冒頭を読む

 

華人文学という迷宮へのいざない

張競

(明治大学教授)

「華人」は故国である中国からの離脱と帰属の不安定さにおいて、宿命的にその表徴と意識に二重性を抱えることになる。誇張された商才、金銭への執着、故国への離反と忠誠といったイメージが先行しているなか、記号としての「華人」はしばしば一つの物語となる。そして、流離と疎外を経験して、かえって強靭になる生命力にまつわる神話の創出において、「華人文学」は物語の物語といえる。

そもそも「華人」や「華人文学」とは何か。ここで私たちは最初の難問に突き当たる。華人という言葉がメディアで濫用され、専門用語としても使われているにもかかわらず、その語義は必ずしも自明ではない。アメリカの華人はフランスの華人と文化的な属性が違うし、インドネシアの華人とオーストラリアの華人は文化アイデンティティは同じではない。華人という言葉の使用例を見ると、便宜上の分類もあれば、イメージをすくいあげるための装置にされた場合もある。一方、華人の内部においては、家族史に向ける想像力の糧にされたり、あるいは血統妄想の余燼として語られたりすることもある。その意味では華人は一つのフィクションといえる。

 ただ、華人という言葉は自称としても、他称としても多用されている。意味の境界が流動的である点においては、途轍もなく想像力をかきたてる。その反面、人類集団の分類単位としてはアメーバのように変幻自在である。そのため、華人というものは存在しておらず、アメリカ人、フランス人、インドネシア人のように、その法的帰属にしたがって称されるべきだ、という声は華人の内部からも発せられているし、研究者のあいだにも同様の指摘がある。それでも華人という言葉はなおその霊力が消え失せていない。

自称としての華人は識別や信任の記号であると同時に、関係者の内面の芝生を潤す春の小雨であり、功利目的の凝集力を強める、打ち出の小づちでもある。世界華商会議や華人作家の任意団体などはその端的な例と言えよう。華人という表現に対し、さまざまな意見や疑問があるにもかかわらず、本稿ではなおもこの用語を使用したのはそのためである。

他称の場合、華人は出身地を意味することもあるし、血縁を示唆したりもする。どちらの場合も「内」と「外」をまたがり、ときにはどちら側からもはみ出し、あるいは排除されることもある。とくに移民一世の場合、国家という暴力装置を後ろ盾とすることは難しいため、不安を抱えながら生を営むしかない。その多くは生きる感覚を自らの手で握りしめるために、あるいは生の証を残すために、財貨の過剰な獲得を唯一の生き甲斐とした。「華人」一世には企業家が多い現象の背後に、こうした目に見えない、ときには自覚しない理由もあったのであろう。この特殊な人間集団が現象としてつねに注目されているのはその謎の多い生態の構造によるものである。


張競 Kyo Cho
(明治大学教授)

1953年生まれ。
華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『張競の日本文学診断』(五柳書院)など。

 

越境する創作

高行健

(作家、画家)

2015年の6月末、私はミラノ芸術祭で「ルネサンスをもう一度」と題する講演を行った。ここでは、このテーマをさらに一歩進めて、現代のルネサンスがいかにして再来するかを語りたい。同時に私の創作経験についても述べて、可能な限り参考に供し、私の話が空論に終わらないことを願う。

ここで呼びかけているルネサンスは、政治的な功利性や各党派の政治的公正を超越しているだけでなく、20世紀から今日に至るまで蔓延している様々なイデオロギーの束縛も受けない。ましてや、市場経済が生み出す大衆消費文化の一時的な流行に迎合することはない。それはすなわち、作家や芸術家個人が人類の生存環境に向き合った独立自主の思考である。それはまた、自身の経験と理解から出発し、人間と社会に対する独特な認知に至り、さらに芸術的表現を加えた、是非や善悪の倫理的判断と単純な理性を超越した思考でもある。

ここで呼びかけているルネサンスは、確かに15、6世紀のイタリアないしヨーロッパのルネサンスの輝かしい成果に対応するものである。また、全人類の文化遺産を参照しており、決してある国家や地域に限られたものではない。今日の世界は情報の流通が容易になっているので、どんな文化人も例外なく自国以外の文学芸術の薫陶を受けている。作家や芸術家は、政党が宣伝するアイデンティティーなどという政治的な言葉を気にする必要はない。ましてや、自分に制限を設けて、ナショナリズムやポピュリズムの巣窟に組み込まれる必要はない。

今日の世界における再度のルネサンスは当然、国境を超える。また当然、作家や芸術家が生まれた本国の文化的背景も超える。こうしたクロスカルチャーの文学芸術の創作は、しばしば多言語となる。翻訳によって意思疎通ができるだけでなく、多くの作家や芸術家は母語以外の言語で創作している。クロスカルチャー、多言語の文学芸術の創作はすでに珍しいものではなくなった。言うまでもなく作家や芸術家は、創作に関するかぎり世界市民であり、独立自主の身分によって独白する。あるいは、世界に対して発言するのだ。

この新しいルネサンスは、もちろん先人の人文精神を受け継いでいる。人間に回帰し、人間性や人情、美学に回帰する。けれども、決して先人の焼き直しではない。巨匠の大作を前にしたときも、それを参照するだけで、今日の作家・芸術家個人の独特な認知と創造力に頼らなければならない。ここで言う認知は、古い人道主義の人間に対する認知とは違う。完璧な人間などあり得ない。心身ともに健全で大自然と共存できる人間は、太古の神話のようなもので、現実世界には存在しない。どこでも見かける凡人たちは、様々な生活の苦境のただ中にいて、自身の悩みに苛まれ、途方に暮れている。


高行健 Xingjian Gao
(作家、画家)

1940年生まれ。
作家、画家。北京外国語学院卒業。文化大革命終結後、西洋モダニズム文学の紹介と小説および演劇創作を開始。87年に水墨画家として渡欧。パリに居を定め、劇作『逃亡』、長篇小説『霊山』『ある男の聖書』などを発表。97年にフランス国籍を取得。2000年、中国語で創作する作家として初めてノーベル文学賞を受賞。

 

生き残るための言語

ハ・ジン

(詩人・小説家)

トランプ政権の孤立主義に支配された現在の政治情勢は、グローバル化のプロセスを減速させるかもしれないが、そのような歴史的な針路は間違いなく続くはずである。私たちは今、人と文化が出合い交わる世界に暮らし、繁栄と発展を続けている。異なる言語と文化の出合いは、往々にして「重複領域」と呼ばれる空間を作る。そのような空間で暮らし、仕事をせねばならない人々もいる。彼らにとっては、その「重複領域」は、不安定で不透明なものである。それまでの拠り所や価値体系が損なわれたり、あてはまらなくなるという意味では不安定で、不確実性や混乱がいとも簡単に自分の立ち位置を覆い隠し、自分のアイデンティティでさえも麻痺させるという意味では不透明である。それでも、私たちが意味ある存在になろうとするのであれば、このような「重複領域」は私たちの一部にとって肥沃な土壌であり、活力溢れる空間となりうる。

ここでの主題は文学であるため、「重複領域」で活動する作家や言語、そしてそこで生じるいくつかの問題に焦点をあてたい。「重複領域」に存在する作家は大まかに次の二つに分類することができる。

一つは、二つないしはそれ以上の文化について書くが、一つの言語でしか創作活動をしない作家である。もう一つは第一言語がすでに与えられているが、その第一言語の習得に必死にならなければならない作家である。インド亜大陸出身のほとんどの作家は前者に属する。母国の公用語である英語で育ち、英語は第一言語である。親が東アジア出身者であるアジア系アメリカ人作家として、チャンネ・リーやマクシーン・ホン・キングストン、エイミ・タン、ギッシュ・ジェン、ルース・オゼキなどが挙げられる。彼らは皆、英語が創作活動の言語であり、多くの場合、英語でしか創作活動ができない。

これに対して、創作活動を行うための言語を習得しなければならない作家たちは、もっと複雑な状況に置かれている。なぜなら、彼らが不自由さをたびたび味わわされる中で、生き残るために苦闘し続けなくてはならないからである。本稿では、この後者の作家たちに焦点を合わせ、彼らが直面するいくつかの根本的な問題について検討したい。

その問題を掘り下げる前に、言語の本質的な問題を浮かび上がらせる小説について、アメリカへの移民経験という視点から簡単に述べたい。

その小説とは、ジークリード・ヌネの『神の息に吹かれる羽根』である。1995年の出版以来、この作品はアメリカの大学で教えられ、特に大学生に読まれている作品となっている。また、若手の小説家になにかしらのインスピレーションを与えてきた、影響力のある作品である。その小説の中で描かれる移民経験の核心は言語である。その言語によって作品の中の登場人物の人生が形づくられ、輪郭を帯びている。


ハ・ジン Ha Jin
(詩人・小説家)

1956年中国生まれ。
黒竜江大学で英文学を学び、山東大学でアングロ・アメリカ文学の修士号取得。ブランダイス大学で博士号取得。詩人、小説家としての活動の他、ボストン大学などでも教えている。主な小説に『待ち暮らし』(早川書房)、『自由生活』(日本放送出版協会)、『すばらしい墜落』(白水社)などがある。

 

シルクパンク詩人であり、エンジニアである私

ケン・リュウ

(作家)

わたしが中国に住んでいて子どもだったころ――学校に通いだしたころだと思う――家に帰る道がかなり遠くて、怖かった。交通量の多い道路を横切り、一度も覚えられた試しのない角を曲がり(とりわけ雨が降ると、なにもかも違って見えた)、一年坊主をからかう年かさの子どもたちのいる近所を通らねばならなかった。この問題に対してわたしが出した答えは、ほかの子どもたちとまとまって歩くことだった。だが、わたしは足が遅く、ほかの子たちの気を惹いて、置いていかれないようにしなければならなかった。これに対するわたしの答えは、彼らにお話をすることだった。モンスターや宇宙船に関するお話を紡ぎだし、無事共同住宅に戻るまで、みんなを楽しませつづけた。ときには、とくにわくわくする物語をわたしが最後まで話せるよう、家に帰るまえに中庭に集まることさえあった。

どの作家も、この手のはじまりの話を持っている――どこかの時点で“どうやって作家になったのですか”と必ず訊かれることから、こうした逸話をひとつ持っておかねばならない。ときには、はじまりの物語は、事実に近いものですらあるかもしれない。

はじまりの物語をするとき、作家は嘘をつくつもりではないと思うが、そうした話が100パーセント事実であることもまれである。さまざまな出来事が省かれ、細部が潤色され、現実の暮らしでの長い期間が巧みに洗練されて、刺激的なモンタージュ作品に仕上がり、運の役割が軽く扱われたり記述からすっかり消されたりし、実際にはたんなる行き当たりばったりのことが次々と起こっているだけのことが納得のいく原因と結果のせいにされる。

われわれは、人生を作り上げている偶然の出来事の年代記に筋書きをどうしても押しつけずにはいられない。

わたしの場合、人生のその当時の幼いころについてはかすかな記憶しかなく、現実の記憶と、祖父母の話に基づく、あとから作り直した記憶とをわけるのは難しい――祖父母はわたしがフィクションを書くことに興味を示したとき、その話をしてくれた。わたしの幼いころの話のお伽噺めいた構造――克服しなければならない危険にあふれ、味方に引き入れなければならない仲間と暗い森の都会版を抜けていく旅――は、脚色を示唆しているが、確かなことを知るのは困難だ。

種として、われわれは物語を通じて世界とわれわれ自身を理解するよう進化した。このことはフィクション作家に仕事の安定をもたらしたが、同時に、われわれは“真実”と“事実”のような言葉の取扱いに慎重にならねばならないことを意味している。前者は世界を理解することだが、後者は世界を観察することである――どちらも理解者あるいは観察者独自の環境認知の影響を逃れられない。われわれはおのが人生の物語の主人公であり、その有利な立場がもたらしうるあらゆる先入観を抱きがちなのだ。

しかしながら、このことは、真実を求める義務あるいは事実を尊重する責任からわれわれを免れさせはしない。わたしは、現実のつねになにかに媒介されているという性質を、すべての理解あるいは観察は等しく有効であることを意味しているとは見ない。われわれはみな現実という象を撫でる群盲だが、われわれが思いつく最高のメタファーを通してまさぐる指で象を描写するのと、すでにその牙の鋭い先端に触れているにもかかわらず、象が蛇とはまったくおなじものであると頑なに主張するため、万歳して諦めてしまうのとのあいだには、違いがある。


ケン・リュウ Ken Liu
(作家)

1976年中国甘粛省生まれ。
ハーバード大学ロースクール卒業後、作家、弁護士、プログラマーのほか、中国SFの翻訳者としても活躍している。2002年に“Carthaginian Rose”でデビュー。主な著書に『紙の動物園』、『もののあはれ』、『母の記憶に』(いずれも早川書房)など。

 

異郷ヨーロッパの文学者たち

ジンバット

(作家、詩人)

わたしがデンマークにたどり着いたのは、1992年3月13日のことだった。冬はまだ完全に過ぎ去ってはおらず、道端にはまだ雪が残っていた。そのころ、インターネットはまだ普及してはいなかったが、わたし自身、自分はもはや詩人ではく、デンマーク語では創作することができない「前詩人」であると感じていた。一人の異邦人が、北欧の土地で、白雲浮かぶ青い空と青々とした木々や緑の草の間をカラスが飛び回るのを眺めながら、これからはこの見知らぬ国が居住地となること、そして、孤独の中で新たな言語を学ぶことになることについて考えた。最初の4年間、わたしは遠くにいる友人に手紙を書いた。これは、ある種の対話と言ってもいい。やがて、より多くの時間を、日記を書くことに使うようになった。まるで自分自身と対話するかのように。そのころわたしが書いていたものは、自分のために残す文字であった。なぜなら、デンマークには中国語書籍の市場もルートもなく、中国においても「逃亡者」が書いたものが出版されることはあり得なかったからだ。

あの時代、上海の「地下詩人(アングラ詩人)」と「地下作家(アングラ作家)」は、中国国内においていかなる書籍も正規に出版することは不可能であった。

80年代、わたしは上海の「地下文学(アンダーグラウンド文学)」グループの一員であった。「京不特」というのは80年代に上海で使っていたペンネームで、のちにこの中国語の音「Jing bu te」をローマ字の名前「Jimbut」に変えた。今日、デンマークでも相変わらずこの「Jimbut」というペンネームを使っている。わたしの本名は馮駿、またの名を馮征修と言い、1965年に上海で生まれた。1982~86年に上海師範大学の数学学部で学び、1986年に卒業して理学士の学位を取得している。卒業後は中学校の教師となった。

アングラ作家とその逃亡劇

わたしが生まれた1年後に、中国の文化大革命が始まった。60~70年代、文学方面においてはつまらない退屈なイデオロギーの宣伝だけで、そのほかのものはほとんど目にすることができなかった。児童書も含むあらゆるものが階級闘争を説いていて、大人たちは面白いと思える読み物を見つけることはできなかった。わたしの幼年期にアンデルセン童話が登場したのは、たった一度だけであった。子供のころのわたしは、しょっちゅう隣近所の大人の人にお話をしてほしいとせがんでいた。しかし、お話を聞かせてくれる人が見つからないときには、他の子供に声をかけ、自分が彼らにお話を聞かせた。なぜなら、こうすることでわたし自身も自分が語るお話を一緒に聞くことができるからだ。たとえば、「このとき、そのサルが彼を助けに来たのです」というところを語りながら、心の中ではわたし自身も聞いている人と同じようにほっとして、「ああ、ようやくサルが彼を助けに来てくれた」と思ったものだ。


ジンバット Jimbut
(作家、詩人)

1965年上海生まれ。
1986年に上海師範大学卒業、1999年デンマーク・オーデンセ大学卒業、2002年に南デンマーク大学で修士号(哲学)取得。2000年デンマーク国籍取得。中国文学サイトの編集者のほか、中国文学の講師としても活躍している。主な著書に『解读悲剧的䜥生(An interpretation of Nietzsche's;Die Geburt der Tragödie)』(Beijing University Press),『《蓝潮》(The blue tide)』(Shanghai Normal University Press)など。

 

「南洋」文学と中国的なもの

E・K・タン

(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校カルチュラル・スタディーズ・比較文学科准教授)

はじめに── 東南アジアへの華人移住の歴史

華人移住の歴史は、15世紀の明朝時代にまでさかのぼる。中国初の航海者で、東南アジア、南アジア、西アジア、東アフリカへの遠征を任された提督、鄭和は、1405年から1433年までに合計7度、外交を目的とした航海を行った。提督自身の公的な記録は、鄭和が外交官として仕えた数名の皇帝の後継者であった皇帝に破棄されたが、4人の乗組員が個人的に残した記録によると、航海への参加者のなかには提督の船団から離脱した者もいた。船団とともに中国へ戻ることなく、鄭和が何度か訪れた港町、マレーシアのムラカ(マラッカ)に定住することを選んだのである。この移住の歴史に関する公的な記録は残っていないが、この示唆に富む情報から、ムラカには15世紀からすでに華人コミュニティが存在していたことがわかる。

東南アジアへ華人が盛んに移住を始めたのは、18世紀末である。ヨーロッパの宗主国が東南アジアで存在感を強めたことで、中国の商人たちがこの地域に引きつけられたのである。資源が豊富にあり、また数百年ものあいだ交易や武力によってこの地域を支配していたイギリス、ポルトガル、オランダ、フランスなどと取引する機会にも恵まれている地域と見られたのだ。

19世紀半ばから20世紀初めにかけて、華人移民の大きな波がふたたび東南アジアへ押し寄せる。ムラカやシンガポールといったさまざまな中継地点で貿易ビジネスが盛んになると、ゴムやスズなどの産業が発達し、港湾労働者をはじめとする労働力の需要が高まった。広東や福建などの中国南部で、当時干ばつによる飢饉と内戦にさいなまれていた人びとがクーリーとして東南アジアへ向かったのである。

20世紀までに、東南アジアの華人はそれぞれ独特の特徴をもった多様なコミュニティを形成していた。まず、西洋による植民地化以前に移住した初期の移民たちは、数世代を経て現地文化にほぼ同化していた。客家語や潮州語などの母語を保ちながら地元のマレー文化を自分たちの文化に取り入れたという例が多く、これが今日の「ニョニャ・ババ(娘惹峇峇)」文化を形成した。このハイブリッド文化は、食とファッションにもっとも顕著に表現されている。植民地主義の最盛期にはニョニャ・ババはイギリス人に近かった。ニョニャ・ババの多くは自らをイギリスの被支配者と見なしており、イギリス式の学校へ通い、なかにはイングランドに留学するものもいたので、英語も堪能だった。

ヨーロッパの植民地拡大の歴史とともに東南アジアへたどり着いた中国の商人やクーリーたちは、ニョニャ・ババとは違う理由でこの地域へやってきた。所属する社会階級もニョニャ・ババとは異なったため、東南アジアを自分たちの新しい故郷とは見なしていなかった。故郷で待つ家族を養うのに充分な金を稼いだらいずれ出身地の“村”に戻りたいと願う、一時的な逗留者にすぎなかったのである。


E・K・タン E. K. Tan
(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校カルチュラル・スタディーズ・比較文学科准教授)

イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校でPh.D.(比較文学)取得。華人文学、東南アジア研究、ポストモダニズム、トランスナショナリズムなどを研究。主な著書に“Rethinking Chineseness:Translational Sinophone Identities in the Nanyang Literary World”(Cambria Press)などがある。

 

アメリカの中国語文学

シャオファン・イン

(中国・西北工業大学外国語学院院長、米オクシデンタル大学アジア・アメリカ学教授)

中国系アメリカ人文学には、英語で書かれた作品と中国語で書かれた作品が存在する。さまざまな理由から、批評的な研究のほとんどは英語作品を対象とする傾向にあるが、中国系移民とその子孫たちが自分たちの母語で書いた作品の創造的な技や美、さらに多面的で色あせることのないテーマへも目が向けられるべきであろう。一般大衆にはあまり知られていないとはいえ、中国語文学が中国系アメリカ人に及ぼしてきた影響はけっして過小評価されるべきではない。中国語文学は、いわば文化的な“飛び地”と見なされ、移民に社会的安定をもたらすとともに、中国人読者から絶大な人気を得てきた。北米ではどの地域でも、中華街の書店には数多くの中国語文学の書籍が並んでいる。このことからも、中国語文学の中国人コミュニティに対する影響力の大きさが明確にうかがえる。

アメリカにおける中国語文学の起源は、19世紀半ばにさかのぼる。1854年4月22日、アメリカ初の中国語新聞『金山日新録』(Golden Hills News)がサンフランシスコで刊行された。その後、数十年のあいだに全米の主要な中華街に中国語新聞が相次いで登場する。1902年にはすでに中国語刊行物が盛んに発行され、そのことに感銘を受けた主流メディアの記者はこう記している。

「自由と言論の自由を標榜するこの国は、ジャーナリストになろうとする中国人、発言すべきことを発言しようとする中国人にとって望ましい環境となっている。サンフランシスコには中国語の日刊紙4紙のみならず、週刊誌も何誌かあり……」。

質やジャンルの幅はさまざまであったとはいえ、中国語新聞の多くには、購読部数を伸ばす目的で文学作品が掲載されていた。高名な中国人ジャーナリスト、伍盘照(Ng Poon Chew)が創刊した『中西日報』(China-West Daily 1900~1951年)や、中国系アメリカ人としては初の女性作家といわれる水仙花(Sui Sin Far, Edith Maude Eaton)が愛読していた『民言日報』(Chinese World 1891~1969年)など、何紙かはとりわけ文学作品に力を入れていたことで知られ、中国系アメリカ人コミュニティにきわめて大きな影響を与えた。

中国語文学のアメリカでの開花は、数多くの要因が組み合わされた結果である。中国人のアメリカ定住の歴史を通じて、中国語文学は、中国人コミュニティとアメリカ社会全体とを架橋する役割を果たし、解釈のプリズムとなっていた。移民の多くは、中国語文学を通して第二の祖国についての情報を得るとともに、自らの経験をほかの中国語話者たちと共有したのである。

一般に中国系移民は、英語の理解力不足から、中国語文学を頼りにアメリカ社会についての知識を身につけた。しかし、英語に堪能な人びともまた、中国語文学を必要としていた。中国語文学は、アメリカでの生活の印象や感覚を伝える重要かつ便利な手段と見なされていたのである。

中国語文学がアメリカで栄え、人気を博したのには、もうひとつ決定的な要因が考えられる。中国語文学は中国系移民に共同体としての連帯感と民族の一体感をもたらすという点である。


シャオファン・イン Xiao-huang Yin
(中国・西北工業大学外国語学院院長、米オクシデンタル大学アジア・アメリカ学教授)

中国・南京大学卒業後、ハーバード大学で修士号および博士号取得。専門はアジア系アメリカ人文学、東アジア文化研究、現代中国など。主な著書に“The China Path to Economic Transition and Development”(編著・翻訳、Higher Education Press)“An Anthology of Global and Transnational Studies”(共著、Nanjing University Press)などがある。

 

「海のアジア」のいま、むかし

宮城大蔵

(上智大学教授)

石垣島のクリアランス船

「海のアジア」の今昔などと、たいそうなタイトルをつけたものの、ここで扱うのは、せいぜい四半世紀を挟んだ今昔である。また、いかにも個人的な経験談が軸であることも、あらかじめご容赦いただければと思う。

話は今から25年ほど前のことに遡る。大学卒業後、公共放送に記者として採用された私は沖縄放送局に配属され、駆け出しとしておきまりの警察担当の1年生記者であった。刑事その他関係者への夜討ち朝駆けなどに今ひとつ没頭することができず、振り返って見ると、いささかぼんやりした記者だったと思うが、そんな私の気を引いたのはある日の午後、記者クラブで配布された発表モノであった。

それは海上保安部関係の案件で、石垣島の沖合で船舶同士の衝突事故が起きたというものであった。ケガ人などもなく、双方の船の損害も軽微。海保も扱う警察担当記者としては、その日の夕方のニュースに上げるかどうかの判断になる。一見してニュースとして取り上げるには至らないことは分かった。それでは何が興味を引いたのか。発表資料の詳細に目を通すと、船の一方は中国の上海から台湾に向かう途中で、もう一方は逆に台湾から中国大陸に向かう船であった。双方が石垣港に立ち寄るところで衝突したというわけである。

石垣島は、那覇から南西に400キロあまり。なぜそこに中台を行き来する船が2隻もいたのか。いささか気になって海保や石垣市役所などにきいて分かったのは、次のような事情であった。当時、台湾は大陸中国との直接往来を厳しく制限していた。1979年に中国が中台交流の促進を意図して「三通」(「通航」「通商」「通信」)を提案したものの、台湾経済の大陸依存を警戒する台湾側はこれに慎重であった。とりわけ「通航」については基本的に認めない状態がつづいていたが、一方で台湾資本の大陸進出や交易は盛んになっていた。

そこで石垣島である。中台間を往来する船は、直接的な往来が制約されているため、香港などを経由していた。だが当時、中国政府は経済発展の重点を従来の広東省などばかりでなく、上海エリアにも置き始めており、台湾から華中方面に向かう際、中台直行を避けるための経由地として、地理的に便利な石垣島が注目されたのであった。

こうした船はクリアランス船と呼ばれ、便宜的に石垣港に立ち寄る形をとるだけなので手間のかかる入港はしない。沖合に停泊して通関業者が出入国の手続きを行うことで第三国を経由した形をとる。前述の事故は、そうしたクリアランス船同士が衝突したものであった。1989年には年間250隻であった石垣寄港のクリアランス船は、1995年には1,000隻に増え、その後、最盛期の2005年から2006年には5,000隻を越えるまでになっている。一方で石垣港域は航路が狭く、サンゴ礁も多いことから、座礁や衝突といった事故も起きていたのである。


宮城大蔵 Taizo Miyagi
(上智大学教授)

1968年生まれ。
立教大学法学部を卒業後、NHK入局。96年までNHK記者。2001年一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。立教大学法学部助手、北海道大学大学院法学研究科専任講師、政策研究大学院大学助教授などを経て、現職。著書に『戦後アジア秩序の模索と日本』(創文社、サントリー学芸賞・中曽根康弘賞受賞)、『現代日本外交史』(中公新書)などがある。

 

「越境者」から考える日本の近代

塩出浩之

(琉球大学法文学部教授)

近年、移民問題や難民問題をはじめ、グローバルな「ヒトの移動」という現象は強い関心を集めている。ヨーロッパでは、移民や難民の大規模な流入によってEUや各国の政治が大きく揺らいでいる。アメリカでは、移民の受け入れを厳しく制限しようとするトランプ大統領の政策が激しい論議を呼んでいる。そして日本では、高齢化社会への処方箋として移民を受け入れるか否かといった議論が盛んに行われている。

ところで歴史的にみると、このような移動するヒト、すなわち「越境者」の出現は決して目新しい現象ではない。日本もその例外ではなく、かつて日本人自身がアジア太平洋の全域に広がる「越境者」となった時期があった。グローバルなヒトの移動は、むしろ我々が生きる「近代」という時代を特徴付ける普遍的な現象として捉えるべきなのである。この論考では日本人「越境者」の歩みを中心として、ヒトの移動という観点から日本の近代を考えてみよう。

日本の「近代」はいつ始まったか

「近代」という言葉には、「進歩」や「西洋化」などさまざまな意味が込められることがある。しかしここでは「近代」を本来の意味で、“現在とつながる特徴を持つことにより、それ以前と区別される時代”として捉えよう。グローバルな「越境者」の登場という観点から日本の近代がいつ始まったかと問うならば、始点は19世紀半ばの開国に求められる。

日本の開国以後、横浜をはじめとする開港地には貿易のために欧米人や中国人がやって来た。鎖国下でも長崎ではオランダ人や中国人が貿易を行っていたが、自由貿易は認められておらず、また彼らの活動は厳しく制約されていた。しかし安政の五ヵ国条約(1858年)は、開港地に設けられた居留地という区画に限って、外国人に自由な商業や居住を認めた。日本が世界市場に組み込まれるとともに、日本へのヒトの移動も本格化したのである。なお最初に日本に来た欧米人の多くは、以前は上海や香港で中国との貿易に携わっていた。イギリスがアヘン戦争(1840~42年)に勝利した結果、上海などの開港や香港のイギリス領化を経て、東アジアにおける欧米人の活動は活発化していた。日本の開国は、その延長線上に位置付けられる出来事なのである。つまり日本の「近代」は、東アジアの「近代」の一部をなしているともいえよう。

さらに明治維新以後の条約改正交渉の結果として、19世紀末に欧米諸国の領事裁判権(外国人を被告とする裁判を、その国の領事が、その国の法律によって行う制度)が撤廃されると、引き換えに居留地制度も廃止され、外国人は日本全国における商業や移動・居住の自由を得た。これを「内地雑居」というが、当時の政界や言論界では、「内地雑居」が実現すると欧米人が莫大な資本で土地や資源を手に入れて日本を植民地化するのではないか、また中国人の商人や労働者によって日本人の仕事が奪われるのではないかといった懸念が盛んに語られていた。こうした懸念は、どれほど当たっていたかは疑問だが、現実に政治を左右する力を持った。結果として内地雑居が始まった後、当初は外国人の土地所有権が認められず、また中国人の日本での労働は制限された。当時の日本人が内地雑居に対して抱いた懸念は、日本の開国がもたらしたグローバル化に対する反作用としてのナショナリズムだったといえよう。それはまさしく、今日の世界で起こっている事態と地続きなのである。


塩出浩之 Hiroyuki Shiode
(琉球大学法文学部教授)

1974年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は日本近代史、日本政治外交史。著書に『岡倉天心と大川周明』(山川出版社)、『越境者の政治史』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞、毎日出版文化賞、角川源義賞)、『公論と交際の東アジア近代』(編著、東京大学出版会)など。



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