特別企画 Vol.84 鋭く感じ、柔らかく考えてきた三十年

アステイオンの創刊に関わり、現在は「アステイオン編集委員会」顧問の山崎正和。海外との知的交流、その時代・思想の潮流の紹介など、本誌誕生の経緯や取り組み、今後について、現編集委員・苅部直が聞く。

創刊の経緯について

苅部『アステイオン』の創刊号は1986年7月発行。今年で30年を迎えます。山崎先生は創刊時に編集委員を務められ、その後も長らく関わってこられましたが、この雑誌を始められたときの背景やねらいについて、まずお話を伺えればと思います。

山崎当初、サントリー文化財団(1979年創立)の紀要を出したいという声が事務局からあがりましたが、私は強く反対しました。財団やお役所の紀要は、送っても直ちに紙くずかごに行ってしまい、読まれない。
しかしここに粕谷一希という人物が現れ、彼を編集長として『アステイオン』が創刊されることになります。中央公論社の泥沼の労使紛争で会社を辞めていた。それを理事の一人として文化財団に招いたわけですね。その強い希望があって、それなら雑誌を出そうかと。当時まだ代々木系が圧倒的に強かった出版界の中で、公正な雑誌を出したい。それが粕谷氏の意図だった。
そこで私の方も、社会科学だけでなく人文学の論文が載るような雑誌を作りたいと考えました。また、どうせやるなら国際性もある雑誌が欲しいという気分がありまして、当時、財団の中にあった、生活文化研究所の機関誌という感じでスタートしました。この研究所にはダニエル・ベルとハーバート・パッシンも入っていた。

苅部奥付での「編者」も、最初はサントリー文化財団・生活文化研究所になっていますね。山崎先生やベル、パッシンといった方々が「編集委員」で、粕谷さんが「編集長」。

山崎ダニエル・ベルとは、文化財団設立のさいに開いた国際シンポジウムに招いたのが縁で、気が合って非常に親密になりました。そういう国際的な知的交流の場としての生活文化研究所を活発にするという意図もあって始まった。
雑誌の名前については私に任されたので、国際的に執筆者を集める雑誌だから、日本語でなく横文字にしようと考えた。ところが英語、ドイツ語、フランス語、どれにしても、日本が下風に立つでしょう。何となく腹が立つんですよ(笑)。

苅部それでギリシャ語のアステイオン(都市らしさ)に。

山崎ギリシャ語なら絶対に彼らも文句は言えないだろうと。そこで、私の恩師筋にあたる田中美知太郎という大先生の弟子に種山恭子さん(元・弘前大学教授)という偉い学者がいました。友人でこの十年ほどあとに亡くなってしまった方ですが、その人に電話をかけました。都市的・都市性というニュアンスの言葉はないかと。そうしたら彼女が、都市を意味するアステュを形容詞形にしたアステイオンはどうかと言ってくれたんですね。

苅部いまも『アステイオン』の扉に毎号載っている巻頭言は、その「都市」「都市らしさ」のニュアンスを説明する文章になっています。これは山崎先生が書かれたんですね。

山崎私としてはダニエル・ベルたちに対して大いに顔が立ったわけです。どうだ、アステイオンなんて知らないだろうと(笑)。ただ、いまも表紙に載っている「鋭く感じ、柔らかく考える」という文句、創刊当時は「鋭く感じ、柔らかく考える国際総合雑誌」だったのですが、これは私じゃないんです。財団の事務局長だった伊木稔さんがなかなかしゃれた人で、こういう題を後からいつの間にかつけたんですね。
雑誌の編集は、最初は大変でした。創刊時の編集委員にはベル、パッシン、私を含め六人の名前が入っていますが、実際には私と粕谷氏だけが、当時の版元のTBSブリタニカに乗り込みまして、プロの編集者たちを前にして、侃々諤々と議論しながら雑誌を作っていた。原稿が集まったあとで、それをどう並べて目次を作るか、具体的なタイトルをどうするかといった議論を、季刊の毎号やっていたわけです。

苅部創刊号の冒頭は、丸谷才一さんの『新々百人一首』(単行本・1999年)の連載第1回です。森まゆみさんの『鷗外の坂』(1997年)も『アステイオン』の連載で、芸術選奨文部大臣新人賞を受けています。ほかにも川本三郎さんの『大正幻影』(1990年)や大笹吉雄さんの『花顔の人―花柳章太郎伝』(1991年)など、最初のころは、文藝誌のような性格ももっていたんですね。

山崎丸谷氏とは長いつき合いですから、やはり頼もうという感じで連載にしました。もう一つは、編集長の粕谷氏の頭にあったのが昔の『中央公論』なんです。目次を開くと、右に社会科学系の評論、左に文藝評論、そして小説が並ぶという総合雑誌の作りかたです。

ジャーナリズムの国際化にむけて

山崎やがて、雑誌にとって困ったことが起きました。監督官庁であった文部省の国際学術局が、文化財団の事業を本業と副業に分けたなかで、副業を整理せよと言ってきた。本業は研究助成だというわけです。そこで1991年、文化財団が特定公益増進法人になったときに、雑誌を財団の外に出しました。

苅部1991年7月の21号から、編者がサントリー文化財団・生活文化研究所ではなく「アステイオン編集部」に代わり、文化財団が外から助成する形式になっています。

山崎この時に編集委員も若返りを図って全員交替し、北岡伸一さん、竹中平蔵さん、三浦雅士さんに入ってもらいました(1994年1月、31号まで)。さらにその後、粕谷氏が編集顧問(32号、1994年4月)になり、直接の「編集人」は文化財団の事務局の人にやっていただく体制(1997年まで)に変わります。
ただ、この時期から私は『アステイオン』から一歩引いているんです。ベルとドイツのヴォルフ・レペニースを含む国際的な事業の方に関心が移った。アメリカンアカデミー、ベルリン高等研究所、サントリー文化財団の三者で、国際知的交流委員会(CTC)による『Correspondence』という国際雑誌を出し始めました。

苅部1997年に始まって2004年まで続いていますけど、準備は2、3年前から始められたんでしょうね。

山崎言い出しっぺは私なんです。日本の論壇の議論を世界に向けて発信したいという野心があったわけです。アメリカとヨーロッパ、そして日本を含めたアジア(韓国なども念頭にありました)、三つの地域の代表的な論文の要約を英文の雑誌に載せ、それを世界中のジャーナリストに配ろうと。これを読んだ各国の雑誌編集部がおもしろいと思ったら、筆者と直接連絡をとってくれという考えだったわけです。お金はほぼ日本側、サントリーが出した。編集の実務はベルのいたアメリカンアカデミーがやってくれる。ヴォルフは東ヨーロッパにも強くて、そちらでもいろんな雑誌を集める。
しかし、やってみると本当に大変です。田所昌幸さんの力も借りて、苦労しながら全部で10号までがんばった。今となってはほろ苦い思い出にすぎないんですけれども、ジャーナリズムの国際化は、そう簡単にうまくいくものじゃない。ですからこの間、私はもう『アステイオン』どころじゃなかったんですね。

苅部『アステイオン』も、51号(1999年4月)からは国際知的交流委員会(CTC)の日本委員会が「編者」ということになり、表紙も巻頭言も大きく変わります(60号、2004年3月まで)。山崎先生のお名前も日本委員会の一人として奥付に復活します。この時期の誌面では、欧米の筆者の文章が一気に増えますが、これは『Correspondence』の本誌とニュースレターからの転機なんですね。同時に、日本側の執筆者には若い世代が目立つようになります。

山崎今はみんな大家ですけれども、まだ若いと言える歳だった。たとえば鷲田清一さんは絶対に政治のことを書かない人だったのに、国家論を書いてほしいと私がお願いしたら、書いてくれました。56号(2001年11月)の特集「国家と倫理」に載った「全体という擬制―〈国家〉の存在をめぐって」(のち『時代のきしみ―私と〈国家〉のあいだ』に再録)。私が編集者としての意欲を大いに発揮する時代に、また戻ったわけです。

苅部そして『Correspondence』が終刊すると、『アステイオン』も61号(2004年11月)からリニューアルして、「アステイオン編集委員会」が編者という、ほぼ現在まで続いている体制になります。

出版不況と文明論の試み

山崎このころから出版不況がますます深刻になったのが、私にとって新しい動機になりました。政治・経済の評論やルポルタージュはともかく、人文系の評論を載せる雑誌がますますなくなってしまった。反対にこのころから私の関心は、人文系に傾いていきました。それが『社交する人間―ホモ・ソシアビリス』(2003年単行本化)や『装飾とデザイン』(2007年)といった仕事になってゆきます。一番鮮烈な記憶があるのは『装飾とデザイン』ですが、ああいうことを考え始めて、さて載せる場所はというと、『アステイオン』しかないんですね。続けて『世界文明史の試み―神話と舞踊』を連載し、今「リズムの哲学ノート」を書かせてもらっているという状況です。

苅部「社交する人間」の連載第1回は2000年11月の第54号ですが、おもしろいのは同じ号に東浩紀さんの「ポストモダン再考」が載っています。これは『アステイオン』にとっては大きな転機でしょう。もともとポストモダン思想の大流行のさなかに創刊したにもかかわらず、非常に冷たかったんですね。何しろその言葉を題名に含む文章が載ったのは、それ以前は、曽根泰教さんの「ポストモダンの選挙制度改革」(19号、1991年1月)を除けば、ダニエル・ベルのパートナーのパール・K・ベルさんが書いた「ポスト・モダンを超えて」(34号、1994年10月)が唯一だったという(笑)。

山崎私とダニエルは二人ともポストモダンが嫌いだったんです。われわれの間では一種の蔑称として「ポモ」と呼んでいた(笑)。私について言えば、自分の時代遅れをごまかしていたのかもしれないんだけれども、もうひとつ関心が持てなかったのが事実です。もう最近になっては、私も特に偏見をもってはいませんが。

雑誌ジャーナリズムの今後

山崎このところ活字文化の停滞のなかで、特に突出して雑誌の部数が落ちています。新書が月刊の総合雑誌の代わりになっているのでしょうが、週刊誌もかなり減っているという具合で、急速に雑誌が縮小してきたのはなぜなのか。どうお考えですか。

苅部月刊誌と週刊誌が、情報の流れの速度に追いつかなくなっているんじゃないかという気がします。特に月刊のペースで社会・政治に関する時評を発信するのが難しくなってきた。ただ、リアルタイムに事件を追いかけるのではなくて、いったん立ちどまって大局的な見地から問題をとらえ直し、行く先を展望するような文章を読みたいという需要は、まだまだあるのではないでしょうか。月刊よりもゆるやかなペースの活字媒体。

山崎もう一つ、読者の関心のあり方が狭くなった。これも電子媒体で養われたことなんですね。自分の関心事が初めに決まっていて、知りたいことだけを検索して読む。そうすると、思いがけないものに触れる経験ができなくなってしまうでしょう。ただ電子技術もさらに発展すれば、自分の関心を自動的に広げてくれるような、教育的なメディアが生まれるのかもしれませんが。
雑誌の現状で元気なのはむしろ、関心はきわめて狭く、定番のテーマだけれども内容が古くならないメディアですね。旅とか山とか草花とかの専門的な雑誌が書店にたくさん並んでいます。山なんて、2、3年は情報が古くならない(笑)。

苅部意外とうまくいかないのが、猫の雑誌だときいたことがあります。実際、いま猫ブームなのに猫の雑誌は少ないでしょう。犬の飼い主はよその家の犬にも興味を持って、かわいいねえと挨拶したりする。だから犬の雑誌もある程度売れます。しかし猫の飼い主は、よその家の猫に興味を持たない。猫を扱ったテレビ番組とか猫カフェとかは人気がありますが、雑誌を買ってよその猫を愛でる行動には、結びつかないような。

山崎確かに猫ってそうかもしれないね。犬はある程度社会的、社交的でいろんな人に懐くけど、猫は自分の主人にしか懐かないからね。

苅部では『アステイオン』も、人に魅力をたくさん発散しながら、押しつけにならず社交性を保つ、猫でありつつ犬のような雑誌をめざすということで……何となくオチがついたようですね(笑)。


プロフィール

山崎 正和 写真

山崎 正和(やまざき まさかず)
1934年生まれ。劇作家。京都大学大学院美学美術史学専攻博士課程修了。関西大学教授、大阪大学教授、東亜大学学長などを歴任。1963年に『世阿弥』を発表し、岸田国士戯曲賞を受賞。その後も戯曲、評論で受賞多数。文化功労者。

苅部 直  写真

苅部 直(かるべ ただし)
1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、『丸山眞男』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、毎日書評賞)、『歴史という皮膚』(岩波書店)、『安部公房の都市』(講談社)など。