WEB エッセイ/レポート

22 「東京知」と「関西知」 尾原 宏之

 谷崎潤一郎の有名なエッセイ「阪神見聞録」(1925)は、ずうずうしい、ガラが悪いといった関西人に対する偏見を著しく助長する作品として知られている。そこには、電車の中で平気で子供に糞尿をさせる関西人、見ず知らずの人から新聞を拝借したまま返さない関西人などが登場する。
 筆者は東京から関西に移住して一年になるが、当然ながらこのような光景に出会ったことはない。日本全国ひとしなみに〈文明(化)〉の恩恵に浴し、したがって全国どの街も同じような光景と同じような〈文明人〉で満たされるようになった結果なのかもしれない。だが関西に住んでいると、知らない〈日本〉に触れたような気がすることが時折ある。それがなにか表現することはむずかしいが、少なくとも『秘密のケンミンSHOW』的なものではない。同じように見えるからこそ、微妙な差異が際立って感じられるたぐいのものである。
 3月1日に開かれた堂島サロンは、東京(中心)の「知」のあり方とは違う「関西知」なるものは存在するのか、もし存在するとすればそれはどのようなものなのか、という問いをめぐって始まった。報告者は井上章一氏。演題は「関西の歴史学概観」である。井上氏は「知のあり方は国境や風土、時代を超える」、つまり学問とはユニバーサルなものであるはずだけれども、学問風土の「関西らしさ」を感じる時はたしかにあるという。
 井上氏が例示するのは、日本中世史研究である。歴史教育の場では、平安末期における武家の台頭と鎌倉幕府の成立を時代の画期として強調することが多い。そこには、フレッシュで健康的な勢力である武士が、腐った公家や僧侶の支配するよどんだ古代を刷新し、中世の新時代を切り開いていくというイメージがともなっている。地理的な含意もある。政権の中心が京から鎌倉へ、近畿から関東へ移ることで新時代が始まるわけだから、京都は古くて堕落した場所であり、関東は新しくて健全な場所だということになる。
 新しい時代はいつも関東=東京近辺から始まる−−。井上氏は、このような歴史観を「関東史観」と呼ぶ。明治以来、東京の中央政府はこの歴史観を流布し、関西人ですらこれに毒されてきた。大阪人の司馬遼太郎は鎌倉幕府の誕生に律令の世の終わりと中国・朝鮮との分岐点を見出した。京都府生まれの井上氏が幼少期に受けたのは、腐敗した京都にとどまって滅亡した平家の一党と、「鎌倉殿」源頼朝を対比させる「情操教育」だという。
 井上氏が「関東史観」のおかしさに気がついたのは、京都大学に入学し、上横手雅敬氏の日本史講義を聴いた頃のことである。武家をうやうやしい存在として描く歴史叙述とは異なり、上横手氏は鎌倉幕府を「広域暴力団関東北条組」と呼んだ。井上氏はここで、全国の歴史教育に支配的影響力を持つ官学中の官学、東京大学を源流とする「関東史観」とは異なる歴史観に出会ったのである。
 学問風土の「関西らしさ」は、京都大学で学んだ歴史学者による日本中世史研究に端的にあらわれている。井上氏は東大的な研究と京大的な研究を対比させながら、そのことをコミカルに論じていく。最初の例は、中央公論社のシリーズ『日本の歴史』が内包する二つの異なる歴史観である。シリーズの第7巻『鎌倉幕府』は東大の石井進によって、第8巻『蒙古襲来』は京大で学んだ黒田俊雄によって書かれた。井上氏は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵し、大敗した承久の乱(1221)についての叙述の違いに注目する。石井が東国の西国に対する勝利、朝幕の力関係の逆転としてこの乱を描くのに対し、黒田は東国の優位をあくまで政治面に局限して、社会面・経済面・文化面では近代まで西国が優越していたことを強調する。東国的な御家人支配は野蛮で暴力的であり、多くの人がそれに反感を持ち貴族や社寺による支配を選んだ。東国は「経済発展の後進地帯」で、荘園制社会における京都などへの物資の移動・集積・交換がのちの時代の商業につながっていく。
 「上方びいき」を自認する井上氏は、黒田の歴史叙述にあらわれた「上方史観」への賛意を隠さない。承久の乱後、鎌倉幕府は皇位継承を左右する巨大な力を持つようになったという石井の指摘に対しても、その程度のことは藤原摂関家でもやっていたとそっけない。
 次に井上氏が例示したのは、源頼朝が長女の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたという『愚管抄』の記述の解釈をめぐる問題である。ここでも「関東史観」と「上方史観」は対立する。「上方史観」による解釈は明瞭で、奥州征伐後の頼朝は王朝国家に従順な侍大将に変貌しており、天皇の権威に依拠するために娘を入内させようとしたと捉える。頼朝にとって、鎌倉幕府はあくまで京都の公家政権より下の存在だったというのである。一方、「関東史観」における頼朝は東国独立国家を目指した人物であるから、入内問題の解釈は微妙になる。『愚管抄』の記述を捏造だとする説、中央貴族の末裔の限界を見る説、後鳥羽と大姫の間に生まれた皇子を東国独立の象徴にしようとした説などがある。井上氏が東大の佐藤進一らによって提唱された東国国家論に否定的であることはいうまでもない。東大史料編纂所の本郷恵子氏が2010年に著した『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ)には、頼朝は「旧来の朝廷の枠組みに近づくことをめざしていたふしがある」という記述があることを示し、ようやく東京の学者も「上方史観」に理解を示すようになったと説いた。

 井上氏の報告に続いて、質疑応答が行われた。まず問われたのは、東京中心の歴史学がもたらした〈負の遺産〉についてである。「信長と秀吉の時代を“安土桃山時代”というが、秀吉の拠点は大阪だったのだから歴史学者の脇田修がいうように“安土大阪時代”とすべきではないか」「飛鳥時代、奈良時代は難波宮の時期も長かったが、なぜ難波は時代名称から省かれているのか」。この問いに対して井上氏は、東京で歴史教育を設計した人たちに「“大阪時代”だけは勘弁して欲しい」という思いがあったのではないかと推測する。弥生時代も飛鳥時代も地名に由来する時代名称なのに、その間の時代は古墳時代と呼ばれる。立派な前方後円墳がある南大阪にちなんだ「河内時代」や「大阪時代」という名称は周到に避けられたのである。大化改新の詔が難波長柄豊碕宮で発せられた事実もほぼ忘却されている。
 そもそも弥生時代という名称は、東京帝国大学の所在地もしくはその近所である本郷区の弥生で出土した土器に由来する。だがこの種の土器は、すでに江戸時代に岡山で発見されていた。井上氏は、本来は「岡山式土器」とすべきなのに、東大に近いという理由で弥生式土器になったことを指摘する。やはり、歴史を作るのは東大なのである。
 このほか、禅宗・浄土真宗などの鎌倉新仏教ではなく天台・真言を重視する黒田俊雄の顕密体制論、東北や九州から見た「関東史観」と「上方史観」の対立、出身学派や出身ゼミの拘束力、自然科学における学派ごとの流儀の違い、イギリスから、さらには世界的視座から見たアメリカ独立、ヨーロッパ史研究の概念で日本史を見るバイアスの問題など、話題は多岐にわたった。

 もともと東北出身である筆者はどこでも田舎者として憐れまれる存在なので、東大系の東国国家論、天皇を中心とする公家政権の下に武家勢力と寺社勢力の相互補完関係を見る京大系の権門体制論のいずれにも皮膚感覚レベルの共感を抱くことはできない。だが、自分が関係する日本政治思想史という学問分野に対する強い反省を促された。
 近年、日本政治思想史という学問自体が東大において丸山眞男が創始したものであることが公然と語られるようになった。その丸山思想史学は、丸山自身幼少期を関西ですごしているものの、かなり「関東史観」的である。『丸山眞男講義録』は、鎌倉武士団から江戸の官僚化した武士に至る「武士のエートス」の展開、親鸞を中心とした鎌倉新仏教論にかなりの紙幅を割いている。そこでは、武士が持つ名誉感を背景とする独立自由の精神、御成敗式目にあらわれた「道理」の精神、そして鎌倉新仏教における世俗権力と信仰の断絶に焦点があてられた。丸山は、天皇制的なものを生み出し、それを下支えする「伝統」的な日本社会の思想を超克する契機をそれらに見出したのである。すると、井上氏の語る「上方史観」と丸山思想史学はあまり相性がよくないことになる。結局のところ、日本社会は天皇(家)の拘束から逃れられず、それを超克する契機はあったとしてもどのみち天皇制的なものに回収されるという結論に至りかねないからである。荘園制社会における商品経済の芽生えから記述する政治思想史も従来とは違う視野をもたらすかもしれない。
 「関西知」が東京中心の「知」のあり方を揺るがす可能性について、考えさせられた一夜だった。

尾原 宏之(おはら ひろゆき)

甲南大学法学部准教授

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