冒頭を読む

 

ふたつの「中国化論」
ー 江藤淳と山本七平

與那覇 潤

(愛知県立大学日本文化学部准教授)

五輪と戦争

オリンピックが済んで、私は、それがわれわれの意識の底にうずまいている欲望の、いかに完璧な象徴であり得たかということにおどろいている。それは、まず、戦うことを自らに禁じている(あるいは何者かによって禁じられている)われわれが、平和の祭典という名の下に、安んじて戦い得る場所であった。

いまから6年後には「第一次」と冠されるのだろう1964年の東京オリンピックをめぐって、同年12月の『文藝春秋』に寄せた「幻影の『日本帝国』」を、江藤淳はこう書き起こしている。江藤にとっては、オリンピック開催に向けて行われる東京の改造工事そのものが「ああ日本人は今戦争をしているのだな」と感じられるものであり、「もし、大多数の人々が、これが一種の戦争であることを暗黙のうちに認めているのでなければ、これほど徹底した生活破壊に、日本人が耐えて行けるはずもなかった」。

ではいったい、日本人は五輪開催を通じてなにと戦ったというのだろうか。それはペリー来航以来の「いわゆる日本の『近代化』」であり、「日本即世界という自己完結的な世界像のかわりに、日本が世界の数ある国のひとつにすぎぬという現実をうけいれなければならなくなった」ことがもたらす「不幸」であるという。日本人はかつてその「不幸の補償を戦争に求め」、日清戦争以来の領土拡張を通じて「自己完結的な世界の回復」を期したが、その試みは1945年の敗戦で灰燼に帰した。しかし64年の祝祭は「世界の象徴を自国のなかにむかえいれ、それをオリンピック競技場のなかに閉じこめることによって、一種の幻影の、しかしその故に完璧な帝国をつくりあげることに成功した」。それは「『日本即世界』という自己完結的な世界像」を回復させる「心理的鎖国状態」、ただしかつての鎖国とは異なり外国人の排除ではなく受け入れによって成立した「開けば開くほど閉じられるという見事な逆説」であったと、江藤は述べる。

たとえばインパール作戦からの生還兵であった大松博文が率いたバレーボールチーム=東洋の魔女が、決勝で第二次大戦の宿敵ソビエト連邦を下すという劇的な展開に「戦争」の代償行為を見たのは、おそらくは当時の日本人多数の潜在意識であって、だからこそその二著『おれについてこい!』『なせば成る!』は翌65年のベストセラー4位、2位を記録している。しかし江藤が東京五輪に見た「戦争」のゆくえは、その目的が単なる個別の旧敵国への報復ではなく、近代以前にあった「日本即世界」、すなわち日本人が世界の他者性に悩まなくてもよかった環境の回復である以上、もう少し複雑だ。オリンピック競技場に「世界」を収めえたことの快楽に酔う六四年の日本人に、それが世界のすべてではないことを突きつけた存在こそが、毛沢東の人民中国であったと江藤は断ずる。


與那覇 潤(愛知県立大学日本文化学部准教授)

1979年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。
専門は日本近代史。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文藝春秋)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社インターナショナル)、『史論の復権』(新潮社)、『近代日本政治思想史』(共著、ナカニシヤ出版)など。

 

「日本料理」への懐疑

四方田 犬彦

(映画史・比較文化研究家)

「みしる」という言葉

「あんじょう、みしったりなさい。」
「ちゃんと、みしったりーな。」
「あんた、みしんの、下手やなあ。

幼いころからわたしは、焼き魚を前にして、母親からそういわれてきた。

いったい「みしる」というのは漢字でどう書くのだろうか。わたしはそれをつねづね疑問に思ってきたのだが、最近になってようやく答えを得た。『大阪ことば事典』(牧村史陽編、講談社学術文庫、1948年)によって、これが「毟る」の大阪方言であったことを知ったのである。北大阪の阪急沿線に生まれたわたしは何も知らず、それを一般の日本語(標準語)だと、長い間思い込んできたのである。

だがそれにしても、若干の違和感が残らないわけではない。いったい鮎の塩焼きを、人は毟ったりするものだろうか。パンが千切るものであり、焼き鯛の眼は穿るものである。であるならばわたしにとって「毟る」とは、和鷄の肉を直接に指を用いて千切る行為である。

では、「みしる」とはどのような行為か。わたしにとってそれは、先の細い箸を用いて鮎のふっくらとした背と腹に軽く圧力を加え、押しを少しずつ尾の方向へ向けていって身を解してゆくことである。この運動によって、箸は魚の身に隠されている自然の切れ目を探り当てる。切れ目に沿って骨から外れようとする身を、箸を用いて抓み上げ、かたわらの蓼酢に浸しながら口へ運ぶ。わたしにとって「みしる」とはこのような箸の繊細な操作の全体を示す言葉であって、けっして「毟る」という粗野な動作の、言語学的な変形などであってはならない。「みしる」とは魚の「身」を知ること、つまり素材の秩序と分節を探り当てることなのだ。もちろん魚が鮎である必要はなく、鯧であっても、鯛であってもかまわない。だがこの動詞を可能としているのが、日本に独特の先の尖った箸であることだけは、関の東西を問わず事実であるような気がする。

ロラン・バルトは日本の箸には、食べものを皿から口まで運ぶこと以外に、少なくとも三つの役割があると書いている。

まず最初にそれは、食べものを人差し指のように指示してみせる。その結果、食事は機械的な慣習を離れ、そこに気ままや倦怠、つまり知的な操作が持ち込まれることになる。二番目に、箸は食べものを優しく抓み上げる。もっとも抓むといっても、それは西洋のフォークのように攻撃的で威圧的な身振りではない。食べものはあらかじめ小さく、断片に切り分けられていて、箸はそれを損傷することなく、軽く持ち上げるだけでよい。だが三番目にバルトが指摘しているのは、多くの箸が木や漆を素材としているということから生じる、なにか母性的なものである。

「箸の動きには、なにか母性的なもの、子供を抱きかかえて運ぶときのような、細心に計算された節度そのものがある。それは力づよさ(はたらきという意味の)であって、衝撃的な力ではない。これこそがまさに食べものに対する態度なのである。それは、料理人が使う長い箸に現われている。その箸は、食べるためではなく、食品を調理するために用いられるのであり、その調理具は、けっして突き刺したり、切ったり、割いたり、傷をつけたりすることはなく、ただ持ちあげたり、裏返したり、運んだりするだけである。」(ロラン・バルト『記号の国』石川美子訳、みすず書房、2004年、31~32頁。ただし表記一部変更)

バルトはこうして日本の箸のなかに、西洋のナイフやフォークのもつ攻撃的な切断機能とは正反対の役割を見ている。「箸は、あらかじめ細かく切り分けられた材料を、小鳥たちの食べものに変えてしまう。」(前掲、33頁)

わたしはこの一節を読んだとき、幼少時代から親しんできた「みしる」という言葉をただちに思い出した。それは目の前に置かれた焼き魚を眺めながらも、まだ箸の細やかな使い方のできず当惑している幼児のため、母親が代わって身を解し、取り分けてやる母親の慈愛に満ちた身振りをすぐれて表象している言葉ではないだろうか。バルトの卓抜なる表現を用いるならば、食べものは「みしる」ことを通して、「小鳥たちの食べもの」へと変化するのである。


四方田 犬彦(映画史・比較文化研究家)

1953年生まれ。
東京大学人文系大学院比較文学比較文化学科博士課程修了。
ソウル・建国大学校、コロンビア大学、ボローニャ大学、明治学院大学などの教授、客員教授を歴任。著書に『映画史への招待』(岩波書店)、『モロッコ流謫』(ちくま文庫)、『ルイス・ブニュエル』(作品社、芸術選奨文部科学大臣賞)など多数。

 

マンガは光琳を超える

井上 章一

(国際日本文化研究センター副所長)

革命の語り方

このごろ私は、フランス革命がらみの本や論文を、てあたりしだい読みだしている。と言っても、革命史研究それじたいに、いどもうとしているわけではない。

私が関心をよせているのは、革命を論じる語り口のうつりかわりである。じっさい、20世紀なかごろのそれと、20世紀末以後のそれは、よほどちがっている。同じ革命をあつかっているのに、どうしてここまで論じっぷりがことなるのか。そのへだたり具合いに興味がわき、叙述の歴史をおいかけだした。

もちろん、20世紀初頭の革命語りと、のちの物言いとのあいだにも差異はある。そこも射程におさめつつ、調査はすすめている。いずれは、20世紀の日本におけるフランス革命語りの歴史を、まとめたい。うまくいくかどうかはわからないが、今はそんな野心をいだいている。

フランス革命の研究がいちばん高揚したのは、20世紀のなかごろであったろう。そのころの本などを読んで気づいたことが、ひとつある。高橋幸八郎を中心とする東大の研究と、桑原武夫がひきいた京大の研究にも、ずれはある。同時代の革命像が、東大と京大では、たがいにそっぽをむいていた。学統によるさやあてめいたこのくいちがいも、きちんと腑分けをされねばならないだろう。

なんだか、たいへんな作業になりそうである。知人にも、思いとどまるようさとされることが、ないわけではない。それは、大仕事だ。とにかく、日本の知性は、あの革命をめぐって、議論をくりひろげてきたのである。井上のもくろみは、その全体像とむきあうことを、余儀なくされるだろう。かんたんにまとめられるテーマではないよ、と。

私にも、その不安がないわけではない。やっぱりやめたと、白旗をかかげてしまう予感もある。

だが、関連のありそうな古書は、もうそうとう買いこんでしまった。いまさらにげるわけにはいかない。ここでやめてしまうのは、金銭的にももったいないというみみっちい覚悟が、私にはある。最終的には、自腹をきったこの出費が、私をあとおししてくれそうな気もしている。

書架にならびだしたフランス革命文献をながめていると、ある感慨にとらわれる。私たちの先輩は、この革命へむらがるように、とびついていった。よってたかって、これをたいそうなテーマにしたてあげてきたんだな、と。

そして、同時にこう思う。フランスにおける明治維新研究のひろがりは、どれほどであったろうか、と。

幕末のマニュファクチュアについて、フランスの研究者があつい議論をたたかわす。明治以後における封建的なものの残存をどう考えるかで、口角泡をとばしあう。そういう展開が、フランスの学界でくりひろげられてきたとは、とうてい思えない。明治維新を論じたフランス語の文献が、フランス人の書架にあふれる光景も、想いうかばないのである。

フランスにおける明治維新史研究の推移は、たやすくおいかけられそうな気がする。すくなくとも、日本でフランス革命研究史をさぐる作業とくらべれば、やりやすかろう。手間は、あまりかかるまい。

それはたいへんな仕事になるからやめろと、まわりからたしなめられることもないだろう。まあ、つまらない仕事だなと、軽んじられることはあるかもしれないが。


井上 章一(国際日本文化研究センター副所長)

1955年生まれ。
京都大学工学部建築学科修士課程修了。
京都大学人文科学研究所助手、国際日本文化研究センター教授などを経て現職。専門は建築史、意匠論。著書に『つくられた桂離宮神話』(弘文堂、サントリー学芸賞)、『日本に古代はあったのか』(角川学芸出版)、『伊勢神宮』(講談社)など。

 

日本のまんがは「日本的」ではない

大塚 英志

(国際日本文化研究センター教授)

日本のまんがやアニメーションを「日本」の「伝統」と結びつける馬鹿げた議論においては、そもそも「日本」という枠組、「伝統」という枠組の双方をまず懐疑するという、およそ初歩的な批評的態度が、ことポップカルチャーを前にしたとき、平然と放棄されるのはなぜなのかという問題がある。

例えば、日本のまんが・アニメーションを「伝統」と結びつける議論で当然の如く持ち出されるのが『信貴山縁起』など中世の絵巻物や近世の浮世絵である。このような視覚的芸術の伝統があるから日本ではまんが・アニメが隆盛したという俗説が平然と語られる。だが、「伝統」にまんが・アニメという文化様式の出自が求められるなら、ネイティヴアメリカンしかいなかった大陸にやってきた移民たちが作った、「近代」からこちら側しかないあの国で、ディズニーやフライシャー兄弟が生まれたことをどう説明すればいいのか。どの地域にも豊かな物語性を帯びた絵画の歴史は存在するが、一体、その中で日本の「絵巻物」や「浮世絵」だけが特権的であるとしうる根拠はどこにあるのか。だれがどのようにそれを立証したのか。「絵」の書式の部分に着目すれば、なるほど『鳥獣人物戯画』は、鳥羽絵として形式化され、鍬形蕙斎による「略画式」によるマニュアル化を経て浮世絵へと続く。しかし、大正アヴァンギャルドという極東の島国に及んだ文化のグローバル化を経て、昭和初頭、ディズニーなどのハリウッド産アニメーションの「書式」を構成主義的に受容することによって、近世以前の「伝統」とは、まんが・アニメは少なくともキャラクターの書式のうえでは切断された、というのがぼくの基本的な見解だ。無論、これは「手塚的なキャラクターの書式」についてのことで、「少女まんが的な書式」は、アルフォンス・ミュシャなどアール・ヌーヴォーあたりのグラフィックに確実にその出自がある。明治の時点で与謝野晶子の『みだれ髪』において、近代女性の身体と自我を発露した晶子の歌に、藤島武二がミュシャの海賊版的挿画を付した時点で、その後の少女まんが史における、「女性の内面の表象としてのアール・ヌーヴォー的意匠」という基本的枠組が成立している。芳賀徹風に言えば「みだれ髪の系譜」にこそ少女まんが史は接続する。ここでもいわゆる「伝統」とは切断されている。

しかし、伝統絵画がまんがやアニメーションの起源として不用意に持ち出されるケースはキャラクターの「書式」においてだけではない。いまも根強いのは『信貴山縁起』など物語性を持った絵画形式と、「絵」と「物語」が一体となったまんが・アニメを類似した形式として結びつけ、歴史的出自とする議論だ。しかし、両者はどのように「類似」しているのか。そして仮に「類似」しているとして、その「類似」はいかに成立したのか。


大塚 英志(国際日本文化研究センター教授)

1958年生まれ。
まんが原作者。
まんが原作の近著に詩人時代の柳田國男を主人公とする『恋する民俗学者』(KADOKAWA)。三島由紀夫を狂言回しとする新作『MISHIMA BOY』を準備中。海外で、「映画的手法」に基づくまんが入門ワークショップ「世界まんが塾」を開催、参加者は7カ国2000人を超える。

 

共鳴する日本音楽

徳丸 吉彦

(聖徳大学音楽学部教授・京都市立芸術大学客員教授)

日本の音楽が伝承され、演奏されている場

日本列島で演奏されてきた音楽は実に多様である。音の大きさ(音量)だけを取り出しても、大きな違いがある。縄文時代の土鈴は、穴がなく密閉されているので、極めて小さな音しか出さない。それに対して、古墳時代以降の土鈴は、「鰐口」と呼ばれるスリットがついているので、比較的大きな音を出す。

音量に限らず、音の使い方の点でも多様な音楽が列島で演奏されてきた。ここで、音の使い方、あるいは音の運用規則の結果を音楽様式と呼べば、それは時代によってだけでなく、同じ時代に演奏されているジャンルによっても違いがある。江戸時代でも、その時代に作られた三味線音楽や箏曲を聴いていた人が、中世起源の平家(『平家物語』を琵琶で語る音楽)と能狂言を聴けば、その音楽様式の違いを意識したであろう。また、例えば江戸時代中ごろに大坂に住んでいた人が、聖徳太子の御忌の法会である聖霊会のために大坂の四天王寺に行って、そこで演奏される声明(仏教の声楽)と雅楽を聴けば、自分たちが普段聴いている義太夫節と違うことを強く感じたことであろう。

本州を離れて、北に向かえば、アイヌの人々が独自の音楽をもち、また南では、沖縄本島の組踊や、沖縄の各地で地域によって異なる様式をもつ音楽が上演されていた。本土との交流が、あるいは、外国との交流が、アイヌや沖縄の音楽を形成するのに果たした役割も多い。この問題を考えることは日本の音楽を大きく捉えるために必要であるが、以下の記述では、本土で伝承されてきた音楽を扱うことにする。


徳丸 吉彦(聖徳大学音楽学部教授・京都市立芸術大学客員教授)

1936年生まれ。
東京大学美学藝術学大学院修士課程修了、ラヴァール大学(カナダ・ケベック)より博士号取得。
国立音楽大学助教授、お茶の水女子大学教授、放送大学教授などを経て、現職。お茶の水女子大学名誉教授。専門は民族音楽学、音楽記号学。著書に『音楽とはなにか─理論と現場の間から』(岩波書店)、『民族音楽学理論』(放送大学教育振興会)など。

 

世界とつながる紅白歌合戦

太田 省一

(社会学者)

昨年の「紅白」から─文化的雑種性と日本文化

北島三郎の「紅白」引退、企画コーナー『あまちゃん』特別編への小泉今日子と薬師丸ひろ子の登場など、近年になく話題が豊富だった昨年2013年の『NHK紅白歌合戦』(以下「紅白」と表記する)。本番ではさらに、AKB48大島優子の突然の卒業宣言や綾瀬はるかのハラハラ感満点の司会などもあった。それらが例年以上の興味を引いたのか、第二部の視聴率は44.5%と過去10年で最も高かった。

そうした話題の陰に少し隠れた形にはなったが、昨年の「紅白」には注目の初出場歌手がいた。松田聖子とのデュエットで歌ったクリス・ハートである。彼は、日本の歌を日本語で歌うことで注目された。この本番当日も、松田聖子と『夢がさめて』を日本語で歌い上げた。

クリス・ハートは、1948年アメリカのカリフォルニア州にアフリカ系アメリカ人の両親のもとに生まれた。12歳の時、日本の番組が放送されている地元のチャンネルで『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ)を見て感激し、以来大のJ-POPファンになった。その頃のお気に入りは相川七瀬やSPEEDであったと言う。

その後2009年に日本に単身移り住む。歌手になる気はなかったが、YouTubeにたまたまアップしたSMAPの『夜空ノムコウ』が評判になり、2012年日本テレビ『のどじまんザ!ワールド』に出演し、優勝。それがきっかけになって2013年5月、木山裕策が歌った『home』のカバーでソロ歌手としてデビューを果たした。その後アルバムもリリースしてヒットし、「紅白」出場に至った。

クリス・ハートは、J-POPの魅力を次のように語っている。「米国なら黒人はラップ、白人はロックと、専門分野に分かれちゃってます。でも、J-POPは世界中の音楽を混ぜ合わせて、いろんな楽曲を作り出している」。つまり、クリス・ハートは、日本の流行歌が持つ文化的雑種性に魅力を感じたのである。

また彼は、12歳の時にJ-POPに魅せられて以来、「紅白」出場が夢であったと言う。昨年の「紅白」のインタビューでも「夢のようなステージ」と「紅白」出場の感激を表現していた。

その「紅白」には、いかにも日本的な番組というイメージが一般にあるのではなかろうか。1960年代から70年代にかけての「紅白」は、常時70~80%という驚異的視聴率を誇り、〝国民的行事〞とまで呼ばれた。大晦日に家族全員が年越しそばを啜すすりながらお茶の間で「紅白」を見るという光景は、かつて日本人の定番的な年越しのスタイルであった。そうした中で私たちは、美空ひばりや北島三郎の歌を聞きながら、「日本人だなあ」という気分に多かれ少なかれ浸っていたのである。つまりそこでは、日本人としての一体感が感じ取られていた。

だが、実際に「紅白」の歴史を細かく見ていくと、「紅白」には単なる一体感の確認に終わらない要素も多々含まれている。おそらくその根本には、クリス・ハートが言う日本の流行歌の文化的雑種性があるだろう。「紅白」というテレビ番組が保ってきた活力の源は、意識的かどうかは別として、そうしたポピュラー音楽の雑種性が持つエネルギーを取り込む旺盛な貪欲さにあるように思われる。

つまり私たちは、「日本人だなあ」という気持ちに浸っている時に、実は「世界」に触れてしまっていることもあるのではないか。本稿では、そのような観点から「紅白」を中心にテレビと流行歌の関係をたどり、そこから見えてくるテレビ、日本文化、そして世界の関わりについて考察してみたい。


太田 省一(社会学者)

1960年生まれ。
東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。
専門はテレビ文化論。テレビとその周辺の文化についての研究を行なう。著書に『アイドル進化論』(筑摩書房)、『社会は笑う・増補版』(青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)など

 

大乗化する茶の湯

岡本 浩一

(東洋英和女学院大学人間科学部教授・裏千家淡交会巡回講師)

茶道成立と発展の概要

わが国での茶の歴史は古く、最近の研究では平安初期まで遡るだろうと考えられている。平安時代には、主に儀礼を通して宮中や密教寺院を中心に茶が広く栽培され、贈答品としても拡がりを見せていたことがわかっている。しかし、茶道界に伝わる長い伝承では、茶の種と茶具をもたらしたのは、後に「喫茶養生記」を書くことになる留学僧栄西の宋からの帰朝(1191年)だったと言われてきた。栄西が将軍源実朝の重い宿酔いを抹茶によって治し、茶の効用を講じた「喫茶養生記」がきっかけとなり、茶が幕府の保護を受け始めたと伝承されている。

抹茶と臨済宗の関係が密になったのは、さらに後、1246年に来日した蘭渓道隆によって成立した臨済宗楊岐派が修業上の清規のなかで茶礼を重んじたためであっただろうと考えられる。

その種の伝承によれば、茶の源初の点前は、足利義政の眼前で茶を点てる方式として、同朋衆の能阿弥によって確立された。この点前は、唐渡りの台子を用いて、すべて唐渡りの道具を用い、唐物茶入で唐物茶碗に茶を点てるという贅を尽くした点前であった。これが、義政の東山山荘にちなんで「東山茶湯」と呼ばれることとなる茶湯の最初のありかただった。

少し遅れて、奈良の珠光が、道具の組み合わせの一部に粗末な和物道具を採用し、道具賞玩の場であった茶会を、精神性の高い交流の場としようと試みた。能阿弥の紹介によって珠光の茶湯に接した将軍義政が、珠光のパトロンとなった。珠光の茶を「奈良茶湯」と呼ぶ。茶席の侘びの思想として、珠光は「月も雲間のなきはいやにて候」という言葉を残している。

奈良茶湯の試みをさらに拡大し、和物道具のみによる茶会を精神の交流の場として称揚したのが、千利休である。その侘び茶の思想が、当時の新興階級であった武士階級の思想に適ったので、武士に広く受け容れられた。織田信長、豊臣秀吉を初めとする治世者たちが、侘びの思想と侘びの美観に憧れていたことが、収集した道具にはっきりとうかがわれるのである。

徳川時代になると、茶道は武士階級に広く広がった。大名家への将軍行幸時の饗応の規矩が茶の湯になったので、大名達は競って著名な茶匠を藩の茶頭として招聘した。幕府の普請事業を指揮した小堀遠州や片桐石州を祖とする遠州流、石州流がそれぞれの藩元で多くの派を生み、美観にも多様性が生まれたが、利休賜死を克服した直系の三千家の侘びの美観の理解と体現を多くの人が憧憬したのである。


岡本 浩一(東洋英和女学院大学人間科学部教授・裏千家淡交会巡回講師)

1955年生まれ。
東京大学大学院社会学研究科第一種博士課程修了。
文部科学省政策評価有識者会議委員、原子力安全委員会専門委員、内閣府原子力委員会専門委員を歴任。専門は社会心理学。著書に『リスク心理学入門』(サイエンス社)、『リスクマネジメントの心理学』(共編、新曜社)、『組織の社会技術シリーズ全5巻』(共著、新曜社)、『一億人の茶道教養講座』(淡交社)など多数。

 

二つのキリスト教世界
ー ウクライナ危機の文化論的起源

下斗米 伸夫

(法政大学大学院政治学研究科教授)

はじめに

マレーシア航空MH17便をきっかけとして、ウクライナ危機は国際世論を巻き込んでの紛争へと至った。7月はじめには多少収まるかに見えかけたこの危機だが、いまや制裁合戦の応酬によってグローバルな対立への岐路に立っている。折しも第一次世界大戦開戦100周年にあたるタイミング、「八月の砲声」ではじまった当時と同様、予期しなかった紛争の展開である。意図せざる事件の連鎖によって紛争がエスカレートしてきている点で、第一次世界大戦との類比は可能かもしれない。

そうでなくともヤヌコビッチ体制を実力で打倒した2月のマイダン(広場)革命によって決定的局面を迎えたウクライナ紛争は、3月のクリミア併合、4月以降の「ノボロシア」(東南ウクライナ)での反マイダン派の決起とこれに対する「反テロ作戦」という名の内戦という展開によって危機の水位はますます上がっていた。

それでも8月末に「新ロシア」へのロシア軍の限定介入でそれまで攻勢をかけたウクライナ軍が敗北、両国とOSCE、東部武装勢力とが9月6日ミンスクで停戦に合意した。これによって舞台は「軍事」から「外交」へ移ってきたように思われるが、予断は許さない。なかでもウクライナ軍の犠牲は大きく、これまでの半年の「反テロ作戦」で1万人から1万2000人がなくなったと推定されるが、アフガニスタンでのソ連軍の犠牲、公称1万4000人と比較すればその敗北ぶりは明らかだ。今回の合意のきっかけとなった8月末のイロバイスクの戦いでは100~200名が亡くなったとされる。

ウクライナ問題の国際的側面も同様だ。ロシアがウクライナ問題を、かつて西ウクライナで反共産主義で活動したネオ・ファシズム勢力を動員しての西側支配の強化、とくにアメリカやNATOの支配を非難すれば、欧米の主要メディアは、ウラジーミル・プーチン大統領をソ連=ロシア帝国復活を目指す指導者とみなし、新冷戦的な「封じ込め」が必要だと説く。双方ともそれ相応の虚実を交えた「物語」をつくり、これに基づいた情報戦をくりひろげる。

もちろん米欧は直接軍事的手段での関与までは考えてはいないが、その分金融からエネルギーといったレベルでの制裁が亢進、世界経済への影響も懸念される。アメリカの代表的ロシア専門家のトーマス・グラハムは、オバマ政権はウクライナで何を達成しようとしているのか、必要なのは「政策」だがこれがないと批判している。このような紛争のスパイラルな拡大過程で、東西双方が何を目標としているのかが全く問われないまま、ひたすら戦術的にエスカレートしている。


下斗米 伸夫(法政大学大学院政治学研究科教授)

1948年生まれ。
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。
法学博士。成蹊大学法学部教授、朝日新聞客員論説委員、日本国際政治学会理事長などを歴任。専門は比較政治、ソ連政治史。日ロ関係著書に『アジア冷戦史』(中央公論新社)、『日本冷戦史』(岩波書店)、『モスクワと金日成』(岩波書店)、など。

 

ウクライナ・アイデンティティ
ー その多様性と雑種性

アンドリー・ポルトノフ

(ベルリン・フンボルト大学客員教授)

キエフの親ヨーロッパ派の抗議活動(ユーロマイダン運動)、ロシアによるクリミア併合、そしてドンバス地方(ドネツク、ルガンスク両洲)東部で続く戦争によって、ウクライナという国そのもの、そしてその対ロ関係、内部分裂やアイデンティティのあり方は、世界から注目を集めることになった。国際メディアや世界の学界の言説では、ウクライナはロシアと西側諸国との単なる戦場として描かれている。だが、そのようにウクライナを描くと、ウクライナの現在の状況をもたらしたウクライナ自身の歴史への考え方を無視することになり、ヨーロッパで現在起こっている暴力的危機の複雑さを深く分析することが出来なくなってしまう。

ソ連崩壊後のウクライナは「国民国家へと変容しつつある国家」、「脱植民地化された国家」、あるいは「文明の分裂した社会」として概念化されてきた。こうした本質主義的な説明では、ウクライナにおける、きわめて興味深い広範な社会の姿がぼやけてしまう。たとえば、ポストソ連時代におけるアイデンティティ形成(それにはウクライナの市民的・政治的アイデンティティの出現も含まれる)のダイナミクスや、それをめぐる論争がある。また、都市と村落との言語習慣の相違もある。ロシア語を使用する集団(しばしば誤って単に「ロシア人」として描かれてしまうのだが)の内部の政治的・文化的態度の豊かな多様性もある。そして、一般に「東ウクライナ」、「西ウクライナ」という概念があるが、そのなかでも様々な地域独自の記憶がある。

本稿では、上述した諸側面に触れるとともに、歴史や言語の問題に関する公的なコンセンサスがないことが、多元主義的な諸要素の保持にいかに役立ってきたか、そして、複数の歴史的記憶が存在し、少なくとも四種類の教会(カトリック教会と三つの正教会)が「国民の教会」を自認し、二言語が存在する(ただし両者を隔てる明確な地理的な境界線がない)国家の安定化要因として、コンセンサスの欠如がいかに役立ってきたかを明らかにしよう。さらに、ポストソ連時代のウクライナでの統合と分裂のダイナミクス、ならびに、ウクライナ・ロシア関係、およびロシアの対ウクライナ政策にとって、そのダイナミクスがいかに重要であったかを論じる。


アンドリー・ポルトノフ(ベルリン・フンボルト大学客員教授)

1979年、ウクライナ生まれ。
ポーランドのワルシャワ大学でカルチュラルスタディーズ、ウクライナのドニプロペトロウシク大学で歴史を学ぶ。
現在は、キエフのウェブサイトHistorians.in.ua の編集主幹。キエフとベルリンに在住。専門は中・東欧の歴史、思想史。著書にUkrainian Exercises with History(in Russian, 2010)、Historians and Their Histories(Iin Ukrainian, 2011)など。

 

鈍牛・哲人宰相と知識人たち
ー 大平総理の政策研究会をめぐって

宇野 重規

(東京大学社会科学研究所教授)

はじめに

1978年12月、大平正芳内閣が発足した。翌年1月25日の施政方針演説の冒頭で、大平首相は次のように述べている。

戦後30余年、我が国は、経済的豊かさを求めて、脇目も振らず邁進し、顕著な成果を収めてまいりました。それは、欧米諸国を手本とする明治以降100余年にわたる近代化の精華でもありました。(中略)しかしながら、我々は、この過程で、自然と人間との調和、自由と責任の均衡、深く精神の内面に根ざした生きがい等に必ずしも十分な配慮を加えてきたとは申せません。今や、国民の間にこれらに対する反省がとみに高まってまいりました。
この事実は、もとより急速な経済の成長のもたらした都市化や近代合理主義に基づく物質文明自体が限界にきたことを示すものであると思います。いわば、近代化の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったものとみるべきであります。

近代化から超近代へ、経済の時代から文化の時代へ。いささか気負った、抽象的な物言いに聞こえるかもしれない。しかしながら、以下述べていくように、大平は本気であった。この演説は大平の年来の問題関心をストレートにぶつけたものであり、彼は直ちに九つの政策研究グループからなる「大平総理の政策研究会」を発足させた。「田園都市」「環太平洋連帯」「文化の時代」といった研究テーマは大平自身のイニシアティブの下で決定され、梅棹忠夫、内田忠夫、大来佐武郎ら各グループの議長の多くも、大平の指名によるものであった。まさに首相肝いりの研究会であり、大平自身、熱心にこの研究会に参加して、若手・中堅の学者や官僚たちの議論に耳を傾けたという。

この研究会は1980年の大平の急死により、政治的にはほとんど実を結ぶことはなかった。生前に大平のもとに届いたのは三つのグループの報告書だけであり、多くは彼の死後にあわただしく取りまとめられた。後に、その一部が中曽根康弘首相によって取り上げられたものの、後述するように、その間には大きな違いがある。大平の試みは、それ自体としては、不発に終わったと言わざるをえない。

とはいえ、この研究会はけっして無意味ではなかった。第一に、この研究会は1970年代のオイルショックを乗り越え、ある意味で完成を迎えつつあった日本の戦後社会が本格的な転換期を迎えたという問題意識、あるいは危機意識によって立つものであり、そこで示された課題の数々はその後もけっして完全に克服されたとは言えないからである。中央集権の是正と地域社会の発展、脱物質主義的な価値や生き方の追求、新たな中間層の育成、情報化社会への対応、環太平洋時代の国際戦略…バブルとバブル崩壊後の「失われた20年」に翻弄された日本社会にとって、自らのあり方を根底的に問い直す際に、この研究会の議論は多くの示唆を与えてくれるだろう。

第二に、この研究会の事例は、政治家と知識人との関係を考える上で、きわめて興味深いものである。実際、近代日本の政治史において、時の権力者と知識人集団が、かくも大規模、かつ密接に接触、交流した例は珍しいのではなかろうか。その風貌や語り口ゆえに鈍牛ともいわれた大平首相であるが、多くの書物を繙き、自ら著作を残した知的な政治家であった。またクリスチャンとしての信仰を生涯もち続け、トマス・アクィナスの協同体思想についての卒論を書くなど、独自の価値観をもっていたことでも知られている。このような政治家と知識人の交流に、いかなる意味があったのか、長期的な視点から再考する余地があるのではなかろうか。

第三に、この研究会に集まった知識人の性格がそれ自体として興味深い。各研究グループの議長の多くが大正生まれの世代であったのに対し、幹事や研究員の多くは30代から40代の若手が集められた。その後、各省庁の中心となる人材が集められた官僚メンバーも興味深いが、知識人に関していえば、香山健一、佐藤誠三郎、公文俊平の3名が中核になって人選が進められたという。とはいえ、メンバーの専門や経歴は多様であり、必ずしも一枚岩であったわけではない。どのような知識人が、どのような思いでこの研究会に参加したのか、そしてそのことは、彼らの人生にどのような影響を与えたのか。

以上の視点から、以下、大平とその研究会について検討していきたい。


宇野 重規(東京大学社会科学研究所教授)

1967年生まれ。
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。
千葉大学法経学部助教授などを経て現職。専攻はフランス政治思想史、政治学史。著書に『政治哲学へ』(東京大学出版会)、『トクヴィル─平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ、サントリー学芸賞)、『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)など。

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