S特別対談 Vol.77 民主主義の再活性化のために

田所古代ギリシアに起源のある元々の民主主義は、別に理想的な政治制度とは見なされていませんでした。たとえばトゥキディデスも民主主義にはむしろ否定的で、民主主義が非常に高く評価されるようになったのはかなり最近の現象です。ところが現在では、その民主主義に対し幻滅感が広がっています。はたして民主主義に対する高い評価は長続きするのでしょうか。また、民主主義に代わるなんらかの政治制度は考えられるのでしょうか。

ウィリアムズたしかに、政治は民主主義しかないと広く思われています。ただし、東アジアでの構図はやや注意が必要で、民主主義に対する複雑な態度が他の地域よりも顕著なことが調査で示されています。東アジアでは民主主義を熱烈に支持する度合いが他の地域に比べて低く、権威主義的な政治秩序への否定的反応も比較的弱い。このため、権威主義体制下でも経済、司法、治安を安定させられると見なされれば、民主制を求める動きは相対的に弱くなります。香港と台湾がそうですし、それより度合いは弱いですが韓国と日本もそうです。さらにもう一つ、考えるべき点があります。現在、人々は民主主義を理想の政治形態として公然と受け入れようとしますし、新しい現象としてこれにはアラブ諸国も含まれます。しかし、人々がいだいている民主主義の具体的な意味内容まで調べてみると、相当多様なものであることがわかります。説明責任を果たす政治を民主主義の核心と考えている人々がいる一方で、基本的な市民権の保護、さらには社会福祉の提供を民主主義の意味内容と見なしている人々もいるのです。つまり、人々は民主主義という言葉を肯定的な意味でとらえてはいるのですが、民主主義という言葉そのものの意味が人によって大きく違っている場合もあるわけです。人々が考える民主主義の意味について、さまざまな文化や社会にわたって今よりずっと深く調べる必要があります。

田所民主主義の意味という点では、19世紀にはそれが大衆による暴政と結びつけられてイメージされていたことも事実ですね。普遍的に民主主義が望ましいとされる現代のあり方は、本質的に民主主義国家として誕生したアメリカという国のアイデンティティーにさかのぼれるかもしれません。フランス革命でもそれが表れていると思いますが、何にもまして政治によって特定の国のアイデンティティーが規定されてしまったことで、今日の私たちの民主主義理解がむしろ混乱していることはたしかでしょう。民主主義に対する熱意が東アジアで比較的弱いように見受けられるのは、いろいろとある選択肢のなかで、民主主義が今のところは最も効率的もしくは実用的なシステムだと受けとめられているにすぎないからです。たとえば、日本のアイデンティティーはアメリカと違って、別に民主主義という政治制度に本質的に結びついているわけではありませんから。

ウィリアムズおっしゃるとおりですが、アメリカの文脈でも、マディソンは「民主制」ではなく「共和制」という言葉を使いました。民主主義は無秩序な群衆による支配と理解されていたのです。後にジョン・スチュアート・ミルがいうところの「多数者による専制」です。こういった群衆による支配への懸念はプラトンやアリストテレスにまでさかのぼることができ、そのどっちつかずの感覚が現代に至るまで続いています。立憲制度が法の支配によって民衆(demos)に制度的な枠を設けているかぎりにおいて、民主主義は正統かつ安全な政治制度と見なされるようになりました。しかし、その立憲民主制は自らその基礎をむしばみやすい傾向を帯びています。それが顕在化するのは二つの形のいずれかです。まず、民主的平等という考え方を損なう特権的エリートが生まれることによって。現にアメリカでは、経済力が既得権益を通じて政治プロセスに過剰な影響を及ぼす傾向が増していると受けとめられています。そしてもう一つは、立憲民主制によって政治が行き詰まり、有効な決定ができなくなってしまうことによって。そういう事態に至ると、政治家は互いに協力するよりも激しい政争に明け暮れることにインセンティブを見いだしがちで、それによって立憲民主制への幻滅がいっそう広がってしまうのです。

田所格差のことに触れてくださってよかったです。アメリカの民主主義観には一方ではチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)の要素がありますが、同時に人々の自由の行使、つまり自由主義という観点からも捉えられています。アメリカでは、格差拡大も経済的自由の結果として受け入れられやすいように思います。かたや東アジアでは、民主主義における自由主義的側面の様々な帰結に対する受容度が、英米などの社会に比べてはるかに低い。この点で日本は大陸ヨーロッパに近く、自由な経済活動の結果であるグローバリゼーションによって様々な制度が弱体化し、市場という「顔の見えない力」が制御できなくなることに懸念をいだいています。これについてはどうお考えになりますか。

ウィリアムズそうですね。そうした難題の克服に対する政治指導者たちの行き詰まり感、これが今日の民主制に対するフラストレーションの大きな源となっています。ユーロ圏危機にしても気候変動にしても、エリートが効果的に課題に対処できていないため、絶望的な気分になってしまうのです。国家の相対的後退、いわば「脱中心化」というプロセスを通じて、ウェストファリア的な主権国家秩序から他の何ものかに移行しつつあるのが現在のようですが、それが何なのかを私たちはまだ明確に概念化できていません。また、そういった移行にともなう問題への対応能力に不満感が広がっているように思います。グローバル経済は自律した勢いをもち、巨大な破壊力をともなっているのに、それへの制度的な規制がほとんど働いていないように見えます。主権国家秩序からの移行の道しるべとして、ヨーロッパの動向はとても重要です。もしヨーロッパも自らの運命をコントロールできず、ヨーロッパ・レベルで現在の難局に立ち向かうために主権国家から構成される仕組みを修正しようとしないのなら、民主主義そのものが困難に陥るかもしれません。

田所ウェストファリア的秩序からの移行については、私はウィリアムズさんより懐疑的なようです。率直にいってその耐久力に驚いているのです。世界の多くの場所で、むしろ国民国家モデルが最盛期にあるようにすら見えます。また、それとの関連で、民主主義の性質についてもっと根本的な疑問があります。ルソーなど西洋の多くの古典的政治思想家が、民主主義は都市国家においてのみ機能するものと見なしました。また、モンテスキューは普遍的秩序には信を置いていませんでしたし、カントは国家連合について語ったものの、(解釈の余地はありますが)各国が立憲的な民主国家になるはずだと考えていたように思います。国家の適正規模とそれぞれにおける民衆(demos)のあり方に関して、いろいろな考え方があるのです。ヨーロッパでは、EUの市民(demos)とEU内の国家間関係のあり方に関わる問題が、民主主義を考える上でもっとも重要な点のように思います。この根本的な問題について、どうお考えでしょうか。

ウィリアムズグローバルなスケールで見ると、民主主義には三つの基本的立場があります。まず、田所さんが触れたように、国民(nation)レベルが最大規模だと捉える立場。そこで問題となる変数は、国境線で区切られた領域内での統治を可能とする制度と、共通のアイデンティティー感覚です。これらがなければ、民主主義の主体たるべき民衆(demos)が存在しえません。二つめの立場は、コスモポリタン(世界市民)民主主義で、各国を民主的共和国とするカントのモデルに基づく場合が多く、それが民主的平和という国際秩序につながります。そこでは、共和制の広がりとともにおのずと暴力がふるわれなくなるので、グローバルなレベルでの強力な制度の必要性が小さくなるとされます。一般的に、コスモポリタンの立場はグローバルな民主的制度の設立に楽観的です。その多くが基本的人権の保護に関心を持っていますが、権限をなるべく低次の政府に付与することで、強力な中央集権的制度がグローバルなレベルでほとんど必要ないようにできると考えています。

田所それは、EUでよくいわれる補完性原理(subsidiarity)の考え方ですね。

ウィリアムズそのとおりです。ただし、その概念的なベースは依然として近代の領域国家の考え方で、それが多少なりとも脱中心化されうるということなのです。最後に、三つめの立場は脱国家主義とか多中心主義で、世界政府や真のグローバルガバナンスはウェストファリア的な体系に阻まれて実現にはほど遠く、考えるに値しないと見なします。よって、民主主義の主体たる民衆といってもdemos(単数形)からdemoi(複数形)、つまり様々な民衆に移行するというモデルが関心の中心にあります。様々な利害が連携・連関し、実際になんらかの結果を出し、様々な規範が公式に制度化されずに非公式な形で連合していくことに関心があるのです。ベネディクト・キングズバリーなどの識者は、強制力をもつ公式的法律に依拠する強力な国家を基礎としたウェストファリア的観点から解放されるために、国際行政法のような「中間」スペースでの新たなルール形成の過程に関心を払っています。この議論では、中間レベルの意思決定者間の相互調整によって、それぞれの分野における規制が実現し、それは国家の制約からある程度自律性を持ったものとなります。こういったトランスナショナルな規制を設ける諸機関と、その規制に影響を受けている、勃興しつつある下からの市民運動が結合すれば、論理的にはトランスナショナルな民主主義へ向かう政治的意識が国境を超えて形成される可能性があります。

田所国民国家が中心的な政治制度だと決め込んで、ナショナリズムの神話そのものを安易に前提とすることには、われわれも責任があるでしょう。しかし、ウィリアムズさんは国境をまたぐトランスナショナルな活動家について触れられましたが、国境をまたぐ話となると、人々はいささか無責任にならないかという点についてはどう考えるべきでしょうか。たとえば、日本の原子力発電の問題は国内でこそ切実な問題になっていますが、遠く離れた国々では、善意はあっても他人事という面が大きいでしょう。だとすると、トランスナショナルな民主主義という考え方は楽天的すぎるように思えるのですが。

ウィリアムズそうですね。民主的な「ノー」をつきつけるトランスナショナルな動きについては、過剰な楽観のおそれが大きいです。今日では、特にアラブ諸国で民主化エネルギーが高まり、より大きな政治・経済秩序の一部である既存の政治制度――民主的であれ非民主的であれ――への不満を、人々が噴出させはじめました。腐敗や独裁、政治における責任のがれに対する不満が強まり、それにともない選挙の投票率が低下し、政治制度への不信も高まっています。 2011年のアラブの春、ヨーロッパでの「怒れる人々」運動、ウォール街などで起こった占拠運動は、さまざまな場所にいる多数の人々が、政治がその責任を果たしていないと感じたことで起きた出来事でした。マグマのように地下に渦巻いていた不満が、それぞれの場所で、それぞれの時期に噴き出したのです。それぞれの抗議行動が相互に言及しあっていることから、これらの運動が意識的につながろうとしているのがわかります。この流れは2011年に起きてから現在まで続いていおり、今夏にはトルコ、ブルガリア、ブラジルでの抗議運動にそうしたつながりが見られました。国によって、政府に対して人々がいだく不満は異なりますが、人々がそれを世界中の国々の民主化闘争につなげています。このような運動は国内的であると同時に国境を超えてもいるのです。

田所こんな見解があります。こういったトランスナショナルな民主化運動はしょせん欧米の知的エリートのものではないか。中国の場合もそうですが、反政府的で既存の政治システムに反対を訴えている人々の多くが、実際にはエリート支配層よりも愛国主義的です。またエジプトでの事態に関し論評する識者たちは豊富な人脈をもつ一方、一般の人々を代表しているとは考えにくい。こうしたトランスナショナルな民主主義運動の代表性の問題、あるいはエリート的性格の問題については、どうお考えですか。

ウィリアムズ動の中心は若者と中産階級の人々です。一般的に、中産階級の人々は、自分たちは上下から圧迫されていると考えており、これがスペインやエジプト、そして他の国々でも強い傾向としてあります。つまり、こうしたプレッシャーの根底には階級があるということです。私は、それらの運動を単純にエリートが代表するものだとする見方は受け入れません。実際にはそれぞれの運動や課題によって多様な動きがあるからです。それに、歴史的に見れば、中産階級は民主主義の担い手として重要な存在です。とはいっても、事態はまだ進行中で、次にどうなってゆくかは誰にもわかりません。

田所ヨーロッパについていえば、これまでの地域統合のパターンが停滞している観があります。EUには、現時点で他の地域では試みもされていないこともあるし、またEUは超国家的機関にも国際機関にもならないのではないかと思えます。ドイツなどの一部識者は、日本はなぜ中国や他のアジア諸国と地域機構を立ち上げないのかとよくいいます。おそらく、彼らは東アジアの国家間関係や国家間紛争の深刻さについても、EU内の国家間関係が危機をもたらし、それが解決に至ったプロセスについても十分理解していないのでしょう。私としては、そうした長きにわたる国家間紛争を克服する上で、トランスナショナルな民主主義の運動の可能性にいささか懐疑的です。この点についてはどうお考えですか。トランスナショナルな民主主義は、こうした緊張を和らげられるのでしょうか。

ウィリアムズ今おっしゃった疑念は適切だと思います。私たちは危機に用心しなくてはなりません。危機は民主主義を危うくするからです。現に私たちは 9.11の後、民主的な権利と法の支配が後退し、弱体化したことを経験しています。民主主義か権威主義かという単純な二者択一ではなく、現実にあるのは連続体における選択です。危機によって、私たちは民主的なシステムやしくみから権威主義的なそれへと向かうことを強いられます。私は、緊縮財政とユーロ崩壊の不安にともなって、右のポピュリズムが台頭するのではないかと心配しています。これはとても気がかりです。民主主義が危うい瞬間にあるのです。

田所最後になりますが、国際政治を学ぶ多くの者にとって、トランスナショナルな民主主義のプロセスには中世を思わせる部分があります。つまり、一定の領域内でも最終的な忠誠の対象が多数あると、より暴力的になる危険が潜在しているようで、こうなるとあまり魅力的な秩序ではありません。国民国家の神話は、少数派の迫害や過剰なナショナリズムが表出してきたにせよ、多くの人々にある種の安心感ある空間を提供しました。おそらくここで根本的な問題は、トランスナショナルな民主主義運動は異議申し立てや反対はできるとしても、統治はできるのかという点でしょう。統治はますます難しさを増しているように見えます。統治能力に欠けるアマチュアのトランスナショナルな民主主義運動に、諸国家の運営責任を肩代わりしていくことができるのでしょうか。

ウィリアムズこの歴史的な瞬間にあって、私たちはまだ、国境線で区切られた領域国家以上に統治の民主的正統化を実現できる政治形態には行き着いていません。私たちが近い将来国家を退場させる、つまり国家を超越することはありません。またウィンストン・チャーチルの名言のとおり、民主主義は「これまで試した他のすべての統治形態をのぞけば最悪」なのですから、民主主義を止めようとすべきでもありません。大事なことは民主主義を置き換えることではなく、真の民主主義は国内からしか始まらないという点にあります。抗議運動は民主的な政府に責任を取るよう圧力をかけ、行き詰まり状態の打破につながる可能性もあります。国境を超えたエネルギーは民主的な意思の強化につながるもので、国家レベル、トランスナショナルなレベル、グローバルなレベルで、それぞれの意思決定機関の民主的な説明責任が重要だということを浮き彫りにする役割があります。私たちは、その理想にはまだほど遠いところにいるのですが、トランスナショナルな民主的抗議運動のエネルギーは、民主主義の将来にとって希望と楽観の一つの重要な源泉なのです。

田所洞察に富む楽観論を聞かせていただき、ありがとうございました。

2013年6月24日
東京・国際文化会館にて


プロフィール

Masayuki Tadokoro photo

田所昌幸
慶應義塾大学法学部教授。『アステイオン』編集委員長。

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メリッサ・ウィリアムズ(Melissa Williams)
トロント大学政治学部教授。トロント大学倫理学センターを設立し、所長を務める。
研究分野:政治学、民主主義論。
著書:Equality: A Critical Introduction (Routledge Contemporary Political Philosophy)など。