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14 高坂正堯の知的遺産とその現代的意義 張 帆

 日本を代表する国際政治学者・高坂正堯の没後20年を機に、「いま求められる高坂正堯のまなざし」をテーマとした「サントリー文化財団フォーラム・東京」が5月18日に開催され、大阪観光大学教授・森田吉彦氏、京都大学教授・中西寛氏が高坂の国際政治思想について熱く語った。

 森田氏は、高坂の中国論をハーバードでの留学といった思想的背景を顧みたうえで、包括的に説いた。さらに、力(軍事力)・利益(経済力)・価値(ソフト・パワー)という高坂の国際政治に対する分析枠組みに基づき、中国問題の複雑性を鋭く指摘した。中国の台頭に対して、日本は複雑な中国問題を一面だけ見るのではなく、その絡み合いを考えるべきだと論じた。

 中西氏は、高坂の海洋国家論・文明論を述べながら、一貫して日本のアイデンティティに対する高坂の関心を明らかにした。高坂は60年代において「吉田路線」を再評価するとともに、「自立」という課題に焦点を当てて「海洋国家」を国家目標として挙げた。70年代以降は米国の相対的な衰退や石油危機などを背景に、パクス・アメリカーナの限界と「通商国家」日本の弱みを指摘し、日本がより積極的に国際社会に貢献する可能性を訴えた。日本が国際的な視野を持ち、世界秩序の構築に関与すべきであるという高坂の見解が時代の潮流に合致していると中西氏は説いた。

 根本的に言えば、中国論も海洋国家論・文明論も高坂の「日本的現実主義」に基づくものである。高坂は「現実主義者の平和論」(『中央公論』1963年1月号)で60年代の論壇に登場し、権力政治を軽視する「進歩派」の理想主義だけでなく、価値の役割を見逃した「保守派」の現実主義にも批判を加え、権力政治(一次的なもの)と価値(二次的なもの)の両立を可能にする「(新)現実主義」を掲げるようになった。当時、国際関係論の古典的リアリズムも価値の役割を認め、権力政治を制約する要素として捉えた。高坂の「(新)現実主義」はある程度古典的リアリズムから影響を受けたが、主に外交政策をめぐる国論分裂という日本的な課題の解決を狙う点においては特異で、まさに「日本的現実主義」ともいえよう。これは高坂の国際政治思想の中核であり、氏の最大の知的遺産なのである。

 「日本的現実主義」をもとに、高坂は平和を日本外交の価値及び最終目標、勢力均衡の維持を平和の第一歩とし、平和の漸進的な実現を期待していた。そして、権力政治と価値が両立できるという見解に基づき、氏はパワーの多様性を深く認識し、そこから日本の方向性を描いた。日本がどのように生きるか、何ができるか、いかに国際政治に関与するか、を高坂は問い続けた。氏の答えは、必要最小限の防衛力を保ちながら、経済力、技術力や「他国の役に立つという能力」などを生かして国際社会で活躍する日本の将来像にある。たしかに軍事力が弱い「通商国家」日本にとって、これが最も賢明かつ実現可能な最善の道であろう。

 一方で、我々は高坂の国際政治思想が主に冷戦という時代の産物であることを忘れてはならない。特に、氏の亡くなった1996年までには、中国の台頭という国際政治構造の変化がまだ見られなかった。かつて、高坂はイデオロギー的な中国論に批判的な態度を取り、東アジアの緊張緩和という観点から日中国交正常化を主張し、中国が大国になる潜在的な可能性を見通していた。しかし、今の中国が強大な軍事力と世界2位の経済力を持ち、世界的なパワーシフトを引き起こすことは、恐らく氏の予想を遥かに超えたであろう。では、国際政治の転換期を迎えた今、我々は高坂の知的遺産から何を学べるのか。

 ケネス・ウォルツ以後のリアリストは価値の問題を一切取り扱わない。然れども、国家、特に指導国は絶えず価値からの要請に応える必要があり、国際社会における正統性の課題に直面している。そこで、振り返るべきは高坂の国際政治に対する分析枠組みである。力・利益・価値という分析枠組みは決して時代遅れではない。興味深いのは、中国を代表する国際政治学者・閻学通が提唱した「道徳的現実主義」が高坂の思考に近いことである。閻氏によると、今の中国は軍事力と経済力は強いが、それでも国際社会における正統性を得られない限り、真の台頭は実現できない。それゆえ、中国が「仁」「義」「礼」などの普遍的価値を掲げて、グローバルな問題に対応することで国際社会に積極的に貢献しなければならないという。この点から見ると、「日本的現実主義」は一般理論へと発展する可能性を含んでおり、我々は高坂の国際政治思想の理論的意義を再考すべきなのである。

 また、日本の直面する課題の解決を願う高坂の問題意識に注目することも必要である。国際関係論のパラダイムではなく、常に日本の現実から出発することで、高坂の国際政治思想は時代とともに歩み、日本の外交政策について数多くの有益な知見を提示してきた。氏の真骨頂はまさに思考の柔軟性と発展性にある。もし高坂が生きていれば、従来の「政治的現実主義」の立場を取るか、それとも「軍事的現実主義」の立場に傾くか。恐らく氏はいずれの立場にもこだわらず、「日本的現実主義」に基づき国際政治の構造を分析したうえで、日本の国益に最もかなう選択肢を提示するであろう。現在、かつて高坂が提起した「吉田路線」を超える外交戦略の創出は日本の最も重要な課題となっている。そして、この課題を解決するために、我々は氏の知恵を借りる必要がある。

張 帆(ちょう ほ)

京都大学大学院法学研究科博士後期課程
2015年度サントリー文化財団サントリーフェロー

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