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36 必ずたまたまウサギの穴へ落ちるために 今井 亮一

 ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』には、アリスのこんな計算が出てくる――「えっと、4かける5は12、4かける6は13、4かける7は……あれ! これじゃいつまでも20にならない!」

 この一見ナンセンスな計算に理屈を通した研究がある。キーワードはN進法だ。私たちは普段10進法を使っているが、例えば時間は60進法だ。だから64秒=1分4秒は、十の位ならぬ六十の位でひとつ位が上がったと考えて圧縮すれば、「64→14」(60×1+4)と書ける。あるいはコンピュータでは、0~9の10個の数字にA~Fを加えた16進法を使うことがある。この場合、10進法の10ではまだ位が上がらず「10→A」となり、「11→B」から「15→F」まで続いて、16でようやく位が上がって「10」(16×1+0)となる。

 アリスは九九をしながら、18進法から始めて基数を3ずつ高めていると考えよう。4×5=20は18×1+2だから18進法では「12」。次は21進法にしつつ4×6=24だから「13」(21×1+3)。4×7=28は24進法だと「14」だ。この調子で4×12は39進法の「19」になる。だが次の4×13を42進法で表そうとすると42×1+10だから、コンピュータの16進法が10進法の10にアルファベットを使ったように「1A」となる。その後もずっと「1X」の形が続き、そう、いつまでも20にならない! アリスの言う通り!!

 5月24日に「「語る」ということ、「わかる」ということ」の題で行われた学芸ライヴは、独立研究者の森田真生氏が、理解することをめぐる哲学者トマス・カスーリス氏の2類型――IntimacyとIntegrity――を紹介して始まった。このイベントは経済学者の玄田有史氏をコーディネーターに、異なる分野から招かれたゲストがほぼ打ち合わせなしに議論するというもので、当日はまさに臨場感溢れる「ライヴ」として、様々なトピックが語られた。もう1人のゲストである作家・川添愛氏がさっそくこの2類型を自身の経験に引きつけていたように、簡単に言えばIntimacyとは「友人とのおしゃべり」にも似た親密な共感にもとづく理解で、Integrityとは一貫した原理を学ぶ科学的・抽象的な理解だ。現代社会ではIntegrityが圧倒的に優勢であり、実際その恩恵は大きい。だがIntimacyを忘れてしまっていいのか? これがゲスト2人が提起した問題意識のひとつだ。抽象的な理論を物語として語り共感させてくれる川添氏の著作や、数学を身体的な営みへ捉え返して語る森田氏の著書は、まさにその実践だろう。数学というIntegrityの極致と思われるような学問でさえ、数えたり測ったりという身体に密接したIntimacyと表裏一体である。10進法が主流なのも、両手で数えられることと関わっているだろう。

 さらに森田氏は、「マイナス1×マイナス1=プラス1」なんて、身体的な足すとか掛けるとかいった感覚から考えればナンセンスであり、ほとんど詩だと語っていた。例えば1袋6個入りのミカンを3袋といえば、感覚的つまりIntimacyとして6×3=18と分かる。だがマイナスにマイナスを掛けるとはそもそも想像しにくいし、しかも答えはプラスになるのだ。冒頭のアリスの計算も似ている。数学者でもあったルイス・キャロルは、記号的な操作が生みだす感覚的なナンセンスを、IntegrityとIntimacyのあいだのズレとして楽しんでいたのだろう。

 私は文学研究が専門なので、Intimacyの復権のように聞くと、まさに人文学の出番だと言いたくなるべきなのだろうが、正直、そう楽観的にはなれない。いわゆる文系は非論理的だと言われがちだが、もちろん人文学も学問としてIntegrityの性格を高めてきた。その結果、やはりともするとIntimacyがなおざりにされ、いささか不都合な事態が生まれていると思われるからだ。

 例えば私たちは、コンスタントに仕事ができることをほぼ無条件に「よいこと」だと考えている。だがこれは、出産で仕事を離脱する女性を無視しているし、もっと言えば、1カ月に1度ほど訪れる生理という女性の身体リズムも軽視している。週休2日制と自由に月8日休める制度では月間勤務日数がほぼ同じだが、前者を「自然」と捉える人が多いだろう。こういった無意識の男性原理を鮮やかに暴露したのが、フェミニズムの理論的成果だった。しかし、こうした考え方がIntegrityとして理論的に「完成」しすぎれば、もっぱら状況分析に使われる機械的操作へ近づき、Intimacyとしての理解へは至らない。IntegrityとIntimacyが手と手をとって与えたインパクトが薄れてしまう。

 玄田氏は古典が今なお力をもつのは、IntegrityとIntimacyが絶妙なバランスで組み合わさっているからではないかと話していた。Intimacyだけでは抽象的な理論が組み立てられず、Integrityだけでは表面的にしか伝わらない。玄田氏はさらに、そのバランスを得るには、「みんな」という普遍的だが顔の見えない相手ではなく、「誰かひとり」という個別的だが明確な届け手を想定することが大事なのではないか、とも。今や世界的人気を誇る『ふしぎの国のアリス』も、もとはルイス・キャロルが知人の娘アリスを楽しませようと語ったお話だった。

 上の話が情報の発信者側の問題だとしたら、受信者側の問題もある。森田氏は自身の子育てを引き合いに出しつつ、理解における偶然と必然という要素も紹介していた。子供にとっては全てが偶然だから、もしかしたら宙で手を離したリンゴも落ちないかもしれない。しかしだんだん、これは絶対に落ちると必然化されていく。学習とは偶然を必然へ統合し、カオスを減らしていく作業だ。だが必然化が進むにつれ、かえってそこに偶然が見えてくる。その偶然の分からなさこそ、次へのステップだ。ウサギの穴を落ちるアリスのように、リンゴと私が同時に落ちていれば、リンゴだって宙に留まって見える。

 恐らく必然化とは、論理的一貫性をもたせるといった意味で、Integrity的な営みだろう。一方そこに偶然が発生すれば、それは驚きにつながるから、Intimacyへの働きかけになるだろう。ではいかに偶然を必然的に取り入れるか? そこで玄田氏は「弱いつながり」の話を出した。すごく親しい「強いつながり」の相手では、共有されている知識が似ているため驚きがない。驚きは「弱いつながり」からこそもたらされる。こうして分からなさに触れたとき、新たな地平が拓かれる。

 研究という視点から自省すれば、これは自分の専門にタコツボ的にのめり込んでばかりではいけない、ということになる。だが、親しみあるものばかりでなく色々な情報に自分をさらすといった意味では、アカデミックな業界に限られる話では決してない。およそあらゆる情報が手に入るインターネットでも、見たサイト、買った商品、検索した言葉に応じて近しいものばかりがサジェストされる。「弱いつながり」へ開かれる道はむしろ狭まっているかもしれない。

 川添氏は、知識はつらいとき助けにならなければいけないと思うといった話から、その契機をIntimacyや偶然に求めていた。例えば病気の情報を知れば知るほど、人は不安になっていく。こうした情報がエセ科学も含め溢れているのが現代の不幸だが、藁にもすがる気持ちそのものは否定できないとき、IntegrityだけでなくIntimacyとしても伝わる医学知識や、体の不調と深刻な病気を必然的につなげるのではなく、別の可能性に開いて安心できるようになることこそ、助けになる知識だろう。先に挙げた働き方の例も、現状を必然と決めつけないことで、一部の抗ガン剤のように、定期的に短期の入院が必要な人びとの力になる変化をもたらすかもしれない。時に誤解されているが、フェミニズムは女性の役に立つだけではないのだ。

 病気の情報の蓄積は不安につながるが、自分に馴染みのある情報の集積は安心につながる。しかし、こうした「強いつながり」の居心地のよさを、新奇なことが起こらない退屈さへ転換することが必要なのだろう。もちろん「退屈」だと思うためには、まずは必然化、Integrity的理解を徹底しなければならない。そんなとき不意に訪れる偶然にこそ、Intimacyへ至るヒントがある。そういえば『ふしぎの国のアリス』の冒頭も、「アリスはとても退屈になってきた」だ。退屈なアリスにこそウサギが現れた。

 玄田氏、森田氏、川添氏は、お互いに著作は知っていても、学芸ライヴ当日が初対面だったらしい。私含め、多くの聴衆もそうだ。まさにライヴとは「弱いつながり」が生まれる現場だ。その偶然からどんどん話題を広げていくお三方だからこその、刺激的な2時間だった。サントリー文化財団には、今後もふしぎの国へいたるウサギの穴をたくさん掘り続けていただきたい。

今井 亮一(いまい りょういち)

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
2014-15年度 鳥井フェロー



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