なクレセント(三日月形)と捉えることでインド亜大陸に勢力を確保していた。そのクレセントにおいては、敵対していたロシア、フランス、オランダの各帝国に対して、トルコ、ペルシャ湾、中央アジア、南アジア、そしてインド洋諸島に至る地域で、生存をかけて情報活動による競争が繰り広げられた。

中国とは異なり、インド亜大陸での帝国支配の崩壊は概念と実際の両面で戦略的真空を後に残した。そのためインド外交は、戦略的な想像力を概念面より実践面で発揮した。1962年の中印国境紛争でインドのジャワハルラール・ネルー初代首相は、中国に対する間接的な抑止力を得るために南アジアに壮大なパワー・ポリティクスを持ち込んだのである。

ネルー首相は1963年、アメリカ第七艦隊がインド洋に入ることに同意した。1969年以降はデタント(緊張緩和)により、中国よりもソ連を封じ込める目的でアメリカのポラリス型原子力潜水艦がインド洋海域に展開するようになった。

一方、インドが自国の安全保障に中央アジアも関係しているという事実に目覚めたのは、ソ連によるアフガニスタン介入以降のことであった。ソ連の勢力圏がユーラシアにまで及んでいたために、1947年からインドが直面していた概念上の空白が覆い隠されていたのだ。

インドの国益を法的に保護する国際システムは、リベラルな国際秩序に対する揺るぎない信念に基づいていた。1951年の日米安全保障条約と1955年の朝鮮戦争により、インドは東アジアにおける自国の利益にも目覚めた。このように、インドは菱形の地勢の陥穽と利点に断続的に目を見開かされてきたのである。

ネルー首相はインド共和国憲法の下で政権運営を始めた。州議会議員によって選ばれた憲法制定議会が起草したその憲法はネルーにとって、紀元前3世紀の仏教の政治的伝統に起源をもつ内面的自由を尊重するヒューマニズムの復興だった。

ネルーの自由民主主義国家にとっては、ローマ帝国のコンスタインティヌス大帝に相当するのが、紀元前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王であり、西洋政治文明におけるギリシャ哲学に相当するのが、ギリシャ・ローマ文明と仏教的伝統を融合した国家的文化だった。シャシ・タルールは著書『ネルー――インドという発明』において、ネルーは「アショーカの心には冷戦という考えはなかった」が、アショーカの帝国の精神には勢力均衡の考えは確かにあったと記している。


ヴィヴェク・プララダン Vivek Prahladan
(慶應義塾大学客員研究員)

ジャワハルラール・ネルー大学で博士号取得(近代史)。ロンドン・キングズカレッジ歴史学部客員研究員を経て慶應義塾大学客員研究員。ウッドロー・ウィルソン・センターの国際史プロジェクト、「ナショナル・インタレスト」誌、「ザ・ディプロマット」誌、「Economic and Political Weekly」誌などに寄稿している。専門はインド政治。著書に“The Nation Declassified: India and the Cold War World” (Har-Anand, 2017)など。

 

「西側結合」の揺らぎ
―現代ドイツ外交の苦悩

板橋拓己

(成蹊大学法学部教授)

はじめに――リベラルな国際秩序の「最後の擁護者」?

2016年に大西洋の両岸で起きた二つの出来事は、世界を驚かせた。一つはEU脱退をめぐる英国国民投票での離脱派の勝利、もう一つはアメリカ大統領選でのドナルド・トランプの勝利だ。そして、この二つの出来事、とりわけトランプの米大統領選出以来、ドイツは「リベラルな国際秩序の最後の砦」として注目を浴び、メルケル首相は「自由世界の最後の擁護者」と持ち上げられた。

こうした状況は、ドイツ政治を学んできた者には驚くべきことだ。ナチの経験を抱えた戦後のドイツ連邦共和国(冷戦期は西ドイツ)は、初代首相のアデナウアー以来、断固として「西側」の「自由民主主義」諸国と結びついていくことを、外交・安全保障的にも国内政治的にも大原則としてきた(この政策路線は「西側結合(Westbindung)」と呼ばれる)。ドイツは、歴史的にあくまで「問題児」だったのであって(いわゆる「ドイツ問題」)、西側の「リベラルな国際秩序」のフォロワーないし受益者ではあれ、決して担い手などではなかった。そんなドイツに期待が集まるということ自体が、近年の「リベラルな国際秩序」の動揺を浮き彫りにしていると言えよう。

むろん、「リベラルな国際秩序」について、第二次世界大戦以後のアメリカが担ってきたような役割をドイツに期待できないのは自明である。メルケル自身、そうした考えは「馬鹿げたこと」であり、「グロテスク」ですらあると述べている(2016年11月)。とはいえ、「リベラルな国際秩序」の二大支柱であったはずの米英が国際的な指導力を失っていく一方で、中国やロシアが自らのやり方で国際秩序を変容させようとしている現在、「リベラルな国際秩序」を支える存在として、ドイツに注目ないし期待が寄せられるのも無理からぬことかもしれない。

しかし現在、ドイツ自身も岐路に立たされている。何よりも、これまでドイツ外交が公理としてきた前提の多く、とりわけ「西側結合」路線が揺らいでいる。なにしろ、結びつくべき先の「西側」自体が揺らいでいるのだ。ドイツ外交は現在、いかなる方向に進むべきか逡巡のさなかにある。さらに、内政的にも問題を抱え込んでいる。2015年の難民危機がドイツ社会にもたらした「不安」感、17年9月の連邦議会選における右翼ポピュリスト政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の躍進、そして新政権の難産は、その氷山の一角である。

本稿では、「リベラルな国際秩序」が動揺するなかで、現代ドイツ外交も苦境に立たされていることを指摘したい。まずは、ドイツ外交の要諦である「西側結合」の中身を歴史的に確認する。次いで、トランプ政権の誕生が、ドイツ外交にとって方向感覚の喪失をもたらしていることを示そう。そして最後に、ヨーロッパにおいてもドイツの立場が問われていることを論じる。

「二重の西側結合」――戦後ドイツ外交の大原則

まずは、ドイツ外交の大原則である「西側結合」路線が、第二次世界大戦後の「ドイツ問題」へのドイツ自身の解であったことを確認しておきたい。

「ドイツ問題」は歴史的に多義的な言葉だが、第二次世界大戦後には、大きく三つの意味をもった(なお、現在のドイツ外交は冷戦期の西ドイツ外交の延長線上にあるので、ドイツ民主共和国=東ドイツには触れない)。

第一は、ナチの台頭を許し、第二次世界大戦を引き起こした張本人であるドイツをいかに封じ込めるかという問題である。これは近隣諸国や、西独領域の占領にあたった米英仏の西側三カ国にとって最重要の課題だった。また西ドイツにとっても、自分たちが再びナチのような勢力の台頭を許さず、国際的な信用を回復することは不可欠であった。

第二は、冷戦下の分断国家という問題である。分断国家西ドイツは、東西冷戦の最前線に位置したため、西側全体の安全保障に関わる存在であった。それゆえ西側諸国は、西ドイツを再軍備させつつも、「独り歩き」を防ぐために、多国間的な安全保障体制にしっかりと縛り付けることを目指した。

第三の問題は、ドイツの経済力である。敗れたとはいえ、やはり西ドイツ経済の潜在力は大きく、大戦で疲弊した西欧諸国の復興と繁栄のためにも、西側はドイツの資源や経済力の活用を企図した。

要するに、第二次世界大戦後の西側世界の課題は、西ドイツを「脅威」として封じ込めつつ、西側の安全保障体制に組み込み、かつその経済力を西欧諸国のために役立てることであった。


板橋拓己 Takumi Itabashi
(成蹊大学法学部教授)

1978年生まれ。
北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専攻は国際政治史、ヨーロッパ政治史。主な著書に『中欧の模索――ドイツ・ナショナリズムの一系譜』(創文社)、『アデナウアー――現代ドイツを創った政治家』(中公新書)、『黒いヨーロッパ─ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年』(吉田書店)、『国際政治史――主権国家体系のあゆみ』(共著、有斐閣)など。

 

力を失うドイツ
―EUにおけるパワーシフト

ヴォルフ・レペニース

(ベルリン自由大学名誉教授)

本稿は、ドイツ連邦共和国が同国の歴史で初めて遭遇する状況のなかで執筆された。そう、本稿執筆段階のドイツには政府がないのである。EUの他の国ではよく見られることだが、ドイツがそのような事態に陥ったのはこれが初めてである。初めての経験とはいえ、その原因を挙げることはできるだろう。それは、アンゲラ・メルケル首相の支配が終わろうとしていることにある。

首相はこれまで、金融危機をはじめとする数多くの困難に直面し、そのたびにみごとな手腕でドイツ国を率いてきた。ところが、いまやこの先どの方向に進んでいけばいいのか、まったくわからなくなってしまったようだ。加えて、メルケル首相が採った政策の一つが、道徳的には高く評価できるものの、内政的にも対外的にも、予想もできなかったほどの緊張を生んでしまった。それは難民危機という緊張である。東欧、特にハンガリーで立ち往生していた数十万人もの移民希望者に対して国境を開放し、ドイツへの入国を認めるというメルケル首相の決断は、人道的な観点に立てば十分に理解でき、そうするほか手段はなかったともいえるかもしれない。しかし問題は、メルケル首相が――マックス・ウェーバーの言葉を借りるなら――「責任倫理」ではなく、「信条倫理」にもとづいて決断したことにある。つまり、首相はそれがどのような結果をもたらすかをよく考えずに、“正しいこと”をする決断を下したのである。

また、憲法の観点からは、連邦議会に自分の考えを伝えて承認を得るという道を選ばなかったことにも問題がある。さらに、欧州連合(EU)の加盟諸国に意図を伝えないままに、そのような重大な決断を下したのも早計だった。

メルケル首相の独断によって、ドイツ国内では難民に対する信じがたいほどの歓迎ムードが広がり、ヨーロッパだけでなく世界の人々が感動した。だが、ほどなくして厄介な問題が生じる。メルケル首相のモットーは“Wir schaffen das”(我々ならできる)であり、実際、当初は難民危機もどうにか乗り越えられそうに思われた。ところがその後、難民を受け入れ、収容し、世話をしなければならなくなった自治体のキャパシティが限界にたどり着いたことが明らかになってきた。効率的であることで知られているドイツの行政機構でさえ、対処しきれなくなったのである。

また、ドイツ再統一の根深い影響も忘れてはならない。ドイツはうまく再統一を果たした。しかし、それでも――予想されていたことではあるが――不平等感は残った。それが真実か否かは別として、旧東ドイツの国民の多くが「置き去りにされている」という感覚を抱いている。その結果として、ドイツ社会主義統一党(SED)のなごりである“左翼党”に票が集まった。

ところが、大挙して押し寄せてきた難民を受け入れ、問題が大きくなるにつれ、東ドイツ人の多くが抱く不満は「左翼的」なものから「右翼的」なものに変わっていく。難民の支援に投じられた資金は本来はドイツ国民のために確保されていたはずのものではないか、我々は西ドイツ人どころか「よそ者」より冷遇されている、と感じるようになったのである。

ただし、これはあまり正当な主張とはいえないだろう――旧東側が受け入れた「よそ者」の数は、旧西側よりはるかに少ないからだ。また、主にイスラム諸国からの難民に対して向けられる“外国人による文化的アイデンティティへの脅威”も、これまでの歴史と照らし合わせて、正当だとは考えられない。それでも、右翼国家主義政党である「ドイツのための選択肢(AfD)」が結成され、2017年9月の連邦議会選挙で保守的なキリスト教民主同盟(CDU)と社会民主党(SPD)に続く第三の勢力になったのである。


ヴォルフ・レペニース Wolf Lepenies
(ベルリン自由大学名誉教授)

1941年東プロシア(現ポーランド)生まれ。
歴史社会学者。1986年にベルリン高等学術研究所所長に就任し、ベルリン自由大学社会学教授と兼任。1983年アレクサンダー・フォン・フンボルト賞受賞。主な著書に『メランコリーと社会』『三つの文化――仏・英・独の比較文化学』(ともに法政大学出版局)など。

 

若き日の中曽根康弘
―憲法改正論の構造

北岡伸一

(国際協力機構理事長)

はじめに

戦後、最大の政治的争点は、憲法改正であった。その実現可能性が高かったわけではない。憲法改正のためには、衆参両院の3分の2の多数による発議と、国民投票による過半数の賛成が必要であるが、衆参両院による発議は行われたことも、試みられたこともない。一党または複数の連立政党が、両院において3分の2を占めたこともない。そもそも、国民投票に関する手続きが定められたのは、2007年のことである。それまでは、憲法制定から61年間、憲法改正の基本的な手続きさえ、準備されていなかったのである。

しかしながら、戦後政治の背景にあって、憲法改正論は常に政治を切り裂く最大の争点であった。そして憲法改正論議において、中心的位置を占め続けたのは中曽根康弘であった。1947年4月、戦後第二回衆議院総選挙に28歳で初当選して以来、2003年10月、85歳で衆議院議員を引退するまで56年あまり、またそれ以後も世界平和研究所会長などの地位からの言論活動によって、中曽根は憲法改正論の中心人物であった。

ところが、中曽根の憲法改正論の内容については、必ずしも十分知られてはこなかった。なぜ憲法改正が必要なのか、どこを、どのように改正すべきだと言うのか、改正論者の中には多くの議論があったにもかかわらず、その一中心たる中曽根の憲法改正論の特質が論じられてこなかったのは、奇妙なことである。若宮啓文(当時、朝日新聞政治部長)は、自民党内の改憲派と護憲派を代表する存在として、中曽根と宮沢喜一の対談を企画し、司会したが、対談も終わりにさしかかったころ、「話をうかがっていると、中曽根さんはやはり単なる民族主義者でもないし、戦前回帰派とも違うようで……」と述べている。護憲派の若宮が、中曽根について、漠然と復古反動、戦前回帰型のイメージを持っていたところ、現実にはそうでないことを知り、当惑している様子が見て取れる。

以上のような問題関心から、本稿は、中曽根の憲法改正論の特質を、その成立過程に即して解明することを目的とする。またそれによって、日本の憲法論議について、ある程度光を当てることができるのではないかと考えている。

ところで、政治家の主張は、必ずしも一貫したものではない。内外の政治情勢に応じて、また政治家自身の政治的な位置や政治的利害によって、政治家の主張は変化することがむしろ常である。中曽根において、一貫した主張が見出せるかどうか、疑問に感じる読者もあるかもしれない。風見鶏というニックネームがあった中曽根において、そのような首尾一貫性があるのだろうか。

しかし、以下に述べるように、中曽根康弘の場合、長い政治人生において憲法改正を主張し続けたのみならず、改正論の内容においても、驚くほど一貫している。ただ一つ、首相公選論が前面に出たときと、そうでない時があったが、中曽根の経歴の長さと時代背景の変化を考えれば、やはり驚くべき一貫性だと言ってよい。しかも、若宮の予想と異なって、国民主権、象徴天皇、基本的人権、平和主義、国際協調など、いわば進歩的、前向きの思想において、中曽根は完全に一貫しているのである。筆者自身、最近まで、中曽根の膨大な憲法改正論を、時系列にそって真剣に検討したことはなかった。今回そのような作業に従事してもっとも驚いたのは、その一貫性と前向き(ないし非復古的)な性格である。


北岡伸一 Shinichi Kitaoka
(国際協力機構理事長)

1948年生まれ。
1971年東京大学法学部卒業。1976年同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。専門は日本政治外交史。立教大学教授、東京大学教授、国連大使、政策研究大学院大学教授、国際大学学長などを経て、現職。主な著作に、『清沢洌――外交評論の運命』(中公新書、サントリー学芸賞)、『日米関係のリアリズム』(中公叢書、読売論壇賞)、『自民党』(読売新聞社、吉野作造賞)など。



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