冒頭を読む

 

「科学」はどこにあるのか?
― 科学技術政策の「忘れ物」

埴岡健一

(国際医療福祉大学大学院教授)

「科学技術」の中に「科学」の居場所がない

筆者は科学の研究者でもなければ、科学の研究に関する研究者でもない。ただ、医療政策に関心があるものとして、医学の臨床研究については多少ウォッチしてきた。政府内閣府のライフイノベーション戦略を検討する会議の委員であったことがある。また、JAXAの宇宙ステーションの活用に関する検討会のメンバーであったこともある。政府関連の科学技術戦略の評価に関しては少しだけだが関わったことがある。その間、多くの不可思議な感覚を抱いてきた。

「科学技術に関しても成果を評価していかなければならない」という一般的なムードがある。筆者もその通りとは思うし、大方の読者もそう考えられるであろう。だが少し考えてみれば、どんな科学技術に関してどんな評価なのかが大きな議論になるだろうことが分かる。幅広い科学技術を十把一絡げには捉えられないだろう。

研究者自身からの常套セリフは、「長い眼で見てくださいよ。研究の結果が成果になるには20年も30年もかかります。だめと思ったことが大化けすることもあるので、短期的短絡的な評価は科学技術を殺してしまいますよ」。

こちらも1-3年の眼だけで見ようとはしていない。それなら30年評価の方法を提案してほしい。また科学技術政策はもう何十年もやっているのだから、30年前から20年前までの10年間の事後評価を知りたいが、そうしたものが体系的に示されたものを見たことはない。当たるかどうかの事前予測が困難であれば、事後的(かつ長期)でいいので、どんなものがどのように当たり、外れたのか知りたいものだ。

行政担当者からは板挟みの苦悩が聞こえてくる。「財政当局からは評価しろと言われ、研究者からは評価は無理と言われ、評価指標を考えてみても、結局はあまり当てにならないと思っても論文引用数ぐらいしか思い浮かばない」。また、研究を評価することに比べて、科学技術政策、すなわち行政が研究に投入した税金に対する効果に関しては、自らへの通知表になるためか、行政が話題にすることは少ない。

そんな中、筆者は3-5年で評価するものと20-30年で評価するものを分別してそれぞれの方法を示せばいいではないかと考え、その原案を提案するなどしてきた。そんなことを漠然と考えていた中、今回、サントリー文化財団主催の「科学と社会研究会」において、主として科学技術のうちの科学に関して社会との関係を考察する場と議論に参加して、国の政策の中で、科学技術の科学と技術を別に扱う仕組みがきっちりとは確立されてはいないようであることに気付いた。その原因やその弊害と対処法についてはまだ十分に考察が及んではいないが、まず、本稿では、科学と技術が分別されていないという現象があることを指摘することを目的としたい。その原因、弊害、解決策などについては、読者によるご高察を待ちたい。


埴岡健一 Kenichi Hanioka
(国際医療福祉大学大学院教授)

1959年生まれ。
日経ビジネス誌副編集長、日本医療政策機構理事、東京大学医療政策人材養成講座特任准教授、東京大学公共政策大学院医療政策教育・研究ユニット特任教授を経て現職。内閣府総合科学技術会議ライフイノベーション戦略協議会委員なども務めた。編著に『医療政策集中講義』(医学書院)など、訳書にチャールズ・ハンディ『もっといい会社、もっといい人生』(河出書房新社)。

 

科学論の工学的分析

宮野公樹

(京都大学学際融合教育研究推進センター准教授)

なぜ、研究者らは口々に「これからの科学像」が求められている、というのか。それは現状に不満があるからに他ならないだろう。しかし、だからといって「これからの科学像」を研究者らが述べ合ったところで、その不満は解消され得ない。現状の科学を取り巻く社会はこうなっている、現政策のここが問題だ、歴史的に振り返るとこうだ、関係者らが集まって議論する空間が必要等々、理解は深まってもそれだけであり、当の科学像の方は今を生きる人々の中に依然としてそのままにある。これは決してそのような営み、つまり研究者の仕事を否定しているのではなく、それだけでは科学像を変えるには不十分ではないかと指摘したいのである。そして、その指摘は当然研究者らも自覚するところであり、ゆえに、サントリー文化財団で「科学と社会研究会」が発足し、これまでの「科学」にまつわる議論だけでは足りない部分にも焦点を当てようというのである。すなわちそれは、よりよき科学像をいかにして達成するか、という問いである。

この問いに真正面から答えることを本稿の目的とし、その切り口として筆者自身の立場を利用したい(するしかない)。それは6年前(2011年)まで普通の理工系研究者であったことである。正確には、金属組織学をベースとした半導体製造技術応用による細胞研究用マイクロデバイスの研究をしていた。どうやら、科学論近辺では天文学や数学など理学系出身は多いが工学系出身は少数とのことで、筆者が科学論についてなにか言えることがあるなら、それは我が身の立場を利用した工学的な観点からこの問いに挑戦するしかないだろうと考えるに至った。人文系の学術的訓練を受けていない私などが歴々の科学論者と同列に並ぶなど恥ずかしいことではあるが、このような事情にて何卒ご了承願いたい。また、本論では利便性のため、乱暴ではあるが科学技術社会論を主としつつも、科学哲学、科学史、技術史など科学にまつわるメタ科学的な学術領域を「科学論」として括る。

さて、我が身を踏み台として論を興すことについて補足したい。その最大の特徴は現役の工学系研究者が科学論について述べることではないことにある。筆者は現在、古典的な学問論、大学論に照らして今日の研究者間における「異分野融合」について探求と実践を行っている他、本研究会のような科学と社会について検討する研究会や大学改革、科学技術政策、産学連携について検討する場に参画している。今回は、工学系出身者ながらも科学論界隈で探求する身として、どうしても持ってしまう違和感を頼りに分析を試みようと考える。ゆえにそれは、現役工学者が科学論にたいして外側から述べるものとは相対したもの、つまり内側からみた科学論の工学的分析とも言えよう。

さらに、その違和感の所在について読者の理解をより得るため、あらかじめ筆者の意識変化について紹介しておきたい。これは三流の工学系研究者の赤裸々な告白でもある。

現役の工学系研究者であった頃、もちろん科学論なるものの存在は知っていた。が、自分自身が行っている研究、それこそが科学であり自分自身がもっともよく知ることであるので、科学論とは関わらなくてもよいと本気で思っていた。理科系である自分は「世界」の現象をだいたいは説明できるから賢いのだと思っていた。なお、ここでの「世界」とは自然現象や物的現象のことを指しており、おもしろいことにも政治、経済、制度、法律、組織といった社会全般はかつての自分にとって「世界」ではなかった。ゆえに世界には「法則」というものが間違いなく存在し、その法則を得ることはその現象を制御下におくことと同じと考え、おもうがままに現象を動かせると信じていた(ここで純粋理学系と工学系の差が顕著となる。つまり、法則を知りたいだけの理学系と、それを制御しようとする工学の差といえよう)。

その後、現領域である学問論、大学論に流れ着き、今、純粋工学系研究者であった自分を振り返るなら、これまで自分は何をしていたんだろう、という疑問に尽きる。科学論や特に哲学を知っておかなければ、決して真なる「いい仕事」はできないだろうに。自分は世界をほぼ説明できるなどというのはなんとおこがましいことであろうか。理工系でやっていた研究など、極々限られた領域での、極々限られた条件下(えてしてその条件は日常生活や我々の生まれ持った常識のそれとはほど遠い)であるのに。業績を増やすことばかりを考えていて、その意味合いについては無考慮だった。論文は出せてもそれだけ。業績が上がってもそれだけ。ポストについてもそれだけ。そのように考えることができるようになったのは、やはり哲学に触れたおかげだろう。学問とは論文を書くことにあらず。本当の私のやりたいこと、私の本分、私の信ずる世とは何か。それをもとに世を生きずして生きることにはならないことを知った。


宮野公樹 Naoki Miyano
(京都大学学際融合教育研究推進センター准教授)

1973年生まれ。
立命館大学理工学部機械工学科卒業後、同大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。立命館大学理工学部研究員、九州大学応用力学研究所助手、京都大学ナノメディシン融合教育ユニット特任講師、京都大学産官学連携本部特定研究員を経て現職。主な著書に『研究を深める5つの問い』(講談社ブルーバックス)、『異分野融合、実践と思想のあいだ。』(ユニオン・エー社)など。

 

科学技術と自然の未来
― オードヒューム『永久運動の夢』を出発点に

中島秀人

(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

自然観とは、自己や社会についての人間の理解を宇宙に投影したものとみなすことができる。逆に、自然についての理論は、個人や社会集団がどのようにふるまうか、あるいはふるまうべきかを暗黙に含意すると歴史的には解釈されてきた。

キャロリン・マーチャント『自然の死』、工作舎、1985年、140ページ(原典により筆者が改訳)

英国の航空工学者アーサー・オードヒュームは、1977年、『永久運動の夢』(高田紀代志・中島秀人訳、朝日新聞社、1987年/ちくま学芸文庫版、2014年)という著作を出版した。版を重ねたこの本は、約40年後のいまでは、永久機関の歴史の基本的な文献と見なされている。だが、その副題は「ある妄想の歴史」という穏やかならぬものだ。本書を通読すると、人間がいかに永久機関という夢にとりつかれてきたかが分かる。その妄想に捕らわれたのは、ペテン師に限ったものではなく、有名な科学者や技術者も含まれていた。

水車・風車と永久機関

オードヒュームによれば、永久機関に最初に思い当たったのは製粉を営む人々であった。水車を使っていたからである。オードヒュームの本の第三章にあるように、水車を使った典型的な永久機関は、図1のような装置だった。これは、1618年にイギリスのロバート・フラッドが提案したものだ。水車が歯車を介して駆動しているのは、アルキメデスのらせんと称されるものを利用したポンプである。このポンプでくみ上げた水が水車を駆動し、今度は水車がポンプを駆動して水を汲み上げる。こうして運動は永久に続く。驚くべきことに、余力で左端の挽き臼まで動かすとされていた。フラッドはオックスフォード大学出身のパラケルスス派の医師で、錬金術や魔術のような神秘主義に関心を持っていたといわれる。

類似の装置は、風車でも考案された。図2は、イタリアのマルコ・アントニオ・ズィマーラが著書『魔術医療の洞窟』で述べた「水やおもりを使わず永久運動を作る方法」である。風車がふいごを動かし、そのふいごが風車を動かす。同書に挿絵はないので、この図はズィマーラ本人のものではない。1941年に発表された科学史の専門論文のために、ズィマーラの記述をもとにプロの画家が描いたものだ。ズィマーラもまた神秘主義の影響を受けた医師であった。パドヴァ大学出身の彼は、母校だけではなく、サレルノでも教鞭を執った。

自己回転輪

永久機関には、上述のものとは違って、水や空気といった媒質を使わないものもあった。図3のように媒質なしで永久運動するものを、オードヒュームは「自己回転輪(self-moving wheel)」と総称している。この図のようなタイプは、日本では金槌車と呼ばれることもある。各々のレバー(金槌)を、左方向には自由に倒れるが、右方向には円周からみて直角までしか倒れないようにしておく。これを円周上に等間隔に据えると、レバーは自重で図のように配置する。円の右側のレバー(たとえばA、B、C)は、左側のレバーよりも中心から遠い。したがって、力のモーメントは右側の方が大きく、車輪は右に回転する。回転が進むと、最頂部を過ぎた次のレバーはAのあった場所に倒れ込む。レバーの全体の配置は元に戻るので、再び右回転のモーメントが生み出される。こうして運動は永久に続くと考えられた。

自己回転輪には、金槌車とは違って、玉の転がりを用いたものもある。図4は、その一例である。丸い枠を曲線状のスポークで区切って、各々の枠に丸い玉を一つ置く。最頂部を過ぎた枠の中にある玉は、スポークの曲がりによって右側に転がり出るようになっている。これに対して左半分では、玉は中心近くにはまり込む。玉の作る力のモーメントは、全体として右側の方が大きい。これによって、矢印の方向の運動が永久に続くと考えられた。

詳しく計算するといずれの自己回転輪も実際には力のモーメントが左右で等しくなり、運動は生じない。にもかかわらず、この種の装置は繰り返し提案された。


中島秀人 Hideto Nakajima
(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

1956年生まれ。
東京大学大学院理学系研究科・科学史・科学基礎論専攻博士課程満期退学。東京大学先端科学技術研究センター助手、東京工業大学助教授、東京工業大学大学院社会理工学研究科教授を経て現職。著書に『ロバート・フック ニュートンに消された男』(朝日新聞社、大佛次郞賞)、『日本の科学/技術論はどこへいくのか』(岩波書店、サントリー学芸賞)など。

 

科学とともに未来を拓く
― 文化としての科学

野澤聡

(獨協大学国際教養学部准教授)

はじめに

未知への挑戦である科学という営為に対して、われわれはつねに期待と不安を抱いてきた。だが、近年では科学に対する期待よりも不安のほうが目立つように思われる。ここ数年に限っても、次のような顕著な事例を挙げることができる。

今年3月、人工知能(Artificial Intelligence: AI)のコンピュータ囲碁プログラム「アルファ碁」が世界トップレベルの棋士と対局して勝利した。囲碁はチェスや将棋に比べて複雑であることから、トップレベルの棋士に勝つプログラムの出現はまだ先のことであると考えられていたため、「アルファ碁」の勝利は大きな反響を呼んだ。「アルファ碁」の勝利ほど目立たないが、これまで人間にしかできないと考えられてきた運転や翻訳や画像診断などの領域に人工知能が急速に進出しつつあることは、毎日のように伝えられている。こうした事実を背景に、人工知能の発達によって近い将来に多くの人間が雇用を奪われて格差が拡大するという、ディストピア小説の世界を想起させる予測が次々に発表されている。「アルファ碁」の早すぎる勝利によって、人工知能は希望よりも脅威を感じさせる存在になりつつあるように思われる。

昨年の4月に、中国の研究チームがヒト受精卵の遺伝子改変(ゲノム編集)をおこなったという論文を発表した。この研究に対しては、論文発表前から学術雑誌などに懸念が相次いで表明されていた。ヒト受精卵の遺伝子改変は、先天性疾患の根本治療に繋がる可能性がある。だが、現時点ではゲノム編集を技術的に十分制御できているわけではなく、編集されたゲノムが子孫に伝えられた際の影響も不明である。また、ヒトのゲノムを人為的に改変することは、人間の尊厳を侵すことに繋がるのではないかとの懸念も根強く、研究指針に関する議論は始まったばかりである。このような現状でヒト受精卵の遺伝子改変がおこなわれたことは、一部の科学者の暴走というに止まらず、科学が人間のあり方を捻じ曲げつつあるという印象を人々に与えたのではなかろうか。

こうした事例に現れた不安は、それぞれの事例固有の事情に起因しているように思われるかもしれない。また、最先端の科学では多くの事柄が未解明のため、不安を覚えるのは当然だと考えることもできるかもしれない。だが、次の事例はどうだろうか。一昨年末の米国でディズニーランドを主要な感染源とする麻疹(はしか)が流行した。この流行の背景には、米国各地で麻疹のワクチン接種を拒否する若者の増加があるとされる。つまり、麻疹ワクチン接種というすでに確立されているはずの対策を受け入れない人々が増加しているというのである。このような傾向が麻疹ワクチンに限定されるものでもなければ、米国に特異的なものでもないことを考えると、その根底には現代の医療に対する不信が広範に存在していると考えなければ理解できないように思われる。

このように、人々の科学に対する否定的反応は、最先端の研究だけでなく、常識として社会の中に組み込まれているはずの領域にまで及んでいる。科学に対するこのような否定的反応の背景には、個々の事情を超えて、科学の発展や成果を含む、科学という営みそのものへの疑念や反発が含まれているのではなかろうか。つまり、人々は人間の営みおよびそこから生み出されるものとしての「文化としての科学」あるいは「科学という文化」に対して否定的反応を示しているのではないかと思うのだ。

もし、科学に対する疑念や反発の背景に「科学という文化」への否定的反応が潜んでいるならば、事態は深刻である。「科学という文化」が受け入れられなければ、いかに科学的な説明を工夫し、研究制度を整備したとしても、人々の科学理解が深まるどころか、むしろさらなる反発を招くことになりかねないからである。次に見るように、歴史的な事例で「文化としての科学」の有様を検討すると、このような懸念がけっして理由のないことではないことが分かる。


野澤聡 Satoshi Nozawa
(獨協大学国際教養学部准教授)

1967年生まれ。
京都大学理学部および文学部卒業。東京工業大学大学院社会理工学研究科で博士(学術)取得。東京工業大学世界文明センター・フェローを経て、現職。専門は科学史、科学技術社会論(STS)。著書に『学校で習った「理科」をおもしろく読む本―最新のテクノロジーもシンプルな原理から』(共著、JIPMソリューション)、『驀進する世界のグリーン革命』(共著、ポット出版)など。

 

3・11後の科学と民主主義
― 「子ども・被災者支援法」をめぐる混乱から考える

平川秀幸

(大阪大学COデザインセンター教授)

3・11後の日本における科学と民主主義

「科学と社会」、とりわけ科学と民主主義について今何か語るとすれば、やはり東京電力福島第一原子力発電所事故とその社会的影響に触れずにはいられない。現代社会において科学(あるいは科学技術)は社会の行末に対しても個人の運命に対しても大きな影響力をもっている。そのような科学技術に対して私たちは未来を預けてしまうのか、それとも望ましい未来のために科学技術との適切な関わりを作り維持していくのか。いいかえればそれは、一方で高度な専門性に基づく問題の理解や処理・施策(=テクノクラシー)が必要な科学技術の問題を、誰もが参加・関与する権利を有する民主主義の政治(=デモクラシー)の内にどう位置づけ扱うかという公共的で政治的な問いである。原発事故の経験には、この問いを考えるうえで見過ごせない重要な問題が、様々なかたちで露呈している。

その中で本論は、とくに放射線被曝のリスク回避・低減を求める事故被災者らの後押しを受けて2012年6月に成立した「子ども・被災者支援法」に焦点を当て、その具体的実施過程で見られた科学と民主主義のコンフリクトを取り上げる。後述するように同法は理念法であり、具体的な実施内容は国が「基本方針」を別途定めることになっていた。当然ながら速やかに基本方針が策定され実施に移されることを被災者たちは求めていたが、それが実現したのは法成立から1年4カ月も後だった。しかも、同法では、基本方針や、他に同法が各条項で定める施策を策定するにあたって、事故の影響を受けた地域の住民や避難者等の意見を反映させるための措置を講ずることとしていたが、これも事実上、全く順守されなかった。施策内容も被災者たちから見て極めて不満足なものだった(福田・河﨑2014:清水2014)。

どうしてこのようなことになってしまったのか。そこにはもちろん、早期に事故被害を収束させ――というよりは被害対応を打ち切り――賠償総額を縮小したいという政府や東京電力の思惑があったことを疑うことができるし(日野2016)、元からの日本の政治の非民主性の現れと見ることもできるだろう。また政府は、支援法成立の2カ月前、2012年4月より、原発事故からの復興策として、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを下回る地域を避難指示解除準備区域とし、順次指示を解除、住民の帰還を促進してきた。他方、後述するように支援法では、避難指示の基準でもあった年間20ミリシーベルトより低い線量の地域からの避難(政府の指示に依らないいわゆる「自主避難」)に対しても国が支援することを求めており、復興策と方針が衝突する。このため支援策の骨抜きが行われたのではないかとも推察される(福田・河﨑2014)。2012年末の政権交代で、同法成立に尽力した議員連盟から与党の自民党・公明党議員が脱退し、国会内での同法の支持基盤が弱体化したことも災いしているのだろう。

しかし本論で試みたいのは、そうした原因究明ではなく、支援法をめぐる政治的混乱そのものの認識論的かつ政治的な意味とは何かを考えることであり、それを通じて現代の、とりわけ3・11以降の日本における科学と民主主義の問題や課題について考えることである。支援法をめぐる政治的混乱の中で争われ、そして政府の消極的・非民主的な対応によって損なわれたものは何なのか。これを考えることは、支援法をめぐる混乱とはどんな混乱だったのか、何が争われていたのかを理解することであるとともに、科学が関わる問題を民主政のなかでどのように扱うか、「専門知」と「統治」の関係をどう考えるかという、より遍在的・一般的な科学と民主主義の問題や課題を考えることでもある。それは、民主政のもとでの科学のあり方を考え直し再編することであると同時に、科学を前にした民主政のあり方の再考・再編を迫ることでもあるだろう。


平川秀幸 Hideyuki Hirakawa
(大阪大学COデザインセンター教授)

1964年生まれ。
国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程博士候補資格取得後退学。博士(学術)。専門は、科学技術社会論(科学技術ガバナンス論、市民参加論)。政策科学研究所客員研究員、京都女子大学現代社会学部助教授などを経て現職。著書に『科学は誰のものか』(日本放送出版協会)、『ポスト3・11の科学と政治』(共著、ナカニシヤ出版)など。

 

イギリスの国民投票の波紋

ポリーヌ・シュナペール

(パリ第三ソルボンヌ・ヌーブル大学教授)

2016年6月23日、イギリスの登録有権者の51.9%が欧州連合(EU)からの離脱に賛成する票を投じた。イギリスがEUの前身である欧州共同体(EC)に加盟してから、43年後のことだった。この種の国民投票の多くがそうであるように、イギリスの投票結果も多くの点において、EUそのものよりも国内の政治・経済問題と深く関係していた。EUが果たしている役割に対する認識よりも、二大政党と移民問題に対する態度が有権者の選択に影響を及ぼしたのである。国民投票前の運動は「イギリス中心」の傾向が特に強くなり、他の欧州諸国の観点やブレグジット(Brexit=イギリスのEU離脱)が現実となった場合のヨーロッパ全体に対する影響については、ほとんど考慮されなかった。世界に及ぼす政治的影響についてはなおのことだった。

それでも、この国民投票はイギリスの出来事であると同等にヨーロッパの出来事でもあった。その大きな理由は、EU内の経済的な相互依存である。イギリスの国民投票の結果は、ヨーロッパ大陸全体に何年にもわたって影響を及ぼし続けることになる。したがって、次の三つの点を理解することが有意義だ。まず、なぜ大半のEU加盟国が国民投票の実施前にブレグジットの可能性について懸念したのか。次に、イギリスとヨーロッパの関係は今後、どのような形を取ることになるのか。そして、さらに広く、ブレグジットが欧州統合に及ぼしうる影響について探ることである。

ヨーロッパの当惑

イギリスのデービッド・キャメロン首相(当時)が2013年1月に国民投票の実施を約束したとき、そしてさらに15年の総選挙勝利で国民投票の実施が確実になったとき、ヨーロッパの大半の国の政府が当惑し、懸念を募らせた。それには一連の理由があった。ヨーロッパ諸国の政府の観点からすると、そのような国民投票を行うことは奇妙な考えに思えた。

その第一の理由として、イギリスはすでにEU内で、多くの恩恵を得ながらも他の加盟国より制約の少ない独自の地位を享受していた。その始まりは1984年、EC予算に対するイギリスの拠出金に関して、その一部の払い戻しを求めたマーガレット・サッチャー首相の主張が認められたことだった。92年にはジョン・メージャー首相が、導入が決まっていた単一通貨からの「オプトアウト」(選択的離脱)を交渉で決着させた。後にユーロとなる単一通貨に参加するか否かを選べる権利を認められたのは、その時点ではデンマークとイギリスだけだった。これと同じ時期にイギリスは、マーストリヒト条約(欧州連合条約)に加えられた「社会憲章」に署名する義務も免除された。出産休暇や有給休暇など、社会的権利に関する一連のルールを定めた「社会憲章」に対するこのオプトアウトは後の97年、労働党から首相に就任したトニー・ブレアによって覆された。

イギリスはアイルランドとともに、1985年に署名され、97年にアムステルダム条約に盛り込まれたシェンゲン協定にも参加していない。域内での国境審査を撤廃したシェンゲン協定には現在、26カ国が加わっている。イギリスは国境管理を続けることになったが、EUの条約の一部となっている「人の自由な移動」は受け入れている。EUの枠外ではあるが関連する点として、フランスとイギリスは2003年に二国間でル・トゥケ協定を結び、フランス側がカレーでイギリスとの国境の管理にあたり、英仏海峡を渡ろうとする不法移民を食い止める取り決めをした。警察・司法分野での協力に関しては、イギリスは「オプトイン」(選択的参加)の権利をもっている。つまり、政策や協力の内容によって参加か不参加かを選択できる。このように、イギリスはすでにEU内で他の加盟国と比べて、かなり大きな柔軟性を享受していた。他のEU諸国にしてみれば、イギリスが現状に満足できない理由が見当たらなかった。


ポリーヌ・シュナペール Pauline Schnapper
(パリ第三ソルボンヌ・ヌーブル大学教授)

1997年パリ政治学院で博士号取得(国際関係学)。専門はイギリスとEUの政治学。主な著書に“British Political Parties and National Identity: A Changing Discourse”(CambridgeScholars Publishing, 2011)、“La Grande-Bretagne et l’Europe: le grand malentendu”(Presses de Sciences Po, 2000)や“Britain and the Crisis in the European Union”(共著、Palgrave Macmillan, 2015)などがある。

 

EU離脱を決めたイギリス
― 帝国へのノスタルジアかリトル・イングランドか

池本大輔

(明治学院大学法学部政治学科准教授)

既にわが国でも様々な形で報道されているように、イギリスでは去る6月23日にEU残留の是非をめぐる国民投票が行われた。結果は残留支持が48.1%、離脱支持が51.9%となり、イギリス国民はEUからの離脱を選択した。2014年には、イギリス北部のスコットランドがイギリスから独立するか否かを巡って住民投票が行われ、独立が僅差で否決されたことは、いまだ記憶に新しい。スコットランドでは今回の国民投票でEU残留派が多数を占めたことで、再度独立をかけて住民投票を行おうという動きも出てきている。もしスコットランドが独立することになれば、今回の国民投票は単にイギリスとヨーロッパとの関係を大きく変えただけでなく、1707年のイングランドとスコットランドの合同以来続いてきた連合王国の歴史にも終止符を打つことになる。イギリスといえば階級対立にもとづく二大政党制の国だというイメージを抱いている者は、なぜEU加盟やスコットランド独立の是非のような「領域をめぐる政治」が大きな争点となっているのか、疑問に思う向きもあるだろう。あるいは、イギリスといえば議会制民主主義の母国であるというイメージを持つ者は、国民投票や住民投票といった直接民主主義的な手法でこうした問題の決着が図られていることに驚いたかもしれない。

国民投票が行われることになった直接の経緯や結果については、筆者も含め様々な論者が既に分析しているところである。そこで本稿では屋上にさらに屋根を架すことを避け、長期的な視野に立ってこの問題を捉えることにしたい。まずはイギリスとEUとのこれまでの関係を左右した要因を、歴史的に俯瞰する。その上で今回の国民投票で浮かびあがった問題や今後の展開について、歴史的考察が示唆するところを述べよう。

イギリス外交と「三つのサークル」

良く知られているように、イギリスはこれまでもヨーロッパ統合に熱心だったわけではない。1952年に欧州石炭鉄鋼共同体、1958年に欧州経済共同体・欧州原子力共同体が設立された際には参加を見送り、ようやく1973年になってEC(欧州共同体:三つの共同体の総称)に加盟した。イギリスは加盟後も「扱いにくいパートナー」であり続け、人・モノ・サービス・マネーが国境をこえて自由に移動できる単一市場の実現には熱心であったが、単一通貨のユーロには不参加の姿勢を貫いてきた。また人の自由移動はEU市民以外には適用されないという立場を取り、域内国境管理を廃止したシェンゲン協定に加盟してこなかった。

このようなヨーロッパ統合への消極的な姿勢の背後には、いくつかの歴史的要因が存在する。チャーチルが、イギリスを「大英帝国」「アメリカ・カナダその他を含む英語圏」「ヨーロッパ」の三つのサークルの結節点として位置づけたのは良く知られている。そして、1960年代までのイギリスの歴代政権は、大英帝国やアメリカとの「特別な関係」の方を、大陸ヨーロッパ諸国との関係よりも重視してきた。

大英帝国は、その戦略的経済的な価値と並んで、イギリスのアイデンティティの重要な構成要素でもあった。「開かれた海」といわれる帝国の存在は、島国イギリスにとって、大陸諸国とは対照的な存在として自己を位置づけることを可能にしたからである。帝国は二度の世界大戦でイギリスを支え、経済的にも特恵関税制度やポンド圏の存在をつうじてイギリスに貢献していると考えられた。そこで第二次大戦により国力が低下した後も、イギリスの政策決定者たちは帝国の解体には消極的だった。

もともとは大英帝国の一部であったアメリカは、第一次世界大戦中に国際政治の表舞台に登場し、イギリスにとってライバルになった。しかし第二次世界大戦の経験は、アメリカの助けなしに戦争に勝つことはできないことをイギリスに認識させた。同時に、アメリカをイギリス側に立って参戦させることが難しいことも明白であった。そこで戦後のイギリスは、アメリカのジュニア・パートナーとしてリベラルな国際秩序を支える役割を果たしつつ、ヨーロッパの安全保障に対するアメリカの関与を維持することに腐心するようになった。

それに対して、ヨーロッパの大陸諸国は、イギリスの独立や安全を脅かしかねない存在と見なされてきた。とりわけ、イギリスにとって最大の脅威は、大陸諸国が一つの国家(例:ナポレオン支配下のフランス)のリーダーシップの下に団結して、イギリスに立ち向かってくることであった。同国の外交の基本方針がバランス・オブ・パワー――大陸に覇権国家が誕生しないよう、協力相手を組み替えつつ大陸諸国を互いに争わせる政策――であったのは、そのためである。1871年にドイツが統一し、その後の経済的軍事的躍進によって安全保障上の脅威になったことは、それまで植民地獲得競争のライバルであった英仏両国の和解を促し、20世紀前半にイギリスをより深く大陸の国際関係に関与させることになった。しかし第二次大戦の勃発後、1940年に西部戦線で戦闘が始まると、フランスは僅か6週間でドイツに屈服し、イギリスは独ソ戦が勃発するまで、単独でナチスドイツと戦わざるを得ない状況に追い込まれた。この経験は、フランスは同盟相手として頼りないというイメージをイギリス人の心に深く刻み込み、戦後の両国関係にも影響を与えることになった。


池本大輔 Daisuke Ikemoto
(明治学院大学法学部政治学科准教授)

1974年生まれ。
東京大学法学部卒業後、オックスフォード大学政治国際関係学部から博士号(Ph.D)を取得。明治学院大学法学部専任講師を経て現職。専門はヨーロッパ統合・ヨーロッパ国際関係史・イギリス政治。著書に『イギリス現代政治史』(共著、ミネルヴァ書房)、『21世紀デモクラシーの課題』(共著、吉田書店)など。

 

噓の明治史
― 循環の観念について

五百旗頭薫

(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

悪循環について

昨年、70周年を迎えた戦後日本は、概ね平和で豊かだった。しかしそれが犠牲とリスクの上にあったことの証が、国土の上に実在する。

その一つが福島の第一原子力発電所である。核分裂の連鎖反応のエネルギーは、その停止後の崩壊熱を冷却しそこねただけで水素爆発とメルトダウンをもたらし、日本社会を戦慄させたのであった。発電所は、今でも放射性物質の流出を防ぎきれない状態で、同じ場所に建っており、5年前のことを思い出させるのである。

あらためてこのことを考えたのは、評判の映画『シン・ゴジラ』を見た時である。詳しい説明は控えるが、そのラストシーンは、リスクと共存せざるを得ない日本を視覚化したものであった。

明治150年(王政復古は慶応3年(1867年)年末=1868年年初)が近づいており、戦前を意識する機会が増えるだろう。近づくにつれ、今度は人間の相互作用の連鎖が、いかに短期間に多くを成し遂げ、また喪わせるかを思い出させるのではないか。

明治4年(1871年)には廃藩置県を断行した。維新の功労者西郷隆盛による西南戦争が明治10年に起こり、その自決によって終結した。明治14年には国会開設が約束され、翌年にかけて複数の政党が結成された。同22年に明治憲法発布、翌23年には国会が開設された。明治27年に清朝中国、37年にロシアと、近隣の大国と戦い、勝利した。

日露戦後に桂園体制と呼ばれる安定期が到来したが、明治45年=大正元年に大正政変が起きて崩壊した。明治57年にあたる1924年からは政党内閣の慣行が続いた。しかし明治64年にあたる1931年に満州事変が勃発し、翌年の五・一五事件を最後に政党内閣期は終わった。明治70年に日中戦争が始まり、74年に日米開戦、78年に敗戦を迎えたのである。

近代日本のトラウマ

相互作用の連鎖が危機をもたらすことに対して、明治人は我々以上に敏感であった。まさしくこの種の危機が、近代日本のトラウマを生み出したからであろう。

周知の通り、幕府が勅許なしに修好通商条約を締結したのに反発し、尊皇攘夷運動が台頭した。これを大老井伊直弼が弾圧すると、桜田門外の変で暗殺された。攘夷を推進する長州の砲台が外国船を砲撃すると列国は反撃し、日本は限定的ながら欧米との戦争を経験した。鹿児島でも薩英戦争が起こった。幕府による長州征伐が国内対立を拡大させ、幕府崩壊と戊辰戦争の伏線となった。

それは相互作用の危険な連鎖であった。単に連鎖するだけでなく、対立がより大きな対立をもたらし、危機がより大きな危機へと増幅する、悪循環であった。そして人間界の悪循環には、制御棒があるとは限らない。

対立が増幅すると、人は手段を選ばなくなる。前号で噓について論じたが、「必死の噓」――露見したら困る噓――も、「横着な噓」――騙されない者がいても公然と語られ押し通る噓――も辞するところではない。必死の噓は露見したならばその時に、横着な噓は語られたならば直ちに、相手を刺激し、悪循環を力強く回転させるであろう。

前号では福地櫻痴の挑戦を論じたのだが、福地が制御しようとしたのも、こうした悪循環の発生であった。彼の作り上げた装置は、社説であれ、歌舞伎であれ、異なる立場の者が緊張を孕んだまま共存し、あたかも中性子を吸収する制御棒として屹立する空間を志向するものであった。

とはいえ彼の空間は、噓を一概に排除するものではない。

緊張を孕んだ空間で発せられる言葉は、真実の暴露ではなく、抑制された表現から真意を汲み取る努力を誘うものであり、要するに真実そのものではなかった。横着な噓のうち、せいぜい横着さを除染するに過ぎなかった。

社説は、状況の変遷に応じて主張を変遷させることに長けていた。変遷に伴う誇張やすりかえにも福地は手を染め、それを隠すのに長けていなかったに過ぎない。

だから、福地には噓がある、という批判に足をすくわれ、没落したのである。その政治生命は、立憲制の導入までを見届けることはできなかった。

福地にとっては不本意なことかもしれないが、より単純な言説が、結果としては用を足すことになる。1880年代を中心に、自由民権運動を鼓舞した、政治小説である。当初の予定とは異なるが、噓をめぐる明治史の旅をここから再開したいと思う。


五百旗頭薫 Kaoru Iokibe
(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

1974年生まれ。
東京大学法学部卒。博士(法学・東京大学)。東京都立大学法学部助教授、首都大学東京准教授、東京大学社会科学研究所准教授などを経て現職。専門は日本政治外交史。著書に『大隈重信と政党政治』(東京大学出版会)、『条約改正史』(有斐閣)など。

 

「報道の自由度ランキング」への違和感

佐藤卓己

(京都大学大学院教育学研究科教授)

2016年8月21日、「伝説のジャーナリスト」むのたけじ(本名・武野武治)が101歳で亡くなった。1940年に朝日新聞社に入社したむのは、従軍記者として活躍し、1945年8月15日に戦時報道の責任をとって辞表を提出した。敗戦のけじめを自らつけた唯一の朝日新聞記者であり、戦後は週刊新聞『たいまつ』で反戦の言論を続けていた。その死亡を伝える8月22日付『朝日新聞』の社説「むのさん逝く たいまつの火は消えず」はこう書いている。

むのさんはかつて、戦時中の朝日新聞社の空気をこう振り返っている。検閲官が社に来た記憶はない。軍部におもねる記者は1割に満たなかった。残る9割は自己規制で筆を曲げた。

確かに、むのは戦時下の言論の不自由について、「検閲よりはるかに有害であった自己規制」を指摘し、そこには新聞社内の「空気」が大きく作用したことを証言している。本稿ではこの「自己規制」を生む「空気」を生み出す背景を、ランキング思考と世論調査政治から検討する。

さて、むのは生前最後のインタビュー連載「再思三考」(朝日新聞デジタル・2016年3月9日)でこう語っていた。

「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。

この発言の翌月、4月20日に2016年度ランキングが発表され、日本はさらに72位まで続落している。それにしても、むのが願った「報道機関の踏ん張りどころ」が「自主規制で筆をまげるな」というメッセージであることは、先に引用した朝日社説からも明らかだろう。しかし、むの発言を単なる安倍晋三政権批判だと誤読する読者もいたのではあるまいか。

むのが言及した「報道の自由度ランキング」は、正確には「世界報道自由ランキング」Worldwide press freedom indexという。パリに本部を置くNGO「国境なき記者団」Reporters Without Bordersが2002年以降、2011年をのぞいて毎年発行している。すでに述べたように、2016年度版で日本の「報道の自由度」は180国中、72位に下落した。図1に示されているように、2010年の11位「良い状況」から年々順位を下げて「問題がある状況」となっている。新聞やテレビで大きく報道されただけでなく、論壇でも注目され『現代思想』2016年7月号は特集「報道のリアル」を組んでいる。私は後述する理由からこの順位に驚かないが、せいぜい20位台あたりが妥当なところだろうとは感じていた。この発表の直前に読んだ『中央公論』同5月号の特集「ニッポンの実力」で「国際競争力27位、労働生産性21位、民主主義指標23位」が強調されていたこともある。

私と同様、この「報道の自由度ランキング」に違和感をもったジャーナリストは少なくなかったようである。テレビではテレビ朝日の報道ステーションで後藤謙次(元共同通信社記者)が「実感がない」とコメントし、Yahoo!ニュースでは江川紹子(元神奈川新聞記者)が「ピンとこない」と書いた。江川はメディア総合研究所編『放送中止事件50年』(花伝社)を引いて、現在よりもはるかに露骨な権力の報道介入が戦後もくり返されてきたことを指摘している。

また、2016年5月4日付『朝日新聞』の「天声人語」も、このランキングで中国政府が言論弾圧を行っている香港(69位)よりも日本の方が低いことに「驚いた」といい、「西欧中心の見方ではないかと思う」と疑念を呈している。だが、このコラムは次のように結ばれている。

それにしても、昨今の自民党議員らによる居丈高な物言いは、やはり常軌を逸している。担当相が放送局に電波停止をちらつかせ、議員が報道機関を懲らしめる策を勉強会で披露する。あの種のふるまいがなければ、日本がここまで評判を落とすことはなかっただろう。

「あの種のふるまい」、すなわち「自民党議員らによる居丈高な物言い」がランキング下落の原因だという推定は、おそらく正しい。というのも、「報道の自由度ランキング」は当該国の専門家へのアンケートによる質的調査と「ジャーナリストに対する暴力の威嚇・行使」のデータを組み合わせて作成される。「専門家」とは報道関係者、弁護士、研究者などであり、彼らが前年比で報道の自由を実感できたか否かが大きなポイントとなる。なるほど、安倍政権のメディア対応は専門家の心証を害するものであろう。


佐藤卓己 Takumi Sato
(京都大学大学院教育学研究科教授)

1960年生まれ。
京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻博士課程満期退学。京都大学博士(文学)。東京大学新聞研究所助手、同志社大学助教授、国際日本文化研究センター助教授を経て現職。著書に『「キング」の時代』(岩波書店、サントリー学芸賞)、『言論統制』(中央公論新社、吉田茂賞)など。

 

いつも見ていた「ジャニーズ」
― 戦後日本のメディアと家族

周東美材

(東京大学大学院情報学環特任助教)

はじめに

「ジャニーズ」ということばから、何を思い浮かべるだろうか。

「SMAP」や「嵐」といったグループが思い当たる人もいれば、特定のテレビ番組や映画のタイトルを思い出す人もいるだろう。ほとんど興味がなければ「美少年」「スキャンダル」などの語が連想される程度かもしれないし、逆にそれなりの事情通ならば「オリキ」「同担」「シンメ厨」などの用語は常識に属するものだろう。

このように「ジャニーズ」ということばはさまざまなイメージを想起させる。だが、ひとつ確かなことは、「知らない」と答える人はほとんどいないということだ。日本社会で生活し、多少なりともテレビを視聴すれば、好むと好まざるとにかかわらず「ジャニーズ」に接してしまう。ジャニーズ事務所所属の芸能人たちは、ほぼすべての放送時間にわたってテレビに出演し、音楽、ドラマ、バラエティー、報道、スポーツ中継、教養、料理などあらゆるタイプの番組を担当している。日本社会のなかで「ジャニーズ」は、いまさら説明を要するまでもないくらいに当たり前のものとして消費され、日常の景色を構成しているのだ。

「ジャニーズ」が誕生したのは、1962年4月のことである。この年、あおい輝彦、中谷良、飯野おさみ、真家ひろみの4名から成る〈ジャニーズ〉というグループが結成され、ジャニーズ事務所が創設された。以来、ジャニーズ事務所からはフォーリーブス、郷ひろみ、豊川誕、川崎麻世、たのきんトリオ(田原俊彦・野村義男・近藤真彦)、シブがき隊、少年隊、光GENJI、男闘呼組、忍者、SMAP、TOKIO、V6、KinKi Kids、嵐、タッキー&翼、NEWS、関ジャニ∞、KAT-TUN、Hey!Say!JUMPなどがデビューしていった。1960年代以降、「ジャニーズ」をめぐるイメージは、絶え間なく再生産され、日本社会に根を下ろしてきたといえよう。

しかし、日本社会の外で「ジャニーズ」は、当然のことながら日常的な存在ではない。マサチューセッツ工科大学で日本史を教える永原宣氏が筆者に語ったところでは、「ジャニーズ」のイメージをアメリカ人の学生に伝えるのはとても難しいという。アメリカ社会には「ジャニーズ」に類するプロのエンターテイナーのカテゴリーが存在しないからだ。つまり、「ジャニーズ」は知られていないばかりでなく、「ジャニーズ」を理解するためのコード自体がアメリカにはないのである。だが、その一方で、台湾や韓国など東アジア地域では「ジャニーズ」はある程度認知されており、それどころか一部には確固たるファンダムが形成されてもいる。たとえば台湾では、年に数回来台する「ジャニーズ」を空港まで出迎え、コンサートを「祭り」として楽しみ、「ジャニーズ・カフェ」で特別な時間を過ごすファンたちがいるという(陳2014)。「ジャニーズ」の非日常性は、アメリカと東アジアの諸地域とでは対照的だ。

「ジャニーズ」が日本社会において日常化していったという事実には、戦後日本が東アジアのなかで経験した独自の歴史が色濃く刻印されていると考えられる。本稿では、最初に結成されたグループ〈ジャニーズ〉を手掛かりとして、1960年代の文化冷戦におけるメディアの再編とナショナルな自己意識の形成の関係について明らかにしていく。

なお、最初のグループであるジャニーズは、「初代ジャニーズ」と呼ばれることもあるが、結成当時は使用されていない名称であり、適切ではない。よって、本稿では、この最初の4人組グループを指すときには〈ジャニーズ〉と表記し、ジャニーズ事務所所属の芸能人一般を指すときには「ジャニーズ」と表記する。


周東美材 Yoshiki Shuto
(東京大学大学院情報学環特任助教)

1980年生まれ。
東京大学大学院学際情報学府博士課程修了、博士(社会情報学)。首都大学東京、東京音楽大学等の講師。専攻は文化社会学。著書に『童謡の近代─メディアの変容と子ども文化』(岩波書店、日本童謡賞・特別賞、日本児童文学会奨励賞)、『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(共著、東京電機大学出版局、日本感性工学会出版賞)、『文化社会学の条件─二〇世紀日本における知識人と大衆』(共著、日本図書センター)など。

 

日本農業の稚拙化とその背景

神門善久

(明治学院大学経済学部教授)

農業の主人公は動植物

散財を自嘲しながら、私は毎週のように各地に出向いて農業を観察する。農業とは、人間に有用な動植物を育てることだ。農業の主人公はあくまでも動植物であって、人間ではない。農業を語ろうというのであれば、まずは動植物の生育状況を観察し、彼らからメッセージを感受しなくてはならない。

人間はしばしば噓をつく。農業は生産過程が見張られているわけでもなく、また品質の規格化が困難で、財務会計もはっきりしないため噓をつきやすい職業だ。しかも、農業にはよいイメージをもたれがちで、聞き手にとって心地の良い噓ならば、歓迎されるという特徴もある。

残念だが、私が各地に出向くたびに、農業者の技能の低下に気づき、落胆する。「輸出促進」とか「地産地消」とか「有機栽培」とか「ハイテク農業」とか「ブランド化」とか、さまざまなスローガンを使って、関係者からいろいろと立派な「講釈」を聞かされるが、肝心の作物や家畜の生育状況が悪い。これでは本来の農産物の味わいが失われる。食して健康にも資さない。

なぜこのような状況になったのか? 以下、本稿でそのなぞ解きをする。昨今、貿易自由化などで日本農業があれこれと論じられる。だが、動植物を育てるという農業の基本中の基本を忘れた議論ばかりではないか? まさに「船頭多くて、船、山に上る」の状況ではないか? 本稿は、農業の議論のあり方を根本から見直す機会を提供することを目途とする。

上海の事例から学ぶ

どの社会でも、「自分誉め」の集団的錯覚に陥ることは多々ある。とくに日本社会では、過去の戦争の歴史からわかるように、そういう傾向が強い。「日本の農産物は安全・安心・高品質で、海外で大人気」とか「日本農業の技術力は高い」などという、耳あたりのよい価値判断を、つい無条件に受け入れてしまいがちだ。

まず、あえて日本ではなく、上海の農業の話から始めよう。以下を読むと、「上海の農業者も消費者も、ひどく歪んでいる」という印象を持つだろう。では、日本では同じようなことが起きていないのかを考えてほしい。

上海近郊にイチゴの大産地がある。商売熱心な農家が道路端に仮店舗を並べて、イチゴを山盛りにして売っている。買い求めると、きれいな化粧箱に入れて渡される。その化粧箱には、有機栽培と表示してあることもある。しかし、この表示を信じる人は少ない。農薬はもちろん、成長ホルモンという健康への有害性が疑われている薬品も使われている可能性さえある。

中国は、日本と並んで農薬大国と言われている。野菜を洗ってから食べないと農薬中毒を起こすなどという冗談とも本気ともつかない話を耳にする。上海に勃興するニューリッチたちは、食に対する関心の高さを自認し、よい農作物に対しては、少々、高いお金を払っても構わないという気持ちでいる。

そういうニューリッチに人気の会員制農園を見学した。職員の態度もきちんとしていて、トイレもきれいで、いつ外来客が来てもよいようにしている。聞けば、農園の現場責任者は、以前、裁縫会社で多くの工員の労務管理をしていたそうだ。

ところが、圃場に出て、驚いた。野菜があまりに生育不良だ。これでは、野菜の味も栄養価も落ちる。圃場を観察するに、たしかに農薬を使った形跡はみえない。有機肥料と称して、雑草を枯らしたものを使っている。しかし栽培方法がでたらめだ。このままでは、数年のうちに、地力を消耗して、何も作物を育てられなくなるかもしれない。

聞けば、地力消耗はすでに起きているとのことだ。その都度、別のところから土を運びこむのだそうだ。しかし、そんなことをすれば、土を採掘された場所の環境破壊になる。

これほど無茶な農業にもかかわらず、この農園の野菜がニューリッチたちに大人気だ。「無農薬」の野菜を食べている賢い消費者なのだと自悦しているのだ。この農場では、週末に会員の家族たちを招いて、バーベキュー・パーティーを催す。参加の子供たちに、農場の人たちは、無農薬だからそのまま捥いで食べても大丈夫だと告げる。たしかに、食べて毒というわけではないし、出来の悪い作物でも、新鮮であれば、そこそこの味はする。

この農園のもうひとつのセールスポイントは、ミツバの対日輸出だ。ミツバ自体の出来がいいわけでもないし、輸出経費を考えれば、決して利益が出るとは思えない。輸出の目的は、この農園の作物が日本の消費者にも喜ばれているという「物語」を作って、会員たちにアピールするという宣伝効果にあるようだ。

ニューリッチたちの大多数は農業の経験がない。職位や学齢を鼻にかけていても、作物の生育不良や環境破壊を感知する能力は低い。ちなみに、この農園のオーナーは、この農園をはじめるまで農業との縁はなく、会員制の娯楽事業をしてきた。農作物のことはわからなくても、ニューリッチたちを楽しますのはお手のものだ。

片や「農薬漬け」のイチゴ、もう一方では、無農薬ではあるが低品質・環境破壊的・高価格の「宣伝漬け」のイチゴ。どちらも有害な農業だ。まともな農業者ならば低コストで環境融和的で安全な農産物を作ることができる。しかし、小手先の売り方に長けたずる賢い農業者たちと、根拠のない自悦に浸る消費者によって、まともな農業者は駆逐されていく。

さて、これは、上海のことであって、日本とは無縁の話だろうか?


神門善久 Yoshihisa Godo
(明治学院大学経済学部教授)

1962年生まれ。
京都大学大学院農学研究科農林経済学博士後期課程中退。博士(農学・京都大学)。滋賀県立短期大学助手、明治学院大学助教授などを経て、現職。専門は開発経済学、農業経済学。著書に『日本の食と農』(NTT出版、サントリー学芸賞)、『さよならニッポン農業』(日本放送出版協会)、『日本農業への正しい絶望法』(新潮社)など。



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