冒頭を読む

 

現代イスラム政治研究者ジル・ケペルに聞く
欧州ホームグロウンテロの背景

国末憲人

(朝日新聞論説委員)

欧州でテロが止まらない。

表現の自由を巡る論議を呼んだ風刺週刊紙『シャルリー・エブド』編集部襲撃事件、130人の犠牲者を出したパリ同時多発テロ、ブリュッセルでの連続爆破テロといった大事件に限らない。銃や刃物による殺傷、警察やユダヤ教施設への襲撃など、イスラム過激派による攻撃が各国で相次いでいる。未遂に至っては、2015年の1年間にフランスだけで11件に達した。

まるでテロが林立し、森となって市民社会を覆いかけているかのようだ。森はどこまで続いているか。出口に到達するまでにどれほどの犠牲が必要なのか。

個々の樹木しか目に入らない私たちに、森の地図を示してくれる人物として、ジル・ケペルに思い当たった。パリ政治学院で教授を務めるフランス人の現代イスラム政治研究者である。彼を研究室に訪ね、その言葉に耳を傾けつつ、テロを前に文明社会が歩むべき道を考えた。

ジハードの三つの波

フランスで政治家やエリート官僚、企業経営者への登竜門となっているパリ政治学院の施設は、実存主義の拠点となったセーヌ左岸サンジェルマンデプレ界隈に点在する。ジル・ケペルの研究室も、その一角の閑静なアパルトマンに入居していた。

ケペルは1955年パリに生まれ、ダマスカス留学、カイロ経法社会資料研究センター(CEDEJ)研究員、米コロンビア大学客員教授などを経て、2001年からここの教授を務める。『ジハード』『テロと殉教』『中東戦記』など多数の邦訳著書があり、『ニューヨーク・タイムズ』紙など英語メディアへの寄稿も多い。

その手法は、徹底的な現場主義である。中東各国を頻繁に訪れ、欧州の移民街に足を運び、市民の声を記録する。2010年からの「アラブの春」以降は、その実像を追い求めて各国を回った。

「チュニジアに8回、エジプトに6回、リビアとイエメンには4回行きました。でも今はもう、大部分の場所に行けなくなってしまった。今行ったら、真っ先に処刑されますよ」

イスラム過激派の主張を丹念に追い、その中に含まれる誇張や欺瞞を容赦なく指摘してきた彼を、過激派側も見逃しはしないだろう。

彼のイスラム過激派研究は1980年代初め、エジプトのサダト大統領を暗殺したジハード団への調査から始まった。「当時は『時間の無駄だ、そんな連中に将来なんかない』などと言われたものです」と、ケペルは苦笑する。中東を中心とするイスラム組織研究の傍ら、地元フランスの移民社会の実態調査にも取り組み、87年に『イスラムの郊外』(未邦訳)を出版した。いったんは世俗化してパリ近郊に暮らす移民たちの間に再びイスラム教が浸透している実態を明らかにして、国内に衝撃を与えた。

以後も彼は、中東とフランス国内とを並行して見つめ、両者のつながりを確認しつつ、研究を続けてきた。その過程で、世界20カ国の言語に訳されて注目を集めたのが、2000年に出版された『ジハード』(邦訳・産業図書)である。フランスではその前の90年代半ば、アルジェリアの過激派組織「武装イスラム集団」(GIA)によるテロが相次いでいた。それまでの30年にわたるイスラム主義の軌跡を振り返った同書で、ケペルはこれらのテロを、過激派の「勃興の象徴」ではなく、逆に「衰退の現れ」と読み解いた。

「その時、確かにイスラム過激派の一つの波は去りました。でも、私はまだ、事態を理解していなかった。別の波が待っていたとわかったのは、後になってのことでした」


国末憲人 Norito Kunisue
(朝日新聞論説委員)

1963年岡山県生まれ。
85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局員、パリ支局長、GLOBE副編集長を経て論説委員(国際社説担当)、青山学院大学仏文科非常勤講師。著書に『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)など。

 

溶解する中東の国家、拡散する脅威

池田明史

(東洋英和女学院大学学長・国際社会学部教授)

「歴史的転換」の蹉跌

2011年のいわゆる「アラブの春」の勃発以降、中東・北アフリカ地域では政治的な地殻変動とも呼び得る深刻な混乱が続いている。世襲王政であれ共和制であれ、この地域では一人の支配者が数十年にわたって権力を独占するのは常態であった。場合によっては共和主義を掲げているにもかかわらず、親子でそのような独裁支配を継受する、あるいはしつつあるという国家が稀ではなかったのである。そこに突如、澎湃として湧き出た(ように見えた)街頭大衆が大規模な異議申し立て行動を展開し、独裁者を放逐したり引き摺り下ろしたり、あるいは政権と民衆との間に武力衝突が起きたとき、欧米を中心とした国際社会は、中東アラブ世界にもついに民主化の波が到来したと看做してこれを歓迎した。

しかしそれから5年の歳月を経て、体制転換を果たすかに見えた諸国では、リビア、シリア、イエメンが泥沼化した内戦の淵に沈んで数十万の死者と千数百万の難民・国内避難民を出すに至った。バーレーンでは民衆が首長家の友邦である隣接諸国の軍隊に蹴散らされ、いったんは共和国史上最初の民選大統領の誕生を見たエジプトでは、事実上のクーデターによって再び軍人大統領の強権独裁へと「逆コース」を辿った。この両国では、「アラブの春」が生起する以前よりも遥かに厳しい警察国家が、人々に重く圧し掛かる結果となっている。

「アラブの春」の唯一の「成功事例」として喧伝され、労組などによる「国民対話カルテット」がその成功への貢献を認められて2015年度のノーベル平和賞に輝いたチュニジアにしても、その実情は極めて危うい。この国の辺鄙な地方都市で、一人の失業青年が焼身自殺を遂げたことが、「アラブの春」の引き金を引いた経緯は、われわれの記憶になお新しい。

しかし新体制となったいま、チュニジアの失業率は革命前より悪化して15%を超え、とりわけ若年層では3人に1人が職にありつけていない計算になっている。こうした状況に憤懣を募らせた若い男女が、テロ集団「イスラーム国(以下IS)」の巧妙な勧誘に乗って「義勇兵」となり、シリアに渡って内戦に加担している。そして一部はやがてチュニジアに帰国し、隣接するリビアから越境してくる武力勢力などと並んで、国内で大掛かりなテロ事件を引き起こすという構図となる。治安の悪化はこの国のGDPの15%および雇用の14%を占める観光産業を直撃し、失業者がさらに巷に溢れるという悪循環を創り出すのである。

チュニジアの新体制を辛うじて支えているのは、「アラブの春」の看板を潰したくないフランスなど欧州の財政支援だが、その本音はシリアに加えて新たな難民が欧州に流入してくるのを何としても阻止したいというところにあると見るべきだろう。

唯一の「成功事例」チュニジアにしてこの為体であれば、他は推して知るべしである。中東アラブ世界の「民主化」に向けて期待が寄せられた「アラブの春」は破綻した。もとより、このような宣告は、50年、100年の時間枠の中で振り返ったときに、この2011年が変革の転機であった、次の時代へ向けての回帰不能点であったという評価につながる可能性を排除するものではない。「歴史は転換点に到達したが、しかし転換することに失敗した」のである。


池田明史 Akifumi Ikeda
(東洋英和女学院大学学長・国際社会学部教授)

1955年生まれ。
東北大学法学部卒業。アジア経済研究所研究員、オクスフォード大学セントアントニーズ校客員研究員、ヘブライ大学トルーマン研究所客員教授などを経て、現在、東洋英和女学院大学国際社会学部教授。14年より同大学学長。専門は中東現代政治、紛争研究。著書に 『大量破壊兵器不拡散の国際政治学』(共著、有信堂)、『イスラエル国家の諸問題』『中東和平と西岸・ガザ』(いずれも編著、アジア経済研究所)ほか多数。

 

ロシアにとっての中東
― 新たなパワーゲームへの関与

小泉悠

(未来工学研究所客員研究員)

はじめに

この文章では、激動の只中にある中東情勢をロシア側の視点に立って眺めてみたい。

近年の中東情勢がロシアを抜きにして語れないことは周知のとおりである。ことにシリア内戦に関しては、膨大な軍事援助によってアサド政権を支えるとともに、2013年には米英のシリア空爆を空振りに終わらせ、2015年秋には直接軍事介入まで開始した。2016年1月から始まったシリア和平協議でもロシアは大きな存在感を発揮している。

だが、北方の大国であるロシアが何故、中東情勢に介入しなければならないのだろうか。ロシアは世界有数のエネルギー産出国であり、中東のエネルギー資源には依存していない。しかも大陸国家であるから物流の大部分は陸上を経由しており、シーレーンへの依存度も極めて低い。資源とシーレーンのために中東への大規模な関与を必要としてきた米国とは事情が大きく異なるのである。

また、ロシアは常に中東情勢に介入してきたわけでもない。冷戦期のソ連は中東諸国や、その一部の親ソ分子に対して大規模な軍事援助を行い、あるいはキューバ人義勇兵をソマリアに送り込み、地中海には艦艇グループを常駐させるなど、大規模な軍事的関与を行ってきた。だが、ソ連崩壊後、ロシアが経済的苦境に陥ったことや、冷戦終結によって中東が米ソ対決の場でなくなったことなどにより、こうした関与は大幅に後退した。後述するように、ロシアの軍事プレゼンスが中東からすっかり消滅したわけではなかったが、その影が非常に薄くなっていたことはたしかである。そのロシアが2010年代に入って再び中東に復帰してきたのは何故なのだろうか。

そして最後に、ロシアの中東への復帰は、ロシアにとって、あるいは中東地域全体にとって何をもたらすのだろうか。そこで起こることは、ロシアの目論見を満足させるものなのか、あるいはロシアにとって不首尾な結果に終わりそうなのか。また、ロシアのプレゼンスは今後も中東に留まるのか、あるいは一過性の現象を我々は見ているに過ぎないのか。

冒頭で述べたテーマをより具体的に掘り下げるため、この文章では、以上のような問いを設定してみた。以下は、主に筆者が専門とするロシアの軍事政策の観点から、これらの問いに答えようと試みたものである。

ロシアの対中東依存度の低さ

ロシアの中東に対する見方を理解する上でまず必要なのは、ロシアが中東に大きく依存しているわけではない、という点である。はじめに述べたように、この点が西側諸国とロシアとでは大きく異なる。

まずエネルギーに関して見てみよう。2013年に日本エネルギー経済研究所(IEEJ)が公表した資料によると、2010年時点におけるロシアのエネルギー自給率は184%であり、国産エネルギーによって国内需要を完全に賄うことができている。ことに原油に関しては、輸入依存度がマイナス264%にも達しており、中東のエネルギー資源には全く依存していない。


小泉悠 Yu Koizumi
(未来工学研究所客員研究員)

1982年生まれ。
早稲田大学大学院政治学研究科(修士課程)修了後、民間企業勤務、外務省国際情報統括官組織専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所(IMEMO RAN)客員研究員などを経て現職。ロシアの軍事政策を中心に、旧ソ連の安全保障政策を専門とする。主な関心領域はロシア軍改革、核戦略、対外軍事関係など。

 

帝国の落とし子、未承認国家

廣瀬陽子

(慶應義塾大学総合政策学部教授)

はじめに

近年、国際政治の主体が多様化していることに異論はないだろう。その中でも近年、存在感を増しているのが未承認国家(Unrecognized States, 「非承認国家」とも呼ばれる。その詳細は、(廣瀬 2014)を参照されたい)である。

たとえば、2008年8月のジョージア・ロシア戦争(いわゆる「グルジア紛争」)は、未承認国家の南オセチアとジョージアの衝突がロシアの介入を招いたものであり、その結果、米ロ新冷戦が真剣に懸念されるほどの国際的緊張を引き起こした。また、現在も続くウクライナでの複合的な危機(2013年11月末からのユーロマイダン革命(独立広場での反政府運動)に始まり、ロシアによるクリミア編入、東部における戦闘と「ノヴォロシア」の独立宣言に至る)は現在のロシアと欧米との関係を極めて悪化させ、ノヴォロシアが今後、未承認国家になっていく可能性が否めない。未承認国家は国際政治に大きな影響をもたらし得る存在だと言えるだろう。

後述するように、未承認国家は一度生まれてしまうとその解決は極めて難しく、また、その存在を完全に否定することが憚られる性格を持っている。

そこで本論では、未承認国家誕生の問題を、特に「帝国」の解体や変容に注目して考えていきたい。

未承認国家とは

未承認国家とは、ある主権国家からの独立を宣言し、国家の体裁を整え、国家を自称しているが、国際的に国家承認を受けていない主体である。いくら国家的な状況を維持していても、ある主体が主権国家としてのステイタスを獲得するためには、国家の要件を備えた主体が、外交能力があると認められる必要があるのだ。

国家の要件としては、1933年に署名された16条から成るモンテヴィデオ議定書(国家の権利及び義務に関する条約:Convention on Rights and Duties of States)が定めたポイントが援用されることが多い。同議定書に基づけば、以下の四点が主権国家の要件となる。

第一に、明確な領域である。一定に区画されている領土、領水、領空を所有していることが求められる。

第二に、恒久的住民の存在である。国民、人民が、その領内に恒久的に属していることが求められる。

第三に、政府ないし、主権の存在である。国内の自治を実効性あるものとする、正当な物理的実力が求められる。また、この実力は、対外的・対内的に排他的に、つまり主権的に行使できなければならない。

これら三点の要件を満たしているかどうかを判断するのは外国である。つまり、諸外国にこれら三点の要件を満たしていることを認定されること、そして外交を築ける能力があることが認められることが必要となる。そのため、第四の要件として、外交の能力を備えていることが認められ、諸外国からの国家承認を得ることが必要となるのである。

つまり、広く国家承認を得られていない主体は、いくら「国家」を自称し、国家の要件を充足させても主権国家として国際社会で存在することはできないのである。


廣瀬陽子 Yoko Hirose
(慶應義塾大学総合政策学部教授)

東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、政策・メディア博士(慶應義塾大学)。専門は国際政治、旧ソ連地域研究、紛争・平和研究。主著に『旧ソ連地域と紛争─石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス─国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア・太平洋賞特別賞)など多数。

 

清朝の崩潰と中国の近代化

岡本隆司

(京都府立大学文学部教授)

はじめに――国民国家と「帝国」

次頁の二枚の地図を比較することからはじめよう。

一枚は第1次世界大戦中、1916年のサイクス・ピコ協定。つまりオスマン帝国・西アジアの分割を列強の都合でとりきめたものである。

同じ時期の東アジアで比定すべきとりきめがあるとすれば、1915年、日本の対華21ヵ条要求であろうか。列強は19世紀の最末期、中国の各地に勢力範囲を画定して、多くの利権を手中に収めていた。こうした趨勢を継承して、中国の権益を保持、拡大しようとしたのが、日本帝国主義である。旅順・大連の租借や満鉄の権益を永久化し、山東省のドイツ権益を引き継ごうとした21ヵ条要求は、中国側にとってみれば、滅亡した清朝の時代に強いられた勢力範囲画定を固定化し、自国の分割にまで発展させようとする内容だった。日本人の真意・言い分がどうであれ、国際的にそう認知された結末は否めない。

もう一枚の地図は、その勢力範囲画定、いわゆる「瓜分」の地図である。これが当時の政治的・経済的な実態をあらわしている、とはとても思えない。けれども中国人の知識人エリートが、このように認識したことはまちがいないし、みかたによっては、アフリカ・中東にみまがう分割の危機が迫っているとも思える。中国の愛国主義は、そこから醸成されていった。

中国は21ヵ条要求にひとまず屈しながらも、その後に愛国主義・反帝国主義を高揚させて国民革命を成就し、抗日戦争を戦い抜いて勝利した。西アジアのような分割・分立は、ほとんどおこらなかった、という史実経過をたどる。

こうしてみると、オスマンの国民国家形成は失敗したのに対し、中国のそれは失敗にはいたらなかったように見える。前者は解体し、トルコ・ギリシアはじめ、各「民族」国家に分立したのに対し、後者は曲がりなりにも、清朝という「帝国」の規模をほぼ継承しえた。大方の理解はそうだろうし、あながち誤りだともいえない。

もっともそれは、国民国家をア・プリオリな存在として、そこを基軸に解釈した影像である。現在の世界では、国民国家以外の政体はありえない。そのため、それを所与の概念・存在とし、それに対置して異質な「帝国」なるものを措定する。こうした思考・論法は、むしろ一般普通、あたりまえであって、論壇・学界を問わず、然りではなかろうか。

しかしそれは、時間の流れに即して事実を跡づけ、その推移の意義を考える歴史学からいえば、本末転倒の方法である。先に存在したのは、あくまでいわゆる「帝国」であって、断じて国民国家のほうではない。また世界史という範囲でみれば、前者がむしろ普通長期の、メジャーな存在である。後者は元来、西欧というごく狭小のローカル・特殊な、しかも近代以後の、マイナーな政体だったにすぎない。

ところが今や、そんな国民国家がスタンダードになり、あらゆる学術・思考のベースになってしまった。そのため前後順逆はきちがえる誤解曲解も、往々にして生じるのである。


岡本隆司 Takashi Okamoto
(京都府立大学文学部教授)

1965年生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。宮崎大学教育学部講師、同教育文化学部助教授を経て、現職。専門は近代アジア史。著書に『近代中国史』(筑摩書房)、『袁世凱』(岩波書店)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞)など。

 

古代トルコ系遊牧民の広域秩序

齊藤茂雄

(日本学術振興会特別研究員PD)

はじめに

ユーラシア大陸の東部、中央にゴビ沙漠をはさんでモンゴル国と中国内蒙古自治区を合わせた地域はモンゴル高原と呼ばれ、農耕に不向きな乾燥した草原地帯が拡がる地理環境である。そのためこの地域では牧畜を生活の基盤とし、家畜による食害を受けやすい草原を保全すると同時に、氷点下30度以下になる冬の厳しい寒さから身を守るため、広大な草原と北風を避ける山あいの谷間を夏と冬で行き来する、遊牧という生活形態が発達した。彼らは多くの場合、小規模な集団で家畜を管理しながら移動生活を営んでおり、20世紀初頭の報告では、1年の移動距離は数kmで終わる場合から、200kmに及ぶ場合もあったという。前近代においては、彼らは血縁関係に基づき部落を形成して移動生活を行っていたようだ。彼らが軍事行動を取るときにはこの部落を単位に軍団が編成され、部落が多数集まって遊牧国家が形成されていた。

前近代の遊牧民が生活の糧として最も重視したのは現在と同様ヒツジであり、その保有頭数が彼らの財産の多寡をあらわした。しかし、平時においては小集団で生活している彼らが、放牧に際して徒歩で管理できるヒツジの頭数には限界があるため、馬具が発明され騎馬技術が確立したおよそ2700年前から、騎馬による家畜の管理が行われるようになった。また、彼らは食糧不足を補うための狩猟も頻繁に行っていたため、揺れる馬上から逃げ回る獲物を弓矢で仕留める騎射が、生活に必須の技術として自然に磨かれていった。

騎射技術は優れた戦闘技術ともなるため、彼らの狩りは常日頃から自然と戦闘訓練を行っているに等しく、全ての成人が戦場に出ることができる文字通りの国民皆兵であった。その一方、死なせてしまうと貯蓄がきかない家畜を生活の基盤とする彼らの生活は極めて不安定であり、厳冬期には家畜が全滅して全ての財産を失うことも珍しくなかった。ゆえに彼らの視線が、南方の安定した農耕経済圏である中国に向くことはごく自然なことであり、やがて卓越した騎馬戦力を利用し、家畜が肥えていて、かつ長い冬を目前にした秋に中国で略奪を行うことが彼らの慣例となった。

このように、前近代モンゴル高原の遊牧文化は、我々日本人のような農耕定住世界の文化と大きく様相が異なる。その違いの源を端的に言うなら、「移動」が日常に組み込まれているかどうかという点にあるだろう。では、日常的に移動を行っている人々には、どのような秩序があったのだろうか。移動生活は風の向くまま気の向くままという印象を持つが、そこに秩序だった動きは果たして見られるのだろうか。そこで、今日のように農耕世界が遊牧世界を圧倒している時代とは違い、農耕世界の論理に染まらず遊牧文明の原初の形態が見て取れる古代の遊牧民を例に取り、移動生活に見られる秩序を考えたい。なかでも近年、研究の進展によって唐との関係性に見直しが図られた6―8世紀のトルコ系遊牧民と、彼らによって建てられた遊牧国家である突厥に着目する。


齊藤茂雄 Shigeo Saito
(日本学術振興会特別研究員PD)

1980年生まれ。
専門は古代トルコ系遊牧民族史。大阪大学大学院文学研究科で博士(文学)を取得し、大阪大学言語文化研究科特任研究員などを経て現職。主要な業績に「突厥第二可汗国の内部対立」(『史学雑誌』122-9、2013)、著書に『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』(共著、勉誠出版)、『アニメで読む世界史2』(共著、山川出版社)がある。

 

国民国家の試練
― 難民問題に苦悩するドイツ

森井裕一

(東京大学大学院総合文化研究科教授)

難民問題は、難民を発生させる地域紛争や崩壊国家の問題、周辺国の問題、受け入れ国の問題など、多様な問題である。国際問題であると同時に、多くの関係国の政治、経済、社会問題でもある。ヨーロッパの場合にはEUによる国境なき欧州の構築とグローバル化のために、ヒトの移動が容易になったこともあり、国際環境の変化がダイレクトに国内状況に影響を与えるようになっている。そのために、問題への対処は一筋縄ではいかない。2015年秋から先鋭化したEU構成国への多数の難民流入問題も、非常に複雑な問題である。

人道的観点から2015年のわずか1年間に約110万人もの難民を入国させたドイツはEUの中でも特に注目を集める存在となった。ドイツの人口は8000万人強なので、110万人もを入国させるということは大変な問題を引き起こす。もっとも、入国した者がそのまま自動的に難民認定されたり、長期の滞在が許可されるというわけではない。2015年に入国した約110万人のうち正式な難民認定手続きの申請をしたものは約48万人である。2015年秋以降の入国者の多数はシリアの内戦を逃れてきたものであるために、認定率は高くなるであろうが、2014年以前のデータでは申請をしても半数以上が難民認定されていない。それでもこの申請者数は1992年に旧ユーゴスラビアの内戦を主な背景として難民申請者が急増し約44万人が難民申請した数をも上回るものである。ドイツはその後難民認定の制度を改正し、EUの共通難民政策も構築され、1990年代なかば以降10年以上にわたってドイツに入国する難民申請者数が急増することはなかった。2013年に約13万人、2014年に約20万人が難民申請し、増加傾向がはっきり見られたものの、2015年の数字は明らかに極めて特殊である。

なぜドイツはこれほどまでに大量の難民を入国させ、メルケル首相は頑なに人道的観点を強調し続けるのか。この問題を検討しながら、ドイツにおける難民問題の意味、EUの難民政策におけるドイツの役割を考察する。

難民受け入れの背景

第2次世界大戦後のドイツでは1953年から2015年までの間に約460万件の難民申請がなされたとされるが、その背景にあるのは憲法の規定である。戦後ドイツ(正式にはドイツ連邦共和国、1990年までは西ドイツとも呼ばれた)の憲法である基本法は、第1条に人間の尊厳は不可侵であると規定したうえで、第16条において政治的に迫害されたものに庇護権を保障してきた。国際条約として1951年に「難民の地位に関する条約」(難民条約)が締結される以前からドイツ憲法には基本権の一つとして政治難民の規定が置かれていたのである。もっとも、冷戦期の政治難民は東西対立を背景として東側から逃れてくる者が多数であり、ハンガリー動乱やプラハの春、ポーランドの戒厳令など東側諸国の政治的事件が難民庇護申請者の増加の背景となっており、数も年間数千人から数万人であった。

1980年代には難民庇護申請者数が増加し、冷戦の終焉と旧ユーゴスラビアの内戦などから90年代には庇護申請者は急増した。ドイツは統一によって旧東ドイツ地域の復興など国内でも大きな課題を抱えており、1992年に40万を超える庇護申請者が入国したことは社会的にも大きな問題となった。難民収容施設への放火事件も発生した。1993年5月の基本法改正により従来の第16条とは別に第16a条が新たに設けられ、庇護権とその制限に関する詳細な規定がおかれ、難民申請の条件は厳格化された。その結果として、安全な第三国を経由してドイツに入国した難民による難民申請は原則として認められなくなった。

今日のドイツはその国境を全てEU構成国により囲まれているために、ドイツへの難民の入国は非常に困難になり、難民の数は大幅に減少した。実際には第16a条を根拠とする難民認定は2%程度であり、難民条約による認定の方が数は多く、また補完的保護というカテゴリーが数的には相当に多い。補完的保護は難民とは認定しないものの、送還することにより命の危険にさらされたり、非人道的な状況が生じる場合には滞在が認められるカテゴリーである。日本で難民認定されないものの、送還もされずに滞在が一定期間認められている人々と類似のカテゴリーであるが、数が非常に多い。


森井裕一 Yuichi Morii
(東京大学大学院総合文化研究科教授)

1965年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程中途退学。琉球大学講師、筑波大学講師を経て現職。専門はEU研究。著書に『現代ドイツの外交と政治』(信山社)、『ヨーロッパの政治経済・入門』(編著、有斐閣)など。

 

噓の明治史
― 福地櫻痴の挑戦

五百旗頭薫

(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

噓の今

政治家は国民に噓をつくらしい。

久々の安定政権を享受するのと裏腹に、この万古不易な事象への不満が、高まっている。不満というよりは不安であろうか。

安保法制の施行で、直ちに日本が軍国主義になると心配する人は、多くはないだろう。だが「ごまかしで憲法解釈がかわることを阻めない政治なのであれば、あらぬところへ漂流しないか」という不安は、より多くの人々の心によぎったであろう。

この文章を記す少し前には、民主党と共産党の選挙協力が話題となった。民主党が共産党と選挙協力したからといって、共産党主導の政権ができることを心配する人は、多くはないだろう。だが、来たる選挙で勝つというよりはせいぜい与党を苦しめんがためになりふりかまわない野党なのだから、「政権を取った時に何をするつもりなのかが分からない」「何のつもりもないのかもしれない」というのが、より多くの人々の不安であろう。

噓が増えているとしたら、政治改革の遺産であろう。1996年、小選挙区比例代表並立制が導入され、小選挙区制に近い選挙となり、勝ち負けがはっきりつくようになった。無党派層のよく変わる審判は政治家にとって不気味であり、自民党も民主党も投票のスウィングに翻弄された。

衆議院議員選挙と参議院議員選挙の間にも、審判は変わり、両院のねじれをもたらした。

今の政党は、得票の確実な周辺部へと避難しているように見える。ナショナリズム、平和主義、連合、創価学会、共産党などがこれらの城塞にあたる。いずれも、自らが多数派になるという期待を持っていない。したがって、無党派層が占めるうつろいやすい中原にはリップサーヴィスを行うが、リップサーヴィスしかしない。

これが噓の増えた背景であろう。

噓の種類と処方箋

このように噓が増える経緯があるのだとすれば、それはある観点へと我々を導く。政治家の噓は万古不易ではなく、噓が減る経緯もある、ということである。現に、他者に説明する必要がない独裁者は、噓を要しない。

独裁よりももう少し穏当な方法で、少しだけ噓を減らす方法を考えるというのが、この短文の狙いである。

二つの方法がある。第一の処方箋は、真実によって噓を暴くことである。正攻法だが、噓を見抜くのはなかなか難しい。

見抜かれまいと政治家が懸命に隠す噓を、「必死の噓」と呼ぶことにしよう。「必死の噓」はここでは見逃そうと思う。というのも、「必死の噓」は、ばれるとその政治家に対する強い制裁が予想される。永遠にばれない噓であれば、ばれるほどの問題が生じていないのであるから、そもそも問題がないともいえる。

どちらともつかず、なかなかばれずに犠牲者が増えたり、中途半端にばれて責任追及の矛先が他所にそれたりするケースに、数多の不条理やドラマが含まれるのだが、これ以上は論じない。正直さよりも結果責任を負う政治家と、真相を追ってやまないジャーナリストや歴史家の切磋琢磨が、永久に続くことを祈るばかりである。

「必死の噓」とは別に、「横着な噓」がある。見る人が見れば噓なのだが、それを語る政治家に権勢があったり、支持する人々が多かったりするために、公に押し通ってしまう。これはいけない。第一に、真面目に議論する気が失せてしまう。第二に、騙されたり、騙されたふりをしたりしている人々を見ると、つくづくこんな国に住みたくないと思ってしまうかもしれない。こういう頽廃や分断はいけない。そして、噓は隠されてすらいないので、第一の処方箋は無力である。


五百旗頭薫 Kaoru Iokibe
(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

1974年生まれ。
東京大学法学部卒。博士(法学・東京大学)。東京都立大学法学部助教授、首都大学東京准教授、東京大学社会科学研究所准教授などを経て現職。専門は日本政治外交史。著書に『大隈重信と政党政治』(東京大学出版会)、『条約改正史』(有斐閣)など。

 

民主化後のミャンマー
― 期待と現実

マリー・ラル

(ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジ教授)

2016年2月1日、ミャンマーの首都ネピドーで新議会が召集され、国民民主連盟(NLD)から上下両院合わせて390人が初の議会に臨んだ。1990年の総選挙で勝利を収めてから25年、アウン・サウン・スー・チーの率いるNLDは幾多の試練と苦難を経て、ついに政権を担うことになった。この歴史的出来事は、3カ月前の2015年総選挙とともに始まった政治的プロセスの到達点であるとともに、ほぼ10年にわたる改革の結果として生まれたものである。

選挙

2015年11月8日の日曜、ミャンマー総選挙の投票が行われた。国会の上下両院に加えて14の州議会、地域議会の選挙も併せて行われ、90を超える政党が議席獲得を争った。その政党数の多さにもかかわらず、注目は野党のNLDと与党の連邦団結発展党(USDP)に完全に集中した。政権を握るためには、NLDは議席の67%を獲得する必要があった。結果はその数を大きく上回り、NLDが地滑り的勝利を収めた。ミャンマーの選挙制度は小選挙区制であるため、獲得議席数は得票率と一致しない。それでも、得票率はNLDが57%だったのに対し、USDPは28%にとどまった。これは正真正銘の勝利であり、NLDがここまで議席数を伸ばすとは予想していなかった多くのミャンマー・ウォッチャーに驚きをもたらした。

選挙前には、多くのミャンマー国民、そして外国メディアが「自由で公正」な選挙になるかどうかを心配していた。投票前の数週間に有権者名簿をめぐる問題が繰り返し取りざたされたが、大きな不正はなかったようである。ミャンマーの全域に展開した国際選挙監視団は、投票が「自由」であったことを確認した。

もっとも2008年に制定された憲法の規定により国会議席の25%が軍人に割り当てられているという事実は、選挙が「公正」であったとは言えないことを意味している。NLDの立候補者は選挙前に脅迫を受け、NLDは選挙違反に関する100件以上の申し立てを行った。しかしながら、大差の勝利となったことで、もはや選挙プロセスに関する訴えはほとんど意味がなくなった。

USDPは選挙戦で経済発展の実績を強く訴えた。ミャンマーが生まれ変わったのは、つまるところUSDPの取り組みとテイン・セイン大統領のリーダーシップによる成果だった。総選挙の投票結果にUSDP内では落胆が広がった。USDPのテイ・ウー党首代行は、下院議長として人望を集めていた前党首のシュエ・マンとともに議席を失った。シュエ・マンは、民政に移行するまで国軍序列第3位の将軍だった。自分たちがミャンマーのために尽くし、変革を可能にしたのだと思っていたUSDPの議員の多くが、敗北を喫した。大統領府付大臣として少数民族の武装勢力との間で未曾有の和平プロセスの実現をほぼ一手に担い、2015年10月15日の8勢力との全土停戦協定の土台を整えたアウン・ミンもその一人となった。USDPの当選議員の大部分は、軍部の支配下にある地域を選挙区とする人たちだった。

ラカイン州とシャン州の一部地域を例外として、少数民族が居住する各州で多数の民族政党とその立候補者も大敗を喫した。内戦に引き裂かれたカチン州でも、当初は支持を集めているようには見えなかったNLDが、州議会の過半数を含めて議席の大半を獲得した。この結果の一因は、民族諸政党が団結しなかったことにある。あまりにも多くの政党が、それぞれの民族を代表しようとして乱立した。2010年の総選挙では民族政党の数が今回より少なく、しかもNLDが選挙をボイコットしていた。


マリー・ラル Marie Lall
(ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジ教授)

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で博士号取得。専門はインド・パキスタン・ミャンマーにおける教育政策および東南アジア地域研究。主な著書に“India’s Missed Opportunity:India's Relationship with the Non-resident Indians”,“Education and Social Justice in the Era of Globalisation:Perspectives from India and the UK”(編書、Routledge India)などがある。BBCなどで南アジア問題のコメンテーターもつとめている。

 

沖縄の護国神社

宮武実知子

(主婦)

2016年の正月、那覇市奥武山の沖縄県護国神社には初詣の長い列が伸びた。

護国神社といえば、県民には「あの初詣がすごく多いとこ」で知られる。だが沖縄の初詣が賑わう現象は、実はわりと新しい。その証拠に、参拝者はなぜか文字通りの「長蛇の列」を作る。3、4人ほどの細い幅でずらりと並ぶのである。境内のずっと外から始まった細い列は参道の中央を長い時間をかけて進み、ようやく拝殿前に達した先頭がおもむろに柏手を打つ。神社仏閣と観光客がひしめく京都から来た筆者は、どんどん進んで射程距離に入ったら賽銭を投げればいいのにと思って眺める。飲食店の順番待ちのような並び方は初詣らしくない。

それにしても、なぜ異なる宗教文化の沖縄で、こんなにも初詣が賑わうのか。しかも、戦没者を祀る「地方版の靖國神社」がアメリカ占領下で復興され、今や誰もそんな歴史を気に留めないほど市民生活に溶け込んでいる。なぜだろうか。

それは、人々が護国神社の復興に「祖国日本」という夢を重ねてきたためではないか、と筆者は考えている。

なお、筆者はかつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵のようなものであった。論文を投稿した査読誌から「条件付で掲載可」の通知とともに「沖縄の護国神社は特殊だが、調査したか」と指摘され、慌てて沖縄へ飛んだ。聞き取り調査をしようと境内をうろつくうち、当時は権禰宜(ヒラの神主)だった現宮司の加治順人が通りかかった。聞けば40年以上にわたって神社の再建と運営を担った加治順正の長男だという。「加治家の神社」と揶揄されるほど一族総出で運営してきたそうだが、よそ者には理解しづらい長い話だった。数年後(中略)「こちらに来ればいい」と身元を引き受けてもらって現在に至る。一般的に言えば、嫁に来たということだ。

つまり、本論考は研究者がいわゆる参与観察をした学術論文ではない。元ミイラ取りによる現地リポートである。昔の名前で出ているのは、本稿があくまでも筆者個人の理解に基づく論考であって、神社はもちろん加治家を代表する意見でもないことを示している。

神道というマイナー宗教

沖縄で神主が地鎮祭やお祓いに出向くと、「あい!髪があるねぇ」と驚かれるらしい。タクシーに乗って「奥武山公園の、護国神社」と所在地を強調しないと、波之上の「護国寺」に連れて行かれる。

神主と僧侶、神社と寺の区別は、沖縄ではあまり知られない。ここでは神道も仏教もマイナーな宗教である。

では「沖縄の信仰」は何かといえば、折口信夫が「琉球神道」と呼んだ独特な信仰形態だろう。日本本土の神道の一種とも言われるが、祖先崇拝が非常に強く、神社仏閣のような建造物を重視せず、御嶽や火の神を拝み、ノロやユタといったシャーマン的な人々が活動する。このユタが驚くべきことに現在も各地にいて影響力をふるっており、いろいろ奇妙な話も多い。

だからだろうか、現代の感覚では非合理と思えるものへの抵抗感が少なく、「サーダカーな人(霊的な位相の高い人)」や予知夢の存在が当たり前に信じられ、さまざまな新興宗教が支部を構えて栄える。アメリカ占領時代の名残でキリスト教も強く、町に小規模な教会をよく見かける。これら新興の外来信仰が、沖縄の厳格な祖先祭祀から零れ落ちた人を掬い上げる役割を果たしてもいる。

多様で層の厚い宗教文化の地では、内地で圧倒的な存在の仏教や神社神道すらひとつの外来信仰にすぎない。


宮武実知子 Michiko Miyatake
(主婦)

1972年生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。

 

領域を超えない民主主義?
― 広域連携の困難と大阪都構想

砂原庸介

(神戸大学大学院法学研究科准教授)

はじめに

2010年に当時の大阪府議会議員を中心に発足した「大阪維新の会」は、その後、2011年の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙、「日本維新の会」による国政への進出と他の政党の統合・分離、そして2015年に行われた特別区設置に向けた住民投票と、大阪のみならず全国的にも注目される政治的な動きを見せてきた。その動きの中心にいた事実上の創設者である橋下徹・前大阪市長は、2015年の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙をもって政治からの引退を表明し、選挙にも立候補しなかった。その引退について、すぐに復活するなどのいろいろな憶測は存在するだろうが、一つの区切りとなったことは間違いない。

この間、橋下をはじめとする大阪維新の会の政治家たちによるさまざまな言動や政治的主張には、批判されるべき点は数多く指摘されているが、現代の日本政治にとって重要な問題提起となっているものも少なくない。とりわけ、大阪維新の会の中核的な主張であった「大阪都構想」は、大阪市というひとつの自治体を超えて、大阪という大都市圏での意思決定を考えさせる性格を持つものである。ひとつの自治体の領域を超えた広域での意思決定は、長らく日本においてその必要性が論じられつつも試行錯誤を繰り返してきたテーマであり、大都市圏に関与する都道府県と政令指定都市――つまり大阪府と大阪市――を統合しようとする解決の提案は、いくつかの深刻な欠点があるとしても、重要な問題提起であることは間違いないだろう。

本稿では、まずひとつの自治体の領域を超えた意思決定という問題がどのように扱われてきたかを整理したうえで、そのような意思決定がなぜ困難を抱えているかを議論する。そこで中心的な問題は、地方自治体を規定する二元代表制と、地方議会における選挙制度の問題である。そのうえで、なぜこの問題を掲げた大阪維新の会が5年間にわたって一定の成功を収めることができたのかについて、その二元代表制と地方議会の選挙制度という観点から説明する。さいごに、今後日本の地方自治体と広域での意思決定について考えるべき、政党の問題を指摘して論を閉じる。

地方自治体の事務と広域連携

ひとつの自治体の領域を超えた意思決定、広域連携という問題はなぜ生まれるか。その理由は、それぞれの地方自治体には、都道府県・市町村というレベルに応じて割り当てられた事務が存在することによる。それぞれの地方自治体が割り当てられた事務を行う中で、事務の重複や欠落が生じる可能性がある。その重複や欠落を、複数の自治体が連携することによって解決することが求められるようになるのである。

戦後の日本では、1948年に制定された地方財政法のもと、行政の事務を国が行うべきもの、地方公共団体が行うべきもの、国・地方が共同して行うべきものの3種類に分類したうえで、経費の負担区分をそれぞれ国費・地方費・国庫補助負担とに分け、共同負担の形式を取るものについては、負担割合や経費の範囲などを法律または政令によって明記することになった。さらに、占領軍総司令部の主導で1949年に来日したコロンビア大学のシャウプ博士を長とする調査団が行った財政についての勧告では、行政事務を明確に区別してあるレベルの自治体にはひとつの特定の事務が割り当てられるべきこと(行政責任明確化の原則)、それぞれの事務は規模・能力・財源によって準備の整う自治体に任せること(能率の原則)、地方自治のためにそれぞれの事務は基礎自治体に委ねること(市町村優先の原則)といった原則が強調された。

地方財政法のもと、シャウプ勧告で示された原則が徹底されるとすれば、都道府県・市町村といった地方自治体は、それぞれの独自財源によって固有の事務を行うということになる。自治体に割り当てられた財源を用いて、割り当てられた事務を行い、もし不足したときは国に援助を求めるのではなく、自治体の中で財源を調達する(つまり地方税)ことで、行政責任の明確化が果たされるというわけである。こうなれば、サービスに見合わない税の徴収が困難になるので、事務の重複や欠落を解消する広域連携は、地方自治体間で解決すべき重要な課題となる。

ところが、このシャウプ勧告の原則が実現することはなかった。


砂原庸介 Yosuke Sunahara
(神戸大学大学院法学研究科准教授)

1978年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員、大阪市立大学大学院法学研究科准教授、大阪大学大学院法学研究科准教授を経て、現職。専門は地方政治。著書に『地方政府の民主主義』(有斐閣)、『大阪』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『民主主義の条件』(東洋経済新報社)、『政治学の第一歩』(共著、有斐閣)など。



購入のご案内

お近くの書店にてお求め下さい。
店頭にない場合は、注文になる場合がございます。

下記のサイトからもご購入いただけます(他社のウェブサイトへ遷移します)。


株式会社CCCメディアハウス(サイトへ)

〒153-8541 東京都目黒区目黒1丁目24番12号
TEL:03-5436-5721