冒頭を読む

 

国籍という不条理

田所昌幸

(慶應義塾大学法学部教授)

国籍売ります

日本のパスポートは世界最強。カナダのとある民間企業であるヘンリー・アンド・パートナーズ(Henley & Partners)社の最新の格付けによると、日本人はシンガポール人と並んで世界の189カ国にビザなしで渡航でき、2位のドイツ(188カ国)、3位のデンマーク、イタリア、スペイン、フランス、フィンランド、スウェーデン、韓国など(187カ国)をわずかに上回って、第1位とされた。私自身も、海外の出入国検査で、日本国籍であるという理由だけで恩恵を蒙っているのであろう。パスポートの表紙を見せただけで「もう行っていい」という態度を採られた経験を何回もしたことがある。

世界を忙しく旅行する多国籍企業の社員などにとっては、移動が容易なことは仕事に直結する話なので、こういった指標を参考に都合の良い国籍を取得しようとする需要があるだろう。そしてそのためのコンサルティングは立派な商売になっている。もちろん海外旅行の容易さだけが国籍選択の基準ではなかろう。そのため、同社はさまざまな要素を勘案して、国籍品質指標(Quality of Nationality Index)を毎年作成している。それによると日本のランクは1位のフランスからぐっと下がって、クロアチアの次の29位とされている。

グローバルな国籍市場で人気銘柄は、たとえばマルタの国籍である。東地中海、イタリア南端のシチリア島から100キロたらずのところに浮かぶマルタはフェニキア人、カルタゴ人、ローマ人、アラブ人、そして聖ヨハネ騎士団など多様な勢力が交錯してきた歴史を持つが、19世紀以降ここを支配してきたイギリスから1964年に独立した。

人口わずか40万人あまりだがれっきとした独立国であるマルタは、2004年にはEU加盟も果たした。気候は温暖で、税金は低く、通貨はユーロで、英語も公用語の一つである。そしてこの国の市民となればEUのパスポートが取得でき、それによってヨーロッパ内はもちろん、世界中の多くの国にビザなし渡航が可能だし、EU内で自由に仕事に就くことができる。おまけにマルタは重国籍を認めているので、すでに持っている国籍を離脱する必要もないし、国籍を取得したからといってマルタに永住する必要さえもない。

ただし、マルタ国籍を取得するには政府に65万ユーロを拠出するとともに、35万ユーロ以上の不動産をマルタに保有すること、そして15万ユーロを政府認可の金融商品に投資することが義務付けられている。つまりマルタという国家は、国籍を115万ユーロつまり約1億5000万円で、販売しているのである。実はこのプログラムの作成そのものにも、上記のヘンリー社が関与していた。マルタ国籍は、類似のプログラムを持つキプロスなどより割安で、ブルガリアやギリシャよりも割高なものの、国籍の「品質」は高いので、ロシアや中国そしてアラブ産油国の富豪などが2番目、あるいは3番目の国籍として購入しているものと思われる。

かつては、便宜的な国籍を売却するこういったプログラムを大っぴらに実行していたのは、カリブ海の小国に限定されていた。しかしアメリカやカナダなどの大規模な移民受け入れ国でも、多額の投資と引き換えに永住権を優先的に与える制度が導入されるようになっている。また、21世紀になるといくつかのヨーロッパの国もこういった措置を導入するようになった。


田所昌幸 Masayuki Tadokoro
(慶應義塾大学法学部教授)

1956年生まれ。京都大学大学院法学研究科中退。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授などを経て現職。専門は国際政治学。著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(編著、有斐閣)など。

 

在日韓国人になる

林晟一

(評論家、高校教員)

ゴキブリ哀歌エレジー

ゴキブリにも異端と正統がある。日本の台所を悩ますゴキブリのうち、チャバネゴキブリは外来種とされ、日本固有種として認められるのはヤマトゴキブリである。大和民族たるもの、駆除するはあくまで前者としておきたいところか。

テレビ離れが進む中、独自路線を走るテレビ東京の「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦」シリーズが話題となった。日本各地のよどんだ池の水を抜き、積年のへどろを一掃するこの番組で、毎度あたかも敵の首級のごとく捕獲されるのが、ブルーギルやカミツキガメなどの外来種である。これらがいかに生態系を破壊してきたかが説明され、興味津々の近隣児童に支えられて悪役の駆除が進む。視聴者は、正義の実行を寿ぐ。

排外主義者はというと、「お散歩」とも称される街頭デモの中、在日韓国・朝鮮人の駆除を訴えてきた。我らが固有種の地を荒らす外来種を撃滅せん。自前の正義にあふれる彼らは、在日をゴキブリとたとえる反面、レイプしろとも煽る。先方のアジテーションにも混乱が見られるようである。

ヘイトスピーチやクライムにおいて、一方が他方をゴキブリとたとえるのはわりと一般的である。1994年のルワンダ虐殺の折、フツ族はツチ族をこう蔑んだ。2015年にはイギリスのコラムニスト、ケイティ・ホプキンスが対英移民をこう呼んで捨て、物議をかもした。

では、在日が公然とゴキブリにたとえられるようになる契機は何だったか―。それは、2002年を一つの起点とすることで大方の一致を見ている。この年の9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮を訪ねて行われた日朝首脳会談で、金正日国防委員長(当時)がかつての日本人拉致を認めた。

筆者をふくむ多くの在日にとって、この出来事が人生の岐路となった。

「9・17」の衝撃から国籍変更へ

2000年6月、北朝鮮と韓国が分離・独立して初めての南北首脳会談があり、朝鮮半島の雪どけという観測が在日コミュニティに広がった。02年6月には日韓共催ワールドカップがあり、一見すると日韓の友好ムードも深まった。もちろん、マスメディアによる友好の演出は実に表層的で、韓国有利の判定などをめぐって対韓不信・嫌悪の芽が生まれてもいた(清義明『サッカーと愛国』イースト・プレス、2016年、第1章)。とはいえ、ワールドカップに引き続くヨン様ブームで、韓流ドラマの純愛に幻想の快楽を覚えた人が続出したこともあり、日韓関係が目に見えて悪化する事態はやや先延ばしとなった。

当時「朝鮮」籍の大学3年生だった筆者は、もっぱら小泉訪朝後のてん末のほうに翻弄された。筆者をふくむ在日朝鮮人は、これ以後いわば敵性外国人として扱われやすくなったのである。それまで国交なき隣国を表象する際にまがりなりにも節度を保ってきたマスメディアは、意識の上で1億総拉致被害者となった国民の姿を反映し、娯楽要素ゆたかに北朝鮮への憎悪を助長しがちだった。

ちょうどその折、筆者の母が勤務していた在日企業が倒産し、一家は東京都立川市の会社寮から引越し先を探しはじめた。だが、マンションを貸してくれる大家が立川に見つからない。朝鮮籍?だめだめ、時勢が時勢だもの―。露骨に手をひらひらさせる不動産屋もあった。

東京の三多摩地方は在日への風当たりが強いと仄聞していたが、10軒近く断られるとは。母が口惜し泣きするのを前に、時勢、あるいは空気の前では人権などやわな価値にすぎないとわかった。最終的には住処を見つけられたが、その賃貸契約の際も日本国籍の保証人をつけることが条件とされたし、ポストには朝鮮名を掲げてほしくないと求められた。


林晟一 Seiichi Hayashi
(評論家、高校教員)

1981年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程中退。著作に「在日であることの意味」『中央公論』(2014年5月号)、訳書にドン・マントン&デイヴィッド・A・ウェルチ『キューバ危機』(共訳、中央公論新社)など。「ハフィントンポスト日本版」に寄稿している。

 

アメリカ人をやめた私
―重国籍の逆説

デイヴィッド・A・ウェルチ

(ウォータールー大学教授)

「トランプか?それとも税金?」

アメリカ国籍を放棄したと誰かに言うと、決まってこう訊かれる。答えは、「どちらでもない」だ。私がアメリカ国籍を放棄したのは、常々自分の学生に重国籍は逆説的な観念だと言っているので、自分が常々説教していることを実践するべきだと感じたからだ。カナダとアメリカの国籍をともに保有しているのは偽善だと感じたのである。以下この小論で、それがなぜなのかを説明しようと思う。

背景

私はアメリカ生まれで、合衆国憲法修正14条に基づき、アメリカで出生したことによって自動的にアメリカ市民となった。私の母はカナダ出身で、アメリカ人だった父が亡くなると、時を置かず家族でカナダに引っ越した。その時は私は11歳だった。

翌年のある日、母が帰宅してこう言った。

「おめでとうデイヴィッド!お前はカナダ人になった。これがお前の新しいパスポートよ」

どうして突然カナダ人になったのかわからなかった。私は未成年だったから、母はなんらかの帰化手続きをしたのだろうか。それとも母がカナダ人だから、私はもともとカナダ国籍を得る資格があったのだろうか?このあたりのことはまったくわからなかった。ともかくハッキリわかったのは、カナダのパスポートを得たからには、もう自分がアメリカ人ではないということだった。

どうやらアメリカの役人達も同じように思っているらしかった。トロント大学を卒業してハーバード大学の大学院に志願した際は、外国人学生の資格だった。外国人学生用のF1ビザを取得し、アメリカとの国境を越える際には、カナダのパスポートを持っていた。その時アメリカの出入国管理官からは、こう厳しく言い渡されたのを憶えている。

「いいか。キャンパスの外で、働いたりすることを考えてはダメだぞ。外国人が働くにはグリーンカードが要るんだからな」(もっとも、ハーバードに着いてすぐに留学生協会に加入しようと行ってみると、呆れられたこともあった。「どこから来たんだい?」と訊かれたのに、「カナダからです」と答えると爆笑になり、「ここは『留学生』協会なんだよ」と言われた。しかしこれは、別途議論するべきテーマだろう)

さて、ハーバードで4年たったある日、母が電話をかけてきた。

「もしもし、何?」

「デイヴィッド、座ってよくお聞き」

「いったいどうしたの?」

「ニュースがあるのよ」

「何?」

「実は、お前はまだアメリカ人なのよ」

私は驚愕した。どうして自分がアメリカ人なんかであり得ようか!アメリカ国務省は、留学生用の正真正銘のF1ビザを私に発行しているではないか。

どうやら、母は友人からの話で、数年前に合衆国最高裁判所が重国籍問題で、アメリカ国籍以外の国籍を新たに取得しても、それによってただちに国籍を喪失することにはならないという判決を出したことを知ったようだった。最高裁は、「市民権の喪失を確定するには、アメリカ政府はアメリカ市民権を放棄する意思のあることを証明せねばならず、他国への忠誠を表明することといった国籍離脱行為を自発的に行っただけでは不十分である」という判断を示したのである。言い換えれば、米国籍を放棄するには公式の手続きに沿って、国籍放棄の意図を一点の曇りもなくハッキリさせる必要があるということで、私が今回やったのもその公式の手続きなのである。

さて、話を戻すと、その後休暇で短期間オタワに戻ってから、再びハーバードのあるケンブリッジに行こうとした際、アメリカ国境の出入国管理事務所に立ち寄り、本当に自分がアメリカ市民なのかを直接訊いてみた。担当の係官はわからないと言って、同僚に声をかけた。彼らも皆頭をかいてわからないと口をそろえた。彼らは上司を呼んだが、その上司もしばらく考え込んだ末、「アメリカのパスポートを申請してみたらどうだ。もし発給されたら、アメリカ人だということだ」と答えた。

そこで実際やってみると、パスポートが発給されたのである。制度の裏をかいたようで、少しばかりスリルがあった。今やアメリカに意のままに入国し出国する権利がある。その気になれば、アメリカで自由に住んで仕事に就く権利もある。そしてカナダとアメリカの両国で、投票する権利もある。何か突然、二倍特典を享受できるような感じだった。しかしどこかおかしかった。もし私は依然としてアメリカ人なら、なぜアメリカ人だという気持ちがしないのだろうか?


デイヴィッド・A・ウェルチ David A. Welch
(ウォータールー大学教授)

1960年生まれ。1990年ハーバード大学大学院にてPh.D.(政治学)取得。トロント大学政治学部助教授、同教授などを経て、現職。国際関係論、国際紛争論。主な著書に“Painful Choices: A Theory of Foreign Policy Change”(Princeton University Press)、『日本の安全保障とは何か』(共著、PHP研究所)など。

 

韓国人がカナダ人になるということ

李承赫

(トロント大学政治学部講師)

韓国・仁川空港、2016年

カナダ人になってから初めて両親に会うために韓国へ戻ったときの気持ちを、はっきり覚えている。パスポートを韓国からカナダに変えたばかりのころで、私は初めて、空港の入国審査でそれまで慣れ親しんでいたのとは反対側の「韓国以外のパスポート保有者」のほうに行かなければならなかった。そこに立ってカナダのパスポートで6カ月間の入国ビザをもらったときのことを、私は決して忘れないだろう。特に、古いパスポートを最後にもう一度出すように言われ、そこに「VOID(失効)」のスタンプを押されたときのことを。

その数カ月前にカナダのパスポートを取得した後、私の中の何かが「もう踏ん切りをつけろ」、この避けられないプロセスをできるだけ早く終えて前に進めと言っていた。

一つの段階では、私は自分が下した決断の自己肯定として、この「儀式」を必要としていた。もう二度と後ろを振り返らないようにするためだった。なぜなら、カナダの市民権の取得は私の生涯のなかで最も困難な決断の一つで、韓国の市民権の放棄を求められることを意味していたからだ。私はこの決断を下すまで長い間、カナダの永住者(アメリカにおけるグリーンカード保有者に相当する)のままだった。市民権とパスポートを申請する資格を満たしてからも数年間、完全なカナダ人になる最後の一歩を踏まずにトロントで博士課程を履修していた。

私にとって、新たな市民権を取得することは、単にパスポートを変えること以上の意味合いがあった。その「もう後戻りできないところ」まで行ってしまったら、これまで当たり前に思っていた自分のアイデンティティの大きな一部分を失うことになるのではないか。私はそんな不安をしばしば感じていた。それまでの韓国人としての大事な思い出が薄れてしまう、あるいは完全に消えてしまうのではないか、と。何よりも、その最後の一歩を踏み出す自分を思い浮かべると必ず、私の中の奥深くに何か不道徳で悪いことをしているかのような罪悪感に似た何かが出てきていた。

多くの韓国人が自由に海外移住し、外国の市民権を得ているこのグローバル化した世界にあって、自分だけが考え過ぎで昔気質だったのかは、私にはわからない。あるアジア人の友人が似たような経験をしたが、その罪悪感は「アジア的なもの」かもしれないと言ってくれたのを覚えている。この友人は考える材料を与えてくれたが、実際にその彼の言う通りだったのか、今でも私にはわからない。しかし結局、私はカナダ人になる最後の一歩を踏み出し、自分のパスポートを変え、韓国の市民権を放棄した。

本稿は、私が自分の経験を通して市民権の問題をどのように捉えるようになったか、そして最終的に自分自身とどう折り合いをつけ、民族/国民意識と市民権(国籍)を同一視する韓国の文化的遺産とどのようにして決別したか、個人的な省察をまとめたものである。私は不思議な巡り合わせでイスラエルにいたときに、その二つが切り離されうるということをようやく見つけ出したことで自分自身が納得し、ジレンマを解消することができた。自分の民族/国民意識と市民権の両方を別々の形で大切にし、前者に対する誇りを失うことなく決断を下すことが可能になったのだった。


李承赫 Seung Hyok Lee
(トロント大学政治学部講師)

1975年、ソウル生まれ。延世大学校政治外交学科卒業。早稲田大学大学院政治学研究科で修士号取得。カナダ・トロント大学大学院政治学研究科で博士号取得(国際政治学)。カナダ・ウォータールー大学・バルシリー国際関係大学のJapan Futures Initiativeプロジェクト研究員とウォータールー大学付属レニソン大学東アジア学部専任講師、ヘブライ大学トルーマン平和研究所ポスドク・リサーチ・フェローを経て、現職。

 

カジュアルなカナダ人
―我らの軽い市民権とアイデンティティ

アンドリュー・コーエン

(カールトン大学教授、ジャーナリスト)

今日の世界において、市民権とは何を意味するのか。その権利と責任は?それはどのような恩恵をもたらし、どのような義務を求めるのか。ある国の市民であるということと他の国の市民であるということは、誇り、目的、愛国心という情緒的な意味でどのように異なるのか。世界の一部の国の人々にとって、市民権は今でも帝国の残り火、文化的優越性の象徴であるのか─古代の世界におけるギリシャ人やローマ人、後世のイギリス人やフランス人、20世紀の日本人やロシア人がそうだったように。それとも、今日の市民権は帝国主義後の時代の理念である民主主義、自由、人権、法の支配、多様性、自由市場の称揚であるのか─21世紀のアメリカやEU(欧州連合)の市民にとって、最良の形としてそうであるように。

市民権は血統と帰属の意識であり、人々と土地に対する愛着心だ。市民権とは地理、歴史、人口でもある。それは土地に対する崇敬の念とともに始まる。ロシアのステップ(大草原)、ブラジルの熱帯雨林、中国の砂漠、イラクの湿地帯がそうかもしれない。1940年に書かれたアメリカ讃歌「わが祖国(This Land is Your Land)」で、フォークシンガーのウディ・ガスリーは「カリフォルニアからニューヨークの島まで、レッドウッドの森林からメキシコ湾の海まで」広がる大陸の国について歌い上げている。ガスリーは歌う。「この地はきみとぼくのためにつくられたんだ」と。

しかし、市民権は土地とつながりのあるものであるのと同様に、そこに暮らす人々─その伝統や慣習、制度─を敬うことでもある。これらが人々を一つの国にする。そこに属することを人々は誇りにする。どのような国でも、人々と土地が今も市民権の柱であることは変わらない。

カナダにとって、市民権の意味は他の国々よりも微妙で複雑だ。カナダは帝国をもったことがない。むしろ、この国は1867年にイギリスの領地として産声を上げた。その最初の80年間、私たちの父祖はカナダ人ではなくイギリス人になることを教えられた。カナダは領土を征服することも植民地をもつことも、世界を教化するという使命ももたなかった。輝かしい国の物語もなかった。カナダ人?カナダ人とは何者だったのか。

二度の世界大戦に兵士を送り込み、独自の外交機構を設けた後の1946年に議会がカナダ市民権法を成立させるまで、カナダ人は明確な形でカナダ人ではなかった。彼らは出生や結婚、死亡に際して「イギリス人」として登録されることにいら立ちを感じていた。パスポートに「イギリス臣民」のスタンプが押されることに憤っていた。

カナダの憲法にあたる英領北アメリカ法はイギリスの法律で、イギリス議会の承認がなければ改正できなかった(1982年まで)。カナダの終審裁判所はロンドンの枢密院司法委員会だった(1949年まで)。国民精神を形成する歴史的な坩堝となる独立戦争や内戦、外国の侵略がないなかで、カナダ人が自分たちをカナダ人と見なすことは難しかった。カナダ市民権法は「カナダ人を構成するものの定義を法律に組み入れようとした」と、その起草者のポール・マーティン・シニア元外相は記している。

当時の論争の焦点は、居住や帰化、国籍離脱に関する規定ではなかった。あるいは投票権、国の保護の下での財産の保有や移動、発言の自由でもなかった。それよりも理念的に「市民権は国の運命や将来に全面的なパートナーシップをもつ権利である」と、マーティンは説いていた。つまり市民権とは願望であり、国民形成に関わるものだった。カナダにおいて、それは今も変わらない。しかし、市民権を法制化することと、実際にそれが生み出されることは必ずしも同一ではない。国の神話を欠くなかで、カナダにおける初期の市民権の概念は、カナダ国歌「オー・カナダ」の歌詞にある「我らが故郷、我らが祖国」への愛着におおむね限定されていた。そして、その絆はおおむね地域的だった。


アンドリュー・コーエン Andrew Cohen
(カールトン大学教授、ジャーナリスト)

カナダ・ケベック州モントリオール生まれ。マギル大学で政治学専攻、カールトン大学大学院でジャーナリズムと国際関係を学ぶ。ジャーナリストとしてThe Ottawa Citizen、Time、The Financial Postなどで活躍していた他、ケンブリッジ大学やドイツ国際安全保障研究所で客員研究員を務めた。主な著書に“The Unfnished Canadian: The People We Are”(McClelland & Stewart,2007)や“Two Days in June: John F. Kennedy and the 48 Hours that Made History”(Signal, 2014)などがある。

 

英国人にさせられた日本人

鈴木章悟

(英国マンチェスター大学准教授)

はじめに

グローバル化が進み人の移動が活発化する中、日本国外に生活の拠点を移す日本人が増え続けていることはもはや議論の余地のないところであろう。日本人の国外移住はいわゆる「グローバル化」以前もそれなりの規模で進行しており、戦前の日本は南米だけでも23万人の移民を送り出し、第二次世界大戦中はアジアへの集団移住が活発に行われていた。1950年までに海外や日本の旧植民地から日本に帰国した邦人の数はおよそ600万人に達した、という報告が示すように、戦前の日本人の国外永住の規模は決して小さくはなかったのである。移民事業は戦後も継続され、「1956(昭和31)年から毎年、6,000人台、7,000人台と増え続け、1960(昭和35)年に8,386人とピークを迎え」る。しかし、戦後行われた日本人の海外移住は海外居住者の帰国及び元日本兵の復員の結果としてもたらされる人口の膨張を危惧した日本政府によって推奨された側面もあり、日本の高度成長期に伴う雇用機会の増加等の結果、国外への移住は減少した。

だが、近年のグローバル化に伴う国外での雇用機会の増加、航空輸送の発達等により、国外に生活拠点を移すことが比較的容易になった結果、海外在留邦人の数は過去30年の間に大きく増えている。外務省領事局政策課の調査によれば、1989年(平成元年)には586,972人(うち長期滞在者340,929人、永住者246,043人)であった海外在留邦人は2017年(平成29年)には2.3倍増の1,351,970人(うち長期滞在者867,820人、永住者484,150人)となっている。

加えてグローバル化は国境を越えた人の往来も促進する効果もあり、結果として国際結婚の絶対数も増加している。国外への移住が外国籍の伴侶との出会いに必ずしも結びつくわけではないことは当然だが、2017年の国外永住者の数が1989年の1.96倍に増えている事実は国外で家庭をもつ日本人の数の増加をある程度は反映しているものと思われる。同様のことは日本国内にもあてはまり、国内における国際結婚の割合は2016年時点で3.4パーセントであり、比率としては決して高くはないものの、筆者が生まれた1975年(昭和50年)には5000件強であった「夫妻の一方が外国人」の婚姻件数が2016年(平成28年)には4倍近くの2万件強に増加していることは注目すべきことであろう。

これらの統計に見られる在外永住者及び外国人との婚姻の増加は、日本と外国に繋がりをもつ子供(いわゆる「ダブル」)が今後とも増え続けることを意味している。日本は1984年の国籍法改正まで父系血統主義を採用しており、日本人の父親をもった「ダブル」の子供にのみ日本国籍が与えられていた。筆者はこの時期に日本人の父親と英国人の母親との間に生まれたので、出生時は日本国籍であり、英国籍ももった重国籍者ではない。他方、外国人の父親をもった「ダブル」の子供には、生まれながらにして日本国民となる道は閉ざされていた。同時に日本以外の多くの国も父系血統主義を採用していたため(筆者の母親の出身国である英国が国籍法を改正して母系血統主義を認めたのは1981年である)、「ダブル」の人達が出生時に重国籍状態になる可能性が相対的に少なかったのである。

1984年以降は日本でも母系血統主義が認められたため、日本人の母親をもつ「ダブル」の子供達にも日本国籍が与えられるようになった。同時に諸外国でも母系血統主義の採用が増加したことも相まって、重国籍者が増加し、22歳までに日本国籍を選択するか、日本国籍を放棄して外国籍を選択するか、という決断をしなくてはならない人達が増加した。近年における国際結婚の増加と国外永住日本人の増加は、このジレンマに直面する日本人が今後もますます増えることを示唆している。

本稿では、「国籍選択の時代」に関する考察として、出生・婚姻等様々な事情により日本と国外とに繋がりを持つに至った日本人がなぜ「国籍選択」という(場合によっては)非常に難しい選択に直面するのか、そして日本のように重国籍を認めない国の国籍を持ち、外国籍の取得が元の国籍の放棄・喪失を伴う場合、彼らがどのようなジレンマに立たされるのかを検討する。次になぜ日本と外国と繋がりのある人々が国籍を選択する(またはさせられる)のかを考察したのち、国籍選択が突きつけるジレンマを詳述し、そして国籍選択制度を維持することの意義を検討する。筆者は後述するように両親の事実誤認によって日本国籍を喪失し、国籍選択を自分の意思で行うこともできなかった、いわば国籍選択制度が突きつける様々なジレンマを経験した当事者であり、国籍制度の改正を求める当事者でもあることはこの際明記しておく必要があろう。最後にこの立場に基づいて国籍選択という、場合によっては非常に酷な制度以外の選択肢が日本にあるのかどうかについて若干の考察を行う。


鈴木章悟 Shogo Suzuki
(英国マンチェスター大学准教授)

1975年生まれ。2005年オーストラリア国立大学博士課程修了(国際関係論)。専門は中国外交、日中関係。主な著書に“Civilization and Empire: China and Japan's Encounter with European International Society”(The New International Relations, 2009),“International Orders in the Early Modern World: Before the Rise of the West”(Routledge, 2013)などがある

 

割当国籍論の可能性と限界

大屋雄裕

(慶應義塾大学法学部教授)

パスポートとその機能

たとえばいま日本のパスポートの表紙を開いたページには、「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」という日本の外務大臣からのメッセージが書かれている。私の身元を証明し、私の出入国の過程を記録し、たとえばそれを返納させることによって私から出国の自由を奪うことができるように私を管理する手段として活用されているだろうパスポートとは、しかし同時にその身元を日本という国家が保証し、私に対して適切に配慮することを日本という国家が他国に対して要請するための手段でもある。社会学者ジョン・トーピーが指摘しているのも、パスポートというシステムが持つこのような二面性である。

現代の国際パスポートは、何よりもまず、近代国民国家による合法的な移動手段の排他的な独占の主張のあらわれである。しかし、国家による管理装置であることが今日のパスポートの主要な機能だとしても、パスポートの機能はそれだけに限定されるわけではない。というのも、パスポートは、人間や領土に官僚的な支配を拡大するのみならず、他国の領域にいるパスポートの所持者に対して発行国が援助や救援をおこなうという保証を与えるからだ。すなわちパスポートの所持そのもの・・・・が、発行国の大使館ないし領事館が提供する援助やサーヴィスを利用する正当な権利の証明になる。

(ジョン・トーピー『パスポートの発明―監視・シティズンシップ・国家』藤川隆男監訳、法政大学出版局、2008年、254頁、強調原文ママ)

そしてこれは同時に、そのパスポートという書類によって証明されるもの、つまり我々の国籍・・が持つ二面性を示すものでもある。そもそも国家なり政府なりそれ自体が我々の生命財産安全といったものを保全するために生み出され、しかし我々に対して絶対的な権力を持って君臨することになるという二面性を持つことが図示されたのが、トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』の有名な表紙であっただろう。我ら一人一人の人間が集まることによって構成された巨大な怪物リヴァイアサンは、しかし同時に他のリヴァイアサンのもたらす危険から我らを守ってくれるような力強い存在でもある。そこには、ある国家によって管理されるという国家からの・・・意味と、ある国家により保護されるしそれを要求することができるという国家への・・意味が表現されているのだ。

パスポートという手段の持つこのような二面性が機能するのは、現在それが中心的な機能となっているだろう国際的な局面だけではない。その誕生時点においてはある国で国民が国内を移動することを管理する役割を期待されており、一部の国ではいまなおその状況が続いていることにも注意しておく必要がある―「18世紀のフランス国内を・・・移動する平民には、形式的には次の二種類の書類のうちからひとつを所持する義務があった。つまり、移動する人の出身地の村役場が発行したパスポート、あるいはいわゆる許可書・・・、すなわち地域の教会権力が誠実な人柄を保証した証明書である」(同36頁)。それが好ましからざる人物の首都パリへの流入を阻止するための手段、国民を統制する手段としての性格を持っていたことは、言うまでもない。だからこそそれは、フランス革命によってその管理主体と想定された王権が打倒され、後に移動の自由が基本的な諸自由の一つとして認められた際に、撤廃されることになったのだ。

旅行者に対するパスポート携帯の要求は、罪を犯すだろうというある種の予測を前提としている(……)。すなわち、旅行者はよからぬことをたくらんでいて、革命体制が受け入れ可能だと考える理由に反して、口実を設けて移動するだろうという予測である。(同53頁)

しかし物語はここで終わらなかった。やがて諸外国からの干渉などもあって革命が危機に瀕し、人々が社会の安定性に対する不安を感じるようになると、その活用が再び提唱されるようになったからだ。それを積極的に進めようとした論者たちは、以下のように主張したという。

パスポートは犯罪の推定を意味するどころか、フランスを旅行する人びとの安全を保障する(……)、国家権力が、個人の身元を示す何らかの独立した証明と、彼または彼女の所在を正当とする何らかの根拠を要求する権利をもつなら、これらの点を証明している書類をもつことで、旅行を希望する者はある程度の安全を得られることになるだろう。(同57頁)

ここで想定されている危険性の主体が、他の住民・・・・であることに注意してほしい。見知らぬ旅行者を警戒し、排除し、場合によっては暴力を加えることで身近の安全を確保したいと思っているのは個々の我ら国民なのであり、ここではパスポートが彼らに対して旅行者を守るための手段として期待されていることになるだろう。国家というものが単に他の国家に対してだけではなく、国民の多数者に対して一人一人の国民を守る保証人・・・としての役割を果たしていること、そのことを前提として近代社会における我ら市民の相互信頼が機能していることを、ここで確認しておこう。


大屋雄裕 Takehiro Ohya
(慶應義塾大学法学部教授)

1974年生まれ。東京大学法学部卒。同大学院法学政治学研究科助手、名古屋大学大学院法学研究科助教授などを経て現職。専門は法哲学。主な著書に、『裁判の原点─社会を動かす法学入門』(河出書房新社)、『法哲学と法哲学の対話』(共著、有斐閣)、『自由か、さもなくば幸福か?』(筑摩書房)などがある。

 

無国籍を経験して

陳天璽

(早稲田大学国際学術院教授、無国籍ネットワーク代表理事)

「すべて人は、国籍をもつ権利を有する。何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、またはその国籍を変更する権利を否認されることはない」(世界人権宣言第15条)

国籍は誰でももつべきものか?

誰にでも名前があるように、誰でも国籍をもっていて当然だと思っている人は多い。

世界人権宣言においても、国籍をもつことは基本的な人権であると謳っているだけに、国籍は、誰でももっているものだと考えられがちである。しかし、それは果たして本当だろうか。

多くの人にとって国籍はまるで空気のようなものであり、毎日の生活のなかで国籍を意識することはあまりない。当然ながら、国籍について考える機会も皆無に等しい。

ようやく近年になって、議員の重国籍問題や、在外日本人が外国国籍を取得した場合に日本国籍を失うとされる国籍法第11条1の違憲訴訟など、日本でも国籍に関する問題が話題にあがるようになってきた。実際、グローバル化が進み海外に渡航する機会が増え、パスポートを取得したり、飛行場の入国審査で、少なからず自分の国籍を意識する機会もある。また、近年は国際結婚や海外で出産するケースも増え、身近にも重国籍の人がいるのが思い当たるようになってきたのではないだろうか。

重国籍の人が存在することはだいぶ知られるようになったが、無国籍の人が存在することはまだまだ周知されていない。たとえ、無国籍者が存在することは知っていても、正しく理解しているとも限らない。多くの場合、無国籍者を「法の規範から外れた人たち」であり、「厄介」で「怪しい」、もしく「可哀相」といった、どちらかといえばマイナスなイメージを抱いている場合が少なくない。そうした偏ったイメージの結果、就職や結婚など、さまざまな権利を奪われ、尊厳を害されている無国籍の人々は多い。

現代の人々は、近代に生み出された国家を基盤とした価値観に慣れ親しんでいるため、こうしたイメージを持ってしまうのも、やむを得ないのかもしれない。しかし、人の権利や尊厳は、国籍の有無で分類されてよいはずはない。

無国籍を経験した立場からすると、現代社会は、国籍という制度自体が内在している欠陥や差別意識を疑問視せずに、そのまま受け入れてしまっているように思う。むしろ、国籍という制度自体が、時代遅れとなっているのではないだろうか。グローバル時代に生きる私たちは、もっと先に進んでいる。

無国籍の選択

国際関係の変動の影で、私は生まれて間もなく無国籍となった。これまでの人生の大半を「無国籍」と明記された身分証明書とともに生きてきた。中国人の両親のもと、横浜中華街に生まれ育ち、日本の文化も中国の文化も当然のように吸収し、自分の一部としてきた。父は1950年代に学生として日本に移住し、その後、1964年に、母は5人の子どもを連れて台湾から日本に移住した。2人は、子どもたちの将来を見据え、日本を終の棲家と決め、仕事や子育てに奮闘した。家族たちが日本での生活に慣れ、生活も安定した頃、私は生まれた。

そんな小さな家族の命運を揺るがすであろうとは、知る由もなく、国家間では外交交渉が行われていた。1972年、日本は中華人民共和国と国交正常化する一方で、中華民国・台湾との国交を断絶した。当時、我が家も含め、日本に在住していた5万人ほどの華僑の多くは、それまで日本が認めていた中華民国の国籍を持って暮らしていた。しかし、この外交関係の変動により、日本が中華民国を認めなくなるという。人々は動揺した。「自分が持っている国籍がもう日本では認められなくなる。そうしたら、自分たちの財産はどうなるのだろう?」、「このパスポートはどうなるのか?どう移動することになるのだろう?」、人々は不安を募らせた。さまざまな噂も飛び交った。

当時、中華民国国籍を証するパスポートを所有していた人たちは、中国人として、いままでのように日本で暮らしていくために、中華民国国籍を維持し、国交のない国の国民として生きていくのがいいのか、もしくは、国籍を中華人民共和国に変更し、国交のある国の国民として暮らしていく方がいいのか、あるいは、日本国籍に帰化し、日本の国民として暮らしていくのがよいのか、選択を迫られた。


陳天璽 Chen Tien-shi
(早稲田大学国際学術院教授、無国籍ネットワーク代表理事)

1971年横浜中華街に生まれる。筑波大学大学院国際政治経済学博士。ハーバード大学フェアバンクセンター研究員、日本学術振興会(東京大学)研究員、国立民族学博物館准教授を経て現職。専門は国際コミュニケーション論、移民・マイノリティー研究、文化人類学。著書に『華人ディアスポラ―華商のネットワークとアイデンティティ』(明石書店)、『無国籍』(新潮社)、『パスポート学』(共著、北海道大学出版会)など。



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