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21 平行に奥行きのある教養を 奈倉 有里

 2017年12月7日(木)大阪にて堂島サロンが行われた。今回はゲストスピーカーとして鷲田清一先生が、『教養と専門』をテーマにお話をしてくださった。以下は講義の要約と感想である。

 教養というものには、一方では大きな視野で学問の世界をとらえる幅広さがあるが、もう一方では、ひとつのことを調べつくす作業が必要となる。広さと狭さの二律背反のようなものが、教養を論じるときには必ず出てくる。
 ではこれまで「教養人」はどういうイメージで受け取られてきたか、垂直と平行という見方を基準にして考えてみよう。
 まず《垂直方向の教養》だが、明治大正期の教養人には、古今東西の文学・美術などに通じ「高尚」な趣味をもっている人、鑑賞する人というイメージがある。漱石のように高等遊民的なところがあり、実利に無縁なまま博識をもって見下ろすような構えがあった。
 それに対し、昭和の初期に批判がでてきた。その典型が三木清だろう。この人はあまり性格がよくないというか(笑)、教養主義批判というのは、教養人像を描いてそれを批判するようなところがある。政治に無関心を装うのは、国会議員へのルサンチマンだというわけだ。彼は断片的な知識の在り方を批判、より基礎的で根源的な視点がなくてはいけないと言い、いわば「教養主義の哲学化」を推し進めた。
 しかし高等遊民的なものであれ、哲学的なものであれ、同時代に対し批判的な距離をとろうとしていたことは共通している。上から俯瞰するか、根源へと深めていくか、方向は逆でも、いずれも垂直なのだ。だがこれからの時代は、《水平方向の教養》というものが考えられるべきではないか。
 ここで水平というのは英語のdepth、フランス語のprofondeur、空間的に言うと「奥行き」のことだ。この水平の教養について、二つの例を挙げて説明しよう。
 東日本大震災のとき、直後からさまざまな活動をしたが、4月に入ると放射能の問題が深刻化した。そこで人々の不安を少しでも解消するため、大阪大学にいる原子力関係の研究をしている方々を集めてシンポジウムをひらいた。その最後に講演者の方が聴衆の方々に向かって「みなさんにとって、どんな専門家が『いい専門家』ですか」と質問した。すると「一緒に考えてくれる人です」という声があがった。
 そういう定義は考えたことがなかったが、本質的な答えだと思った。現代科学では、狭い領域で答えが出ていないことに対して「まだ誰も書いていない」ことを書くのが専門家ということになっているが、なにかあると「それは専門ではありませんから」といって逃げることも多い。しかし本来PhDとはそういうものではなく、狭い範囲でとことん考えつくしたからこそ、少し違う専門でも、おおよその道筋を考えることができるべきではないのか。
 もうひとつ、これはうまいなと思ったのが、震災後すぐに被災地にかけつけて焚火の活動をした彫刻家の方の言葉だ。その方は「スキルというものは、隣の芝生に行っても発揮されなきゃだめなんじゃないか」と言った。

 この二つの言葉に示唆されて考えてみたいのが教養と専門の関係だ。
 教養が必要とされる理由は何か。まず、時代が抱え込んだ問題を、距離を置いて見る態度がある。直近の利害に左右されず、予測できないような状況に社会がきたときに選択肢をたくさん持っていることが重要だ。明治大正の教養人も、ギリシャ時代やシェイクスピアを引いて「そういうケースはここにもあって、こういう対処をした」と、別の視点を提示できた。
 しかし現代が抱える問題は、別の視点から見直すのが難しいほど複雑化している。経済市場にしても政治にしても、学者に訊けばすべてがわかるわけではないし、要因が複雑で、距離を置いて見るのも容易いことではない。1960年代ごろから、「現代はひとつの専門的領域からは見渡すことができない問題に向かい合わなくてはならないトランスサイエンスの時代である」と言われている。ではどうしたら少しでも見晴らしの良い場所に立てるのか。
 まず、複眼が必要である。そのためには、自らの歴史的なコンテクスト――オルテガのいう歴史の「高さ」を知ることが重要だろう。ある問題の歴史的文脈や種類を、全体の中にマッピングする。さらにその限界を示すことができるのが科学者の科学者たるゆえんである。そのためには自分の研究を一歩後ろに下がって見る必要がある。いわゆる「離見の見」だ――世阿弥は、舞っているときに舞っている自分を後ろから見ないといけない、という言い方をした。この言葉にしびれたレヴィ=ストロースは、「遥かなる視線」と書いているが、いずれにせよ自分の研究の位置を見定めることが、見晴らしのいい場所に立つための前提条件になると思う。
 ドイツ語で教養をBildungという。カントの三批判書の訳では「構想力」と訳されている、「形を作る」という意味の言葉だ。教養というと知識の量が話題になることが多いが、構想力のことを教養というんだ、と思うと、教養を考えるときに心が広くなるし、リベラルアーツとイマジネーションを重ねることができて面白い。
 最後にもうひとつ、世界を立体的に見るためには、他の文化的なバックグラウンドをもった、他者の視点を自分のまなざしに引き入れることも大事になる。
 これを、アドヴォカシーadvocacyとメディエーションmediationという言葉で考えてみよう。アドヴォカシーはもともと法律顧問を呼ぶという弁護士用語から派生し、自分でどういう状態にあるのかを自分で表現できない人の代弁をする、アドヴォケイトする能力のことを指す。メディエーションは、異なる声に耳を傾けてそれをメディエイトする、つなげていくという作業だ。そのセンスを《水平の教養》と呼ぶことができるのではないかと考えている。

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 質疑応答ではまず、この話は政治思想においても言えることではないか、という見解が示された。また、教養と想像力というテーマについて、仮に教養をintellectualと考えると、今の英語ではintelligenceというのは諜報などの意味に使われることもあるけれど、もともとはinter-legere、行間を読むという意味を持っていた。ここで重要になるのが想像力であり、奥や下のものを深く読んでいく力ではないかという指摘がなされた。
 そして、《水平の教養》に必要なセンスは育てることができるのか、という質問がなされ、これに対し鷲田先生は「場数を踏むこと」「人と人をつなげるような安心感のある場所を作ること」の重要性を語られた。
 さらに、現代の科学において専門の分化が進むなかで「なにを問うべきか」がわかりづらくなってきているために、《水平の教養》を考えるうえでも三木清のような「垂直的」な、哲学的な問いを今一度求めることも必要になってくるのではないかという質問がなされた。
 これに対し先生は、depthというのはそのためにあるような言葉で、水平にただ広がるのみではない「深み」のことである。哲学の世界では「アルキメデスの点」のように天地をひっくり返すような命題が定期的に出ていたが、20世紀後半以降の哲学にはそれがなくなってしまった。究極の岩盤が存在せず、底抜けになっている。科学も同じで、底がなく、垂直の「奥」そのものが求められなくなっている、そのような状況のなかで必要になってくるのが水平方向の「深み」ではないか、とお答えになった。
 会場からはほかにも様々な質問や意見が活発に出された。例えば政府が審議会をやるときに、間違いなく昔なら「知識人」といったところを「有識者」という。これは政府が教養人や知識人のように全体的な知をもはや必要とせず、ある部分だけを欲しがっているということではないか、といった意見や、研究者にとっての場の重要性を再確認する声、また、お話の中にあった「専門外ですから」という言葉について、謙遜のように見えて実は傲慢な言葉である、という指摘があがった。

 これまで考えられてきた「教養」の特徴として、広さ/狭さの対立項がある。そのような教養像を補うものとして水平関係の教養、それも深みのある水平の教養が求められている。すなわち「マッピング」や「離見の見」によって、広さ/狭さを克服するということだ。
 今回のお話で特に印象に残ったのは、adovocacyとmediationという語に象徴されるように、大きな声で自分の意見を届けることのできない人たちのために、自分の専門知識をネットワーク化していくことの大事さだ。教養人は狭い「専門」のなかで安穏としているのではなく、人々のなか、人々のそばで、考え、発言しなければならない。これらのことをつなぐものとして、構想力としての教養像はとても魅力的だ。知識と知識をつなぎ、組み立てていく。世界を立体的に立ち上げていく。同時に、そこでは想像力の問題もかかわってきて、異なる声を引きうけ他者と自分の関係を再認識することにもつながる。サルトル以来の教養人の抱えてきた社会に対する問題意識にもつながる、奥行きのあるお話だった。

奈倉 有里(なぐら ゆり)

早稲田大学非常勤講師
2015、2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー

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