Vol.76 2012年度 特集 今、何が問題か 著者コメント

田所 昌幸
「心地よい停滞の中の不安」を執筆して

 私のような国際政治学者が伝統的に考えてきたのは、平和と戦争の問題で、経済学者は繁栄と貧困の問題でした。戦後日本も、民主的で平和で豊かな国を目指して日本人も努力してきました。もちろん日本の政治経済も対外関係も問題には事欠きませんが、現在地球上に生きる人類全体から見ると、こういった価値は非常によく実現されていると見るべきです。しかし今日の日本人が、おしなべて悲観的で不機嫌なのはなぜなのかというのが、この論文の問題意識です。

 今はともかく、このままではやっていけないという将来に対する不安が一つの答えなのは間違いないと思います。実際自然災害や、経済危機や、外国との紛争がおこれば、再び食べることや生き抜く術に意を注がねばならない社会に立ち戻るでしょう。だが、この場合課題ははっきりするので、「漠たる不安」というものに悩むことは恐らくないでしょう。

 しかし、民主的で平和で繁栄すればするほど、人間はどうがんばってみても一人で老いて死んでしまうという運命からのがれられず、自分の存在が実に小さなものだということを思い知らされるのではないのかなという気がします。世界には圧政も暴力も飢餓もまだまだ多いのですが、もし平和と繁栄と民主主義という人類が目指したものが実現されればされるほど、現代の日本人の不安はグローバルな意味のある問題かもしれないと思っています。

 あまり普段やりつけない議論をしたので、今の私にはそちらのほうが「不安」ですが。(口述)

著者プロフィール田所 昌幸(たどころ まさゆき)
慶應義塾大学法学部教授。1956年生まれ。京都大学大学院法学研究科中退。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授などを経て現職。専門は国際政治学。著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論 新社、サントリー学芸賞)、『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(編著、有斐閣)など。

苅部 直
恐怖とのつきあい方

 3.11後の震災と原発事故に直面した人びとの戸惑いを前に、1970年前後に関東大震災再来論を唱えた清水幾太郎のことを想い出した。

 清水に限らず、自然を恐れて完全に征服し抑え込もうとするか、あるいは自然の恵みを享受しながら順応していくかの二者択一で人びとは物を考えがちである。しかし、そうではない自然との付き合い方も恐らくある。

 清水は、自然への自堕落な没入の例として鴨長明『方丈記』を挙げるが、長明の隠遁先とて語義どおりの自然では決してない。道がとおり、森林にも人の手が一定程度入った場所である。人間社会において、先の二者択一に回収されない、きめ細やかな自然との付き合い方を現実的に考えることこそ大事であろう。

 そして、このことは人間社会における暴力とのかかわり方ともパラレルな問題だといえる。暴力に暴力で対抗するか、逆に暴力をひたすら忌避しパラダイスを求めるかといった二者択一に回収されない、暴力を部分的に扱いつつ最適解を求めるような政治のあり方をもっと模索してもいいだろう。(口述)

著者プロフィール苅部 直(かるべ ただし)
東京大学大学院法学政治学研究科教授。1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、『丸山眞男』(岩波書店、サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、毎日書評賞)、『歴史という皮膚』(岩波書店)、『阿部公房の都市』(講談社)など。

細谷 雄一
「太平洋(パシフィック)の世紀」に

 日本の停滞が強調され、中国の急速な台頭が注目されがちだが、世界史的にみれば今の日本は「最良の時代」となる可能性もある。1980年代の日本はバブル経済の下では、国内では品格が欠けた拝金主義が横行し海外では日本異質論が広く浸透していた。当時は世界の中心が「大西洋地域」であり、そこから眺める日本は不安な存在であったはずだ。

 ところが、今日、気づいたら世界の中心は「太平洋地域」となり、アメリカと中国が圧倒的な存在となっている。日本はそのような環境の、中心にいる。もはや日本は「ファー・イースト(極東)」の周辺的存在ではない。世界からの批判は現在では中国に向かいがちで、むしろ日本のイメージは良好となり、そのソフト・パワーは向上している。この点からも、日本にとっては「最良の時代」になる見通しがある。

 しかし問題は日本にとって比較的良好な環境が整う中で、日本自らが責任と自覚をもって必要な行動をとることができるか否かである。日本国内に無気力感や停滞感が色濃く、日本自らが歴史の形成に参画するという意欲が乏しいことは懸案すべきであろう。今回の論考では、こうした国内的課題まで議論を展開しきれなかったが、図らずも他の論考がこちらを扱っていて相互補完的になったかと思う。むしろ、新しい時代の国際政治のダイナミズムを描くことに力点を置いた。(口述)

著者プロフィール細谷雄一(ほそや ゆういち)
慶應義塾大学法学部教授。1971年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は国際政治学・外交史。北海道大学法学部専任講師、敬愛大学国際学部専任講師を経て現職。著書に『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)など。

池内恵
「アラブの春」がもたらしたもの

 エジプトやチュニジア、リビアなど、「アラブの春」の政治変動について、日本でも多くの報道がなされた。しかしそれでも、歴史的・政治社会的脈絡が充分に理解されているとはいい難い。今回の論考では、アラブにおける政治変動を理解する上での知的枠組を考えてみた。

 アラブ世界の変動が広範囲に及び、各国の政権や地域政治・国際政治の多様な反応が出てきて不透明になるにつれて、「民主化しているとは言えないのではないか」という懐疑論や、「しょせんは権力闘争に過ぎない」といった冷笑論が増えてきた。エジプトでの革命的な変容が刻一刻と報道された時期の多幸感(ユーフォリア)が去ったことは当然である。必ず各国で民主化が進むと仮定する必要もない。そういう意味では懐疑論にも一理あるのだが、現実の変容過程を見ずに「アラブが民主化するはずがない」「どうせイスラームが出てきて独裁だ」といった単調な見方や冷笑に浸るのもどうかと思う。

 思想や情報空間や政治的議論を見ていれば、「アラブの春」というべき社会の側からの動きは確かに存在する。新たな情報ツールによって武装した若者世代が政治舞台に躍り出て、政治の透明性が飛躍的に高まり、権力者の説明責任が格段に高い水準で求められるようになったことは不可逆的な変化である。 ただしこのような社会からの異議申し立てに対して、アラブ各国の政権の反応は異なった。それはどのような要因によるのだろうか? それがこの論考で検討した課題である。

 たとえばエジプトとシリアは、かつて「アラブ民族主義」「アラブ社会主義」を唱導し、政治学では同様に権威主義体制と呼ばれてきたが、大規模デモに対する政権の反応は異なり、当面の帰結も異なる。それでは何がこのような相違をもたらしたのか?

 アラブ世界は今、壮大な「実験」の過程にある。共通の文化圏に属する諸国が、共通の社会からの異議申し立てに対して、異なる反応を示し、異なる政治変動の過程を歩んでいる。「条件を同じにして、同じ刺激を与えてみる」というのは自然科学の実験の鉄則だが、社会に対してそのような実験を行うことは普通ならできないし、すべきでもない。しかしアラブ諸国は今、情報メディア空間や世代交代による大規模な社会の側の変化の波の中で、そのような政治・社会実験を行っているのだ。

 この実験は全世界の注視する中で行われている。アラブ世界はもう神秘化される、専門家だけのものではなくなった。アラブ諸国の政治はよく見ていれば専門家でなくても十分に「分かる」。そのことを読者に伝えたい。(口述)

著者プロフィール池内恵(いけうち さとし)
東京大学先端科学技術研究センター准教授。1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。日本貿易振興会アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授、アレクサンドリア大学(エジプト)客員教授を経て、現職。専門はアラブ研究。著書に、『現代アラブの社会思想』(講談社)、『アラブ政治の今を読む』(中央公論新社)、『書物の運命』(文藝春秋)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、サントリー学芸賞)など。

張競
魂の幸福を語り合うこと

 東日本大震災や福島第一原発事故をきっかけにして、日本の一般市民も大量生産・大量消費の問題に眼を向けるようになったのではなかろうか。この問題は解決策を見いだすのが困難で、ジレンマとして顕在化してきた側面が色濃い。それをふまえ、魂や人間のつながりというものについて再考すべきではないかと考え、筆を執った。

 人間の幸福は必ずしも物的なものに基づくのではなく、他者からの承認や尊敬によるところも大きい(この点を考える上で、山崎正和氏の『社交する人間』という作品がヒントとなる)。今後の日本社会が考え直していくべき課題の一つとして、非物質的側面に立脚した幸福というものがあるのではなかろうか。私自身、今後もこうした課題について考えつづけていきたいと思っている。(口述)

著者プロフィール張 競(ちょう きょう)
(明治大学教授)1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『恋の中国文明史』(筑摩書房、読売文学賞受賞)、『近代中国と「恋愛」の発見』(岩波書店、サントリー学芸賞受賞)など。

鷲田清一
しんがりの思想 知性の公共的使用のために

 今まで日本社会は右肩上がりの成長を前提としてきました。高度経済成長時代が過ぎ、バブルが崩壊して何年もたっているのに、多くの人はいまだに拡大思考から抜けられないようです。けれど、そろそろ右肩下がりの時代をしっかり見据えて、いかにダウンサイジングしていくか、いかに質的に成熟していくかについて考える必要があります。そのときには強いリーダーシップ以上に、全体のことに気配りできる、よきフォロワーシップが大切になってくる。それが「しんがりの思想」です。ただ今回書いたのは、よきフォロワーとなる市民とは、といった姿勢の問題だけで、具体的にどのように取り組んでいくべきかについてさらに考えないといけません。
 これまで多くの日本人は、組織に依存する生き方をしてきました。上司の命令や組織の論理に従うのは、一見「公的」な行動のようですが、カントに言わせると、これは自分の職務を無批判に全うしているだけの「理性の私的利用」となる。本来は組織の論理を越えて、市民社会の一員として自分の理性や知性を公共的に用いなければならないのです。 近頃「パラレルキャリア」ということがよく取り上げられていますが、職場の中での役割だけでなく、自分の住む地域、働く地域にどのようにかかわり、どのような活動をするかが大切になってくるでしょう。一見それは本業とは関係ないように見えるかも知れないけれど、回りまわって、仕事をする上での幅やセンスに活かされてくるはずです。
 企業でもCSR活動が重要視されて、社会との関わりを大切に考えるようになっています。ただ、日本の老舗といわれる企業では、ほとんどと言っていいほど、家訓としての経営哲学をもっていて「儲けすぎてはいけない」という趣旨の戒めがされていたそうです。渋沢栄一をはじめとする明治の企業家も、この国に何が必要かを考えて起業しました。今、企業はよりコストのかからない生産環境と労働力とを求めてさかんに海外展開をしていますが、単純に利潤を求めるだけではなく、文明の中で本当にその国に何が必要かという視点をもつべきだと思います。そうでなければ、日本がこれまで大切にしてきた経営哲学が崩れ、日本の経済活動に敬意が払われなくなってしまうのではないでしょうか。
 経済成長に陰りが差しても一目置かれるような存在であり続けるために、成熟した市民性を身につけていかないといけないと考えています。(口述)

著者プロフィール鷲田清一(わしだ きよかず)
(大谷大学文学部教授)1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学・倫理学専攻。関西大学教授、大阪大学教授、大阪大学総長などを歴任。著書に『分散する理性』『モードの迷宮』(ともにサントリー学芸賞)『人称と行為』『だれのための仕事』『悲鳴をあげる身体』『メルロ=ポンティ』『「聴く」ことの力』『思考のエシックス』など。

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