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16 境界に住む――サントリー文化財団フォーラム「行動する知識人」レポート 島田 英明

 2017年5月12日の夕刻、東京は経団連会館の一室でひとつのフォーラムが開かれた。登壇者は、政治学者の苅部直(東京大学)と文化人類学者の渡辺靖(慶應義塾大学)。劇作家、山崎正和のオーラルヒストリー『舞台をまわす、舞台がまわる』(2017年)を土台に、主に日米両国の歴史や現状をふまえた活発な議論が行なわれた。掲げられた演題を「行動する知識人」という。

 デモクラシーから大学まで万事に危機が叫ばれる昨今、なるほどたしかに気息奄々の様を呈しているのが「行動する知識人」なるものである。もちろん、反知性主義やインテリの無力といったはなしであれば、いつの世も変わらない見慣れた危機であろう。良識に逆らう知性への嫌悪や知識人の政治的挫折をめぐる悲喜劇も、ソクラテスや孔孟の昔からありふれたものである。とはいえ、目下の危難がこれらと事情を異にするのは、「行動する知識人」であるとはどういうことなのか、その自明性が疑われているからにほかならない。

 行動するとひとくちに言っても、具体的に何を指すのかは多様である。街頭で政治的メッセージを叫ぶのはたしかに行動のひとつだが、そうした実践がいきすぎれば単なる「活動家activist」となろう。専門の知識や技術をいかして政府・官庁・企業で活躍するのもたしかに行動のひとつだが、それは局限された領域で「専門家expert」としての技術的有用性を発揮しているに過ぎないともいえる。もちろんだからといって、象牙の塔の権威や国論を導くオピニオン・リーダーになることが知識人の条件だと言えるわけもない。では、それらと区別された「知識人intellectual」とは何なのか。知識人/大衆図式がとうのむかしに失効した今、いくら目を凝らしても輪郭は定かでない。

 知識人とは、知識人として行動するとは、いったいどういうことなのか。――この厄介な問いに、「境界に住む」ことだと答えたのが、1961年の丸山眞男だった。

 「現代における人間と政治」と題された小篇で、丸山は当時すでに情報理論の古典であったW・リップマンの『世論』(1922年)を援用しながら、次のようにのべる。人は必ずなんらかの集団に属し、その集団の〈内〉で蓄積された世の中に対するイメージを抱いている。そうしたイメージを通して世の中を眺める限り、そのイメージに合致する事実だけが注目され、イメージの自己累積がすすむ。実は一歩〈外〉に出れば世界はまったくちがって見えるのだが、誰もそのことに気付かない。こうして人びとが自ら作りだした「擬似環境」に安住する中で社会は内と外に分断され、両者のあいだで偏見と非寛容がはびこり、健全な政治的コミュニケーションは失われていく。やがて訪れるのは正統を自認する者たちによる異端の抹殺――。丸山は、ナチス政権下のドイツを諷刺したC・チャップリンの映画『独裁者』(1940年)を手掛かりに、現代という「逆さの時代」の病理を抉り出していく。

 皮肉なことに、情報技術のイノベーションを経て、半世紀以上むかしの危惧はより実感しやすいものとなっている。方々で指摘されることではあるが、今や誰もが検索エンジンを用いれば簡単に知りたい情報にアクセスできる。品質の精査といっためんどうな作業はあっさり省略されて、自分の嗜好や信条にかなう知識や事実だけがとり出され、愛玩される。SNSや掲示板を利用すればすぐに同じ意見の仲間が見つかるし、訳知り顔で情報を発信することも容易だ。できあいの連帯感に包まれて自説への確証はますます強くなるだろう。こうして、局所的かつまったく反省を経ない意見が「民意」や「世論」を僭称したりもする。気に入らない相手は「炎上」させてしまえばいい。インターネットは、既にすぐれたリテラシーをもつ者にとっては世界を広げるツールとなるが、そうでない場合にはかえって世界を狭くする。断っておくが、似たような顔の集まる街頭も事情は同じである。

 「境界に住むことの意味は、内側の住人と「実感」を頒ち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある」。丸山の表現はすこしとっつきにくいが、難しく考える必要はない。要するに、常に複数の情報を比較し、複数の視点から事実を眺めてみること。言い換えれば、ちがった仕方で考えること。ちがった仕方で考えた時、これまでの自分がどう映るのかを想像してみること。それによって〈内〉と〈外〉を架橋して、健全なコミュニケーションの回路を保つこと。それこそが知性の働きにほかならず、その実践が現代における知識人の使命だということ。大仰なタイトルを付された小篇は、いかにもこの人の文章らしいすこしうわずった調子で結ばれている。これこそが、「知識人の困難な、しかし光栄ある現代的課題」であると。

 高尚なナンセンスだろうか。「自由に浮動する知識人」(K・マンハイム)の幻に憑かれた前世紀のたわごとだろうか。そうかもしれない。しかし、それでも、知識人や既成メディアに今後なお何らかの意義があるとすれば、微かな光がここにある。結局、知識人の存立のみならずおよそ政治的な議論をおびやかしているゆえんのものは、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞き、信じたいことだけを信じていたいという、怠惰と幼稚なのだから。

島田 英明(しまだ ひであき)

東京大学法学部特任講師
2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー

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