WEB エッセイ/レポート

37 非正規の思考 周東 美材

 スマホで動画を見る、ゲームをする、音楽を聴く、服を買う、友達とメッセージをやりとりする、SNSのタイムラインを追いかける――。これらは、いま、大学教員が講義のなかで実際に目にしている学生たちの姿である。何百万円も「課金」している授業よりも、「無料」で観られる動画のほうが関心事というわけだ。「面白い授業をすれば学生は聞いてくれる」という正論を筆者も信じてはいるが、授業開始前からイヤホンをしている学生に声は届くだろうか。
 もちろん、いつの時代も「不真面目な学生」はいる。だが、教員の身体と人格が、大学が、そして書物が、スマホの前に立ちすくむようになったのは近年の現象である。思考や知的コミュニケーションのあり方は、メディア論的な変容を遂げてしまった。これを嘆いても仕方がない。では、どうすれば思考や知的コミュニケーションは活性化するのか。デジタル化した世界は、学びの場の再編成を要請している。
 今回の堂島サロンのテーマである「ネット時代の学知のゆくえ」は、河野通和氏を講師に招き、ネット時代における学びの可能性について議論を交わした。河野氏は、中央公論社や新潮社の編集者として雑誌『中央公論』や『考える人』などの編集長を歴任、現在は「ほぼ日の学校長」を務めている。
 「ほぼ日の学校」は、コピーライターの糸井重里が主宰するウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」が運営する学校で、「やさしく、つよく、おもしろく」をモットーに2017年に始動した。ほぼ日の学校では、シェイクスピアに歌舞伎、万葉集にダーウィンと「古典」が扱われ、第一線の講師陣が99名の受講生の関心に応える。ほぼ日の学校のホームページには、「心、気持ち、魂といった深い部分でおもしろがれるような時間。一方的な伝達ではなく、双方のやり取りによって互いのたのしさが相乗するような経験」が謳われ、講師・受講生双方の知的な喜びと感化が目指されている。
 双方のやり取りとおもしろさが重視されるため、受講生の主体的な参加を促すしかけが意識的に取り入れられている。たとえば、『真夏の夜の夢』を演じたり、受講生が詠んだ短歌を俵万智が批評したり、万葉集をめぐる修学旅行に出かけたりなどといったワークショップが開催される。また、教室の設えや小道具にも工夫を凝らし、受講生の気持ちをハイにするためのアトラクティブな空間演出を施している。参加と演出がもたらす演劇性の高さによって、ほぼ日の学校の受講生は身体的に学びの場へと巻き込まれていく。
 このような身体性の前面化は、学びの場のなかに熱気と圧力を生じさせる。受講生は講師から知的情熱を受け取り、それに感染しながら期待と好奇心をもってさらなる知識を貪欲に求めるようになる。
 こうした情熱の高まりは、受講生たちのあいだで自然発生的なコミュニティーを作り出す。授業後に近くで集まって感想戦をするグループができ、それがSNSを介してつながり、卒業後も交流が続いてリユニオンの機会が設けられる。そうした学びの場の醸成は、ひとりひとりの生活のなかに学知を取り戻す営みでもあるだろう。
 雑誌編集者からほぼ日の学校長への転身を果たした河野氏は、「畑の違うとこに移りましたよね」と言われることも多かったが、「自分自身としては本質的にはあんまり違いというのは感じなかった」と語る。講義の計画を立てることは雑誌の特集を考えることと似ており、テーマ、切り口、キャスティング、目次、ボリューム感、ビジュアル要素などをどのようにアレンジするかという点は編集者としての感性とつながっていたからだ。編集者のころに「ふだん使っていた頭の筋肉を講義というライブの場に置きかえて展開する」、「文字を読んでくれる読者のかわりにその場で受講してくれる受講生が今度は相手という違いはあるけれども、やろうとすることはあんまり変わらない」と河野氏はいう。河野氏にとって、編集者から学校長へという転身は地続きだった。
 「書物からライブへ」とは反対に、「ライブから書物へ」という逆のベクトルも河野氏は企図していた。「やっぱり最終的には私は本に人を連れていきたいという思いがある」と河野氏は熱を込める。「出版社がSNSをやってみようがいろんなイベントをやってみようが、なかなかブレークスルーが見えてこないなかに、違うところで違う人たちに呼びかけをしたら、今までちょっと本から遠のいていた人たちにそもそも潜在的にあった向学心とか好奇心が刺激されて、あ、本を読んでみたらおもしろいなとつながっていくなということを感じている」というのが、河野氏の実感だ。ほぼ日の学校の試みは、書物へと「つなげるやり方」だったのである。
 ネット時代において書物へとつながっていくための媒介として、身体的でライブな空間がせり出してくる。書物と印刷技術は、世界の観察・理解と知の創造、専門知の相互参照と体系、大学の制度化といった旧来の知のシステムのトップに君臨してきたが、かなりの部分に綻びがみられるようになった。とりわけ、冒頭に述べたような大学における知への熱意と教育という側面で、その傾向は顕著だろう。しかし、河野氏の実践が示しているのは、ライブ性が潜在的な知性を刺激し、生活のなかで学び合うコミュニティーを生み出し、学びの場を再編成する契機となりうる、ということである。
 河野氏の講演をめぐって活発に展開された議論のなかでも、筆者が印象的だったのは鷲田清一氏の「非正規の思考」というキーワードだった。
 鷲田氏は「非正規の思考」をスケボーに例える。都市には正規の目的をもった設備・施設がたくさんある。たとえば、階段の手すりは身を支えるため、ベンチは座るためにある公共物であり、私物化してはいけないものである。だが、スケートボーダーたちは、本来の目的から離れ、手すりやベンチで軽やかに滑ってしまう。その非正規なもののなかには、格好良さと爽快で自由な解放感がある。
 しかし、そうした解放はそもそもの前提として、正規なものがなければ成り立たない。非正規なものだけがあればよいということにはならない。思考やアートの創造性は、正規のものと非正規のものとの緊張関係やバランスのなかで育まれていくのである。鷲田氏は、「一方で正規のものが中途半端に崩れてきているという。だから、正規のものはもっと正規のままでかたちがあって、それで、それに対してスケボーで遊べるようなもう1つの思考の、知性の自由みたいなものがあったとき、一番文化って豊かになるんじゃないか」と指摘した。

 河野氏の講演は、学びの場の再編成、書物と出会うオルタナティブな方法、そして、非正規の思考についての多くの示唆を含んでいた。そこで、筆者の経験を少しだけ記したい。
 東京・新宿二丁目の新千鳥街に「オカマルト」というブックカフェがある。店主・小倉東氏は、東京におけるドラァグ・クイーンの先駆者「マーガレット」として、第一線で活動を続けるパフォーマーである。また、小倉氏は、1995年創刊のゲイ雑誌『Badi』の編集にも携わり、言論界をリードした出版人としての経歴ももつ。そのような開拓者・小倉氏が2016年11月にオープンしたのが「オカマルト」だ。
 店には小倉氏が所蔵する1万冊を超える同性愛関連の雑誌・書籍のなかから、時期折々のテーマでセレクトされた書物400~500冊が並ぶ。図書館では見つけることのできない希少な歴史的資料、限定発行の書物、最新の研究書や文芸書など、エロから学術までが書棚で待ち構え、題字が客の視線を捉える。アドン、岩田準一、岩波講座現代社会学、上野千鶴子、売り専、HIV、江戸川乱歩、陰間、春日井建、奇譚、キリスト教、キンゼイ、緊縛、黒野利昭、女装、人権、新潮45、性教育、青土社、セジウィック、セックスワーカー、センダック、高橋睦郎、発展場、バトラー、BL、ヒジュラ、ベンサム、フーコー、PRIDE、ポリコレ、マーガレット・ミード、魔夜峰央、三島由紀夫、水の江瀧子、南方熊楠、李琴峰、リンゼイ・ケンプ、吉屋信子、四谷シモン――。
 デジタル化した時代のなかで、客は本とつながりを求めて集まり、店主や他の客と話を弾ませる。客の年齢やセクシュアリティは多様で、職業的にも研究、編集、教育、映画、テレビ、料理、水商売などを生業とする人から主婦、学生、出所したばかりの人まで実に幅広い。そして、性に関するアートや芸能、ジェンダーやセクシュアリティの理論・歴史の専門知、それぞれの個人的な経験や生きざまが、自由に、朗らかに語られる。その日集った人々のあいだでその都度その都度の小さな公共圏が生まれていく。ほぼ日の学校と同じように、ここにもライブな知的コミュニケーションが生まれる。
 「有用性」や「生産性」などという画一的な物差しが振りかざされてしまうとき、また既存の学びの場が硬直化していってしまうとき、このような安心して柔軟に思考することのできる場があることは尊い。既存の価値基準を問い直し、オルタナティブな基準を提示する可能性を秘めているのは、「非正規の思考」だ。筆者はここでの交流のなかで、これまでどれほど多くのことを学び、研究上のヒントと自由を得てきたかわからない。そんなことを考えている筆者にそっと角ハイボールを差し出す小倉氏は、なんとなく「やってみなはれ」と言っているような気がする。

周東 美材(しゅうとう よしき)

大東文化大学社会学部 専任講師
2014年度 鳥井フェロー



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