WEB エッセイ/レポート

35 「役に立つ」/「役に立たない」とはどういうことか 櫻井 悟史

 モンゴル、超ひも理論、シロアリ――サブタイトルに掲げられた3つのテーマだけを見て、どのような話が展開されるか想像がつくだろうか。そもそも、これらのテーマに関連性があるようには見えない。一体なにが起こるのか、どのような議論になるのかも想像がつかない。しかし、この未知の可能性に「賭ける」ようなテーマ設定こそ、これから紹介するイベントの趣旨そのものであったと、振り返ってみて思う。
 2019年4月15日に開催された学芸ライヴ「役に立つって何?――モンゴル×超ひも理論×シロアリ」は、ファシリテーターである大竹文雄氏が3名のゲストを招き、それぞれの研究の紹介とテーマに関連する話題提供をしてもらったのちに、ディスカッションするという形式のものであった。ゲストとして招かれたのは、モンゴルを専門とする文化人類学者の小長谷有紀氏、超ひも理論を専門とする数少ない理論物理学者の橋本幸士氏、シロアリ研究を専門とする昆虫生態学者の松浦健二氏である。大竹氏によれば、一見何の役に立つかわからないというタイプの研究をしていること、大竹氏が個人的に話を聞いてみたかったことが、3名が選ばれた理由である。
 近年、学問が一体何の役に立つのかと問われることが多くなった。このように問われるとき、実践的に役に立つのか、生活や暮らしの役に立つのか、金銭的に役に立つのかといったようなことが暗黙の前提とされている場合が多いように思う。私も大学院に進学する際に、「学問は金持ちの道楽である」とか、「学問をやっても食っていけない」といったような形で、学問は「役に立たない」と散々言われた記憶がある。こういったことにいかに回答するか。それが中心的な論点であった。
 小長谷氏の研究でもっとも世間の注目を浴びたのは、チンギスハンについての研究であったという。遊牧研究をメインとする小長谷氏にとって、それは不本意であったが、自分たちの生産する知が、いつ、誰にとって有用なものになるかはわからない。そして、何を有用と見るかは社会の方の問題であって、自分の役割を超えている。だから有用性は考えずに学問に取り組んでいるというのが、小長谷氏の回答である。ただし成熟した社会はどんな知も有効活用するものであるに違いないと補足した。
 松浦氏はこの有用性について、オン・ザ・ロックスのウイスキーを比喩に用いて説明した。グラスに入っている一塊の大きな氷が学知で、ウイスキーのラインより上に出ている氷の部分が実践的な領域であるとする。いま求められがちなのは実践であるが、大きな氷全体のどの部分がラインより上に出るかは、アプリオリに決定できない。あるとき急に氷が回転し、これまでグラスの底に沈んで見えなかった部分が姿を見せることもあるからだ(たとえばヒアリ研究は、これまであまり脚光を浴びていなかったが、騒動が起こったことにより、有用性の領域に入ることとなった)。しかし、氷が回転したとしても、そもそも氷が大きくなければ、新たな部分が見えることもない。グラスの底に沈んでいた部分があったからこそ、すなわち何の役にも立たないと思われていた研究をしていた人たちがいたからこそ、有用性が生まれたときに対応することが可能となる。ここから、松浦氏は学問の重要性を説く。個別の研究分野はあるが、学問に分野というものは存在しない。学問は中心へ向かう力であって、それが学知を形成している。有用性の部分にだけ焦点を当てるということは、この学知を手放すということを意味する。個別の研究の有用性を説明することは可能であるが、安易にそれを説明すればするほど、学問から遠ざかってしまうことになる。それでよいのか。これが、松浦氏の中心的な主張であった。
 大竹氏は、この話を受けて、納税者に対するアカウンタビリティーの重要性と「役に立つ」という定義を再考する必要があるのではないかという議論を展開した。たとえば、お笑い芸人やスポーツ選手に向かって、お笑いやスポーツが何の「役に立つ」かと問われることはほとんどない。それは、多くの人々がそれらを見て楽しんでいる、すなわち幸福度を増しているからである。そういった観点からも「役に立つ」という言葉をとらえる必要があるのではないかという問題提起である。
 それに対して、橋本氏は自身の具体的なエピソードを紹介した。自分の研究成果を市民に還元するべく、おじいさんやおばあさんに研究内容を説明してみたが、全く面白さが伝わらない。しかし、幼稚園に通っているような子どもが、自分と握手をして非常に喜ぶというようなことがあった。橋本氏の研究は、人間が知るこの宇宙のほとんど全ての事象を説明する式を解析するという壮大な研究である。この研究の意味を子どもが理解できたわけではないだろう。しかし、おそらくその子は科学者という職種の人間がいることは知っており、その科学者が目の前にいるという事実だけで幸せになった。これは、巨大な加速器を見るだけで喜びを感じるような、いわゆる「巨大科学萌え」にも通じるところがある。こうしたプリミティブな感覚もふまえて、「役に立つ」の定義を再考しなければならないのではないかというのが、橋本氏の見解であった。
 自分だったらどう答えるだろうか。議論を聞きながら、自問自答せざるをえなかった。私は、サントリー文化財団の鳥井フェローとして、大阪キャバレー100年の歴史について研究している。2018年12月に、日本キャバレーの代名詞ともいえるキャバレー・ハリウッドが閉店し、現存しているキャバレーの数は非常に少なくなった。そもそもキャバレーがまだ存在していたことに驚く人の方が多いかも知れない。キャバレーとは何かということを知らず、キャバクラと区別のつかない人も多いだろう。平成が終わり、令和となった時代の中で、キャバレーは「昭和の輝き」や「昭和の遺産」として、ノスタルジーとともに語られる。そのようなものを研究して「何の役に立つのか」。そんな声が聞こえてきそうだ。
 なぜキャバレーを研究対象にしているのか。2007年に私は初めてキャバレーという場所に行った。今はなくなってしまった「ユニバース」という大阪のキャバレーであった。眼が眩むような煌びやかな巨大空間に集っていた人々は、みなそれぞれの快や欲望を持ち寄り、それらをぶつけあって楽しんでいた。キャバレーを経営する側は、音楽も、踊りも、ショーも、会話も、疑似恋愛も用意するが、その場にいる人全員が、同じものを一体となって楽しむことは求めていなかった。それにもかかわらず、その場にいる人々はどことなくつながっているようにも思えた。様々なものが詰め込まれた、何が起こるか全く予想がつかない、未知の可能性にあふれたキラキラと輝く場所。それが私の最初に見たキャバレーであり、一体それはどういう場所であるのか知りたいと思った。しかし、「昭和の輝き」や「昭和の遺産」ではピンとこない。そこには未だ言語化されていない、失われつつある人々の楽しみがたしかにある。私は、それを拾い上げ、書き留めることで、未来へと繋ぎたいと考えている。
 では、キャバレー研究が未来に何をもたらすのか。どのように「役に立つのか」。それは不明である。「役に立つ」かもしれないし、立たないかもしれない。立ったとしても数百年後であるかもしれない。どういう意味で「役に立つ」のかもわからない。それは、やってみなければわからないことだ。ただ、最初から「役に立たない」と決めつけられたら、「役に立つ」かもしれない未来は確実に失われることとなる。「役に立たない」とは、世界の可能性を閉ざす言葉なのである。
 サントリーの創始者である鳥井信治郎の精神について、開高健はこんなふうに述べている。「細心に細心をかさね、起こり得るいっさいの事態を想像しておけ。しかし、さいごには踏みきれ。賭けろ。賭けるなら大きく賭けろ。賭けたらひるむな。徹底的に食いさがってはなすな。鳥井信治郎の慣用句“やってみなはれ”にはそういうひびきがあった」(山口瞳・開高健,2003,『やってみなはれ みとくんなはれ』新潮文庫,262頁)。ここでいう「賭け」とは、運否天賦のことではない。様々な準備や検討を行ったうえでの未来への跳躍のことである。私は、キャバレー研究に取り組むにあたり、上述のような自身の経験だけでなく、研究者ならば誰でもするように、先人が積み上げてきた成果も当然検討している。そのうえで私はキャバレーを研究し、それが切り拓くであろう未来に「賭け」ているのである。

櫻井 悟史(さくらい さとし)

立命館大学大学院先端総合学術研究科 授業担当講師
2018年度 鳥井フェロー



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