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12 「2015年安保」と開かれた討論 尾原宏之

 10月21日、東京・丸の内の銀行倶楽部で開かれたサントリー文化財団フォーラムは、安全保障関連法の成立から1ヶ月という時宜にかなった内容となった。講師は、政治学者・五野井郁夫とメディア史研究者・佐藤卓己である。3.11以後の新しいタイプの社会運動に参与しつつ発言してきた五野井と、メディアを舞台にした“反安保狂想曲”をやや冷ややかな目で分析してきた佐藤。安保法案をめぐる言論と運動を中間総括するのにふさわしい組み合わせであるように思われた。

 五野井の講演「院内と院外の政治――参加民主主義のグローバルな展開」は、「アラブの春」、ニューヨークのオキュパイ運動、香港の「雨傘革命」、そしてSEALDsに象徴される日本の「2015年安保」など、世界に広がる人権と民主主義の運動を構造的に分析したものである。
 特に、参加民主主義の担い手たちの雑多な思想やスタイルの分析は、今日の日本の社会運動を見る上でも有益だった。リベラル・デモクラシーやアナキズムといった古典的な枠組に加え、状況主義、クラブ・カルチャー、カリフォルニアン・イデオロギーなどの思潮にも言及がなされた。カリフォルニアン・イデオロギーとは、反権威、自由の尊重という点でヒッピーとハッカーの思想が混合したものと解されているが、新自由主義と親和的な側面もある。実際、日本の新しい運動でも、反資本主義的な人々と新自由主義的な人々が自然に共存している光景に出くわすことがある。旧来の新左翼から見れば単なる野合だろうが、このような思想の雑居傾向が運動の敷居を低くし、音楽やアートなどで新しい運動を彩る人材を招き寄せていることに改めて気づかされた。

 五野井は、新しい運動が政府を変えるだけでなく、政府を取り巻く文化や社会を変革することに注目する。また、その「院外」の運動がやがて「院内」の政治を動かすこと、短期的には今回の反安保運動が2016年参議院選挙に向けた野党結集の原動力になりうることを説く。
 たしかに今回の反安保運動は幅広い世代にインパクトを与え、発言や行動を促す大きな契機となった。だが、政治文化を変え、「院内」の政治に有効に働きかけるには、運動に加えて別の回路も必要になるように思われる。
 安保法案反対を掲げたSEALDsなどの運動は、単一の課題に集中する「ワンイシュー」「シングルイシュー」の運動と呼ばれる。運動に集う人々は雑多であり、統一的に編成された諸課題のパッケージを掲げることは難しいのだろう。しかし、反原発、反レイシズム、反安保といった一連の「シングルイシュー」の運動は、別個の課題でありながらも同じような人々によって中心部分が担われてきた印象があり、課題間にどういうつながりがあるのか、いまひとつ不明瞭なまま事態が推移してきたように見える。
 「シングルイシュー」の運動は、人々を動かし、結集させる点で大きな威力を発揮した。だが、何かの政治課題に注目してはすぐ忘れる、といういつもの情景を乗り越えることが果たしてできるだろうか。時々の運動は盛り上がりつつも、最後には「改憲阻止」という「シングルイシュー」で戦わざるを得ない日が来るのではないか。そしてそれは、憲法の全体についての社会的な議論がないまま改憲の賛否のみが争われる事態を意味するのではないか。
 やはり、運動のほかに継続的な議論を可能にする開かれた場と仕組みの必要性を痛感する。たとえばSEALDsは「立憲主義を尊重する政治」、「人々の生活を保障する政治」、「対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策」という立派なオピニオン群を持っている。運動では前景化されなかった論点を含めたトータルな議論が起こるとすれば、それは来るべき改憲論争にも大きな影響を与えるはずである。日本が目指すべき国家のあり方についての議論や、どのような防衛力が必要で(あるいは不要で)、国民はどの程度の犠牲を払うのか(あるいは払わないのか)という議論は、あらゆるレベルで避けて通るべきではない。

 次の佐藤卓己の講演「輿論2.0の可能性――輿論の世論化を超えて」は、そういった根源的な議論の前提を考えるものだった。佐藤がまず指摘したのは、世論調査という名の国民感情調査に左右されることの危険性である。安倍政権の低い内閣支持率を根拠に安保法案を批判するメディアは、支持率が上昇してしまったら何を根拠に論陣を張るつもりなのか。「熟慮のメディア」としての新聞は、「世論」数値を盾にした言論ではなく、「世論」に抗してでも主張し続けられる言論を目指すべきではないのか。佐藤はそう説く。
 内閣支持率などの「世論」(せろん)に基づく政治を「ファスト政治」と呼ぶ佐藤は、それに「輿論」(よろん)を対置する。戦前、「輿論」はpublic opinion、「世論」はpopular sentimentsを意味する別の言葉だった。「輿論」は開かれた討論を経て練り上げられた意見というニュアンスを持ち、民衆感情としての「世論」とは区別されていたのである。ところが時代が下るにつれ、パブリック・オピニオンとしての「輿論」は「世論」に吸収されてしまった。
 どうすれば「輿論」を再生できるだろうか。佐藤は、「輿論」が作り出される基盤を「反転可能性」と「繰り延べ可能性」に見出す。「反転可能性」とは、対立する相手と立場が入れ替わった場合でも自分の意見を許容できるかどうかであり、「繰り延べ可能性」とは、数年後でも同じ主張ができるかどうかである。他者の目と未来の目で自分の意見を検証してはじめて、対話と相互説得が可能になる。「輿論」は、その先に生まれるのである。
 佐藤は、罵りと嘲りが溢れる現在のネットメディアには悲観的である。たしかに管見の限り、安保法案をめぐる議論で目を引いたのは賛成派反対派双方の当てこすりや揚げ足取りであった。それぞれ御用学者だの、無知だの、サヨクだののレッテルが貼られるばかりで、立場を超えた真摯な対話はあまり見られなかった。佐藤の提起は、すべての話者が服膺すべきモラルである。

 今回の反安保運動に対するスタンスは違う両者だが、運動の社会的な盛り上がりと、討論による「輿論」の構築は決して両立不可能ではないように思われる。デモを通して何かを話し始め、動き始めた人々がいかに開かれた議論に参加していくか。このフォーラムは、新しい政治の可能性を示唆するものだったと言えよう。

尾原 宏之(おはら ひろゆき)

立教大学兼任講師
2014年度サントリー文化財団鳥井フェロー



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