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32 『サントリー学芸賞選評集』刊行記念企画vol.4 自由で闊達な社交の場を 河野 通和

 1978年4月、私は中央公論社(現・中央公論新社)に入社しました。入社したら、まっさきに挨拶したいと念じていたのが、粕谷一希さん(元「中央公論」編集長)でした。雑誌「選択」に粕谷さんが連載していたコラムを読んで、編集の仕事に興味を覚えるようになったからです。
 ところが、氏はほどなく、すれ違うようにして退社。アテの外れた私は、先輩編集者に案内され、粕谷さんを初めて雑司が谷のご自宅に訪ねます。
 以来、「夜学」と称しては、しばしばお宅にお邪魔して、大先輩の“編集よもやま話”をたっぷり聞かせていただきます。そこには名だたる学者、評論家が同席することも多く、駆け出し編集者にとっては願ってもない“個人授業”になりました。
 そんなある日、粕谷さんからお聞きしたのが、サントリー文化財団の話です。山崎正和さんに声をかけられ、財団の仕事を手伝うことになった、サントリー学芸賞が創設される、といった内容です。財団の中核をなすメンバーの名前を聞いて、溌剌とした「知」の息吹を感じました。
 粕谷さんを誘った山崎さんの頭の中に、かつて中央公論社が定期的に開いていた「中公サロン」のイメージがあったという話は、ずいぶん後になって聞きました。1960年代半ば、日本の出版界全体が好景気にわいた頃です。執筆者を中心にしたいくつかの研究会や懇談会が催され、その一つが「中央公論」編集部を主体にして気鋭の論客を集めた中公サロンでした。山崎さんが回想しています*1。

 <当時、粕谷さんは『中央公論』の編集次長でした。野心的、積極的な編集者で、若い新しい筆者を集めて、お互いにプライヴェートな討論に巻き込み、相互研鑽(けんさん)させようとしていました。社長は嶋中鵬二さんで、嶋中さんもそういうことに意義を認めている人でした。(略)
 粕谷さんのグループには、いま覚えている人でいえば、永井陽之助さん、高坂正堯さん、萩原延壽(のぶとし)さんなど、何人かいました。そこに私が入れていただきました。要するにそれは酒を飲んで雑談する集まりです。これは私にとって非常に刺戟になったし、異分野を知るチャンスにもなりました。……この体験がいまのサントリー文化財団のサロンの原型になっています。>

 この時に経験した「自由な社交」の場を再現したいという夢が、財団設立の方針につながったというのです。さらに、創設される賞の名前が、個人名を冠するものでもなければ、「学術」でも「文学」でもなく、欧米の学問でいうリベラル・アーツを想起させる「学芸賞」になったのも道理でした。専門化され、分化された“知の塹壕”から抜け出し、より広い理解と共感を求める著作――知的探求の成果を読者に届け、ともに考えるという試みで書かれた作品――を顕彰するという強いメッセージが感じられました。アカデミズムとジャーナリズムの融合をめざすという意思も伝わりました。ちょうど学園紛争と全共闘運動が過ぎ去った後の「しらけ」世代と呼ばれた私たちは、新しい変化と気運を求めていたのです。
 ところが、きのうまで学生だったような若造とは違い、これまで日本の言論界をリードしてきたと自負する人たちは、内心穏やかでないものを感じたようです。論壇、文壇的な主導権を奪われるのではないかという党派的な疑心暗鬼からです。
 また、中公サロンのような自由で闊達な言論空間を誰よりも強く望みながら、いろいろな事情でそこから後退せざるを得なかった中央公論社の嶋中鵬二社長などは、「賞を創設するのは簡単ですが、それを存続させるのは並大抵じゃありません」と、やや負け惜しみ的な感想を洩らしました。その時の嶋中さんの、負けず嫌いらしい少しさびしげな、無念の表情がいまも目に浮かびます。
 ただ、書き手にとってこれほど励みになる話はありません。1979年、第1回の「社会・風俗部門」には、藤原房子さんの『手の知恵――秘められた可能性』が選ばれました。選評に、木村尚三郎さん(東京大学教授・西洋史)が書いています*2。

 <これはすばらしい本である。それを一口に言えば、日常的に何気なく見過され、また軽視されてしまう家事について、そこに働く熟練した手の美しさ、「手の知恵」とされるその動作の合理性と芸術性を、部分部分の一つ一つをゆるがせにしない女性特有の克明な眼でフォローし、解明し、くっきりと浮き彫りして見せた。まさに画期的な書物である。>

 画期的であるのはこの本のテーマだけでなく、こうした著作を顕彰する賞そのものが斬新でした。既存のジャンルには分類しにくい、いわばボーダーレスな作品をすくい上げる枠組みは、それまでの賞には見当たりませんでした。
 ちょうど受賞が決まったというニュースを、藤原さんがたまたま披露する場に居合わせました。ある作家が毎月自宅で開いていた文人サロンのような勉強会です。そこには作家、編集者ら20人ほどが集まっていましたが、誰もがこの野心的な、ユニークな賞の誕生に心を動かされた様子でした。

 似たようなことで思い出すのは、塩野七生さんです。ご自身も書いておられますが、ある時、山崎正和さんに「あなたの作品はどの賞からも少しずつずれている。賞には縁遠いかもしれないね」と言われたことを、粕谷さんと私に苦笑しながら語ってくれました。その塩野さんはほどなく1981年に、『海の都の物語――ヴェネツィア共和国の一千年』で受賞します(「思想・歴史部門」)。選考委員の谷沢永一さん(関西大学教授・国文学)が評しています*2。

 <既に毎日出版文化賞を受けて評価の定着した著者に、尚おいま改めて本賞を贈る我等選考委員の微意は、第一に塩野七生氏の飛躍的な成熟に寄せる讃嘆であり、第二に本書を卓抜な現代日本論としては、必ずしも未だ認知されていないかも知れぬ読書界への、僭越ながら熱い思いを籠めての推挙である。>

 誕生から40年。サントリー学芸賞が築き上げてきた実績と貢献は、いまさら言うまでもありません。まさに「賞を存続させる」ことを見事にやり遂げた好例です。
 昨今は出版界が縮小し、かつて論壇と呼ばれた言論空間も明らかに衰微しています。世界的な傾向として、言論の分断や、フェイクニュースが「ことばの危機」として語られます。そういう厳しい状況になればなるほど、一層必要とされる知の役割があります。幸いなことに、そのための幅広い人的ネットワークを、サントリー文化財団は40年にわたって培ってきました。
 40周年を機に、財団設立当初の夢をさらに充実させるべく、「<知>をつなぐ、<知>をひらく、<知>をたのしむ」の新たなコンセプトのもとで、息の長い事業にさらに邁進していただきたいと願います。

*1、『舞台をまわす、舞台がまわる――山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社、2017年)
*2、サントリー学芸賞選評からの引用は原文ママ

河野 通和(こうの みちかず)

ほぼ日の学校長、編集者



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