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ニュースリリース
  • (2017/11/9)

第39回 サントリー学芸賞 受賞のことば

<政治・経済部門>

伊藤 公一朗(シカゴ大学公共政策大学院ハリススクール助教授)
『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社)

 経済学と聞いて真っ先に思い浮かべられるのは、数式を用いて経済現象の理論分析を行う経済理論である。しかし近年の経済学のもう一つの柱は、理論的予測が本当に現実社会で起こっているのか、そうでなければなぜなのかを検証する「実証分析」という研究領域だ。各種のデータを収集し、統計学や計量経済学の手法を用いてデータ分析を行うことで、さらなる経済理論の発展や、より良い政策の形成へ寄与することを目的としている。
 本書では、私が共同研究者と行った環境・エネルギー経済学における実証研究を紹介すると共に、近年の様々な実証研究を具体的事例として用いることで、実証分析における最新のデータ分析手法を解説している。特に、専門家ではない方に対しても実証分析への門戸を開きたいという思いから、数式を一切使わずに方法論の基礎を解説していくという、従来とは異なったアプローチを採用している。
 欧米諸国では経済学を中心に発展した実証分析が、学問の世界を超えた広い範囲で実社会との結びつきを持つようになってきている。例えば、政府が政策議論を行う際、実証分析結果が一つの科学的なエビデンス(証拠)として用いられる機会が増えてきている。また、企業経営の文脈でも、経済学などの学問で用いられるランダム化比較試験やパネル・データ分析等の方法を使い最適な経営戦略を探ることは常識となりつつある。
 一方で、データ分析は一部の専門家だけのものと捉えられてきた日本では、そういった考え方に触れられる機会が圧倒的に少ない。特に、本書で焦点を当てた「いかにして単なる相関関係ではなく因果関係へと迫るのか」という考え方については公教育で取り上げらえることは非常に少ない。本書が多くの方にとって、データ分析の力や限界について触れられるきっかけになってくれれば嬉しい。
 研究者としてこのような名誉ある賞をいただいたことは今後の研究活動へ大きな励みとなる。私の専門とする環境・エネルギー経済学の分野は、気候変動、大気汚染、枯渇資源とエネルギー問題といった将来世代にとって重要な課題を抱えている。先人たちの地道な努力で徐々に明らかになってきたことも多いが、まだまだ研究が必要な課題がほとんどである。研究者として走り始めた現在の初心を忘れずに、少しでも世の中に役立てる研究成果を挙げられるよう今後とも精進していきたい。

 

宮下 雄一郎(松山大学法学部准教授)
『フランス再興と国際秩序の構想 ―― 第二次世界大戦期の政治と外交』(勁草書房)

 この度、サントリー学芸賞を賜ることとなり、大変光栄に存じます。選考委員の先生方、並びに私を支えてくださるすべての方々に心より御礼申し上げます。
 私は、政治学と歴史学の二足の草鞋を履きながら研究しています。一次史料を用いながら、歴史に登場する人間の決断、さらには彼らの思惑や苦悩といった要因を探っています。史実を探求し、歴史学の方法論をとる一方で、政治学に根差した研究テーマを選んでいます。たとえば、戦争を論じるにしても、その政治的側面に重点を置いています。戦闘の経緯よりも、戦争に伴い生じる国家間の力関係の変動や政治体制の移行に注目しているのです。
 以上のような問題意識に沿い、第二次世界大戦期のフランスに関する研究を行いました。1940年に早くも敗れ、没落したフランスが、1945年には戦勝国、さらには大国として再興を果たしたのですが、そこに至るまでの逆転劇には、政治学の研究課題がたくさん詰め込まれています。拙著では、フランスの統治機構の正統性をめぐる闘争という国内政治の文脈と、戦後に向けた国際秩序構想とそれをめぐる外交という国際政治の文脈に焦点を当てました。自由フランスとその系譜に連なる抵抗運動がこの二つの課題に取り組み、得ようとしたのは大国の地位です。連合国のなかで最大のパワーを誇ったアメリカに「半人前」の亡命アクターとして扱われた自由フランスは、まず「一人前」のアクターとして認められる必要がありました。それが正統性をめぐる政治の一端です。そして没落した状況から立ち直り、戦後再び世界の主要な国際政治アクターとして重きをなすことを目指した自由フランスの政治エリートは、自国を利する国際秩序を構想し、それを実現させようと外交を展開したのです。フランスの外交文書を丹念に追うことで、平和主義の文脈で語られることの多かった「西ヨーロッパ統合」構想もフランス再興のための国際秩序構想の一つであることが見えてきました。
 歴史学の要である一次史料を使っていなかったらこうした事実は見えてこなかったでしょうし、政治学の視点を欠如させていたら、国際政治アクターにとっての正統性の重みや、国際秩序というマクロな視点も見過ごしていたかもしれません。拙著は、政治学と歴史学の双方の視点を必要とする国際秩序構想史という分野の開拓を目指しました。マクロな視点に加え、政治的なヴィジョンをめぐる人間の葛藤や苦悩も明らかにすることができ、人文・社会科学の醍醐味を存分に味わえる方法論だと思います。今後、いかなる研究テーマに取り組むにせよ、こうした醍醐味を引き出すべく歴史学と政治学とのバランスを大切にしたいと思います。

<芸術・文学部門>

加藤 耕一(東京大学大学院工学系研究科准教授)
『時がつくる建築 ―― リノベーションの西洋建築史』(東京大学出版会)

 サントリー学芸賞の栄誉を賜り感激しております。ご関係の皆様に深く御礼申し上げます。
 私はこれまで西洋建築史、なかでも中世のゴシック建築を中心的な研究対象としてきましたが、本書は限定的だった自身の研究関心を拡張する挑戦でした。
 建築の観点から考えたとき、現代は「近代」から「次なる時代」への過渡期ではないかという仮説が、本書の出発点です。規格化・標準化にもとづき新築の住宅を建設する、モダニズムに代表されるような20世紀の建築理論を支えたのは、近代の圧倒的な人口増加や戦災復興でした。しかし現代社会が直面している人口減少や空き家問題は、建築に根本的な変化を求めており、つくること一辺倒だった建築のあり方が変化しつつあります。近年のリノベーションの流行はその一側面です。
 近代の成熟とともに、建築といえば新築のこと、と考えられるようになりました。近代に成立した建築史学も同じく、歴史上の建築を新築された時代ごとにカタログ化してきました。本書では、建設年代で整理してきた従来の建築史を「点の建築史」、再利用されながら変化を続けてきた建築の歴史を「線の建築史」と命名しています。本書は「線の建築史」によって西洋建築史を書き替えようという試みです。
 建築の再利用は、歴史のなかで当たり前に繰り返されてきたものでした。建築家たちは、新築ばかりでなく再利用においても、その創造的な能力を発揮してきたのです。それではなぜ、現代の常識はそれとは異なるものなのか。その点を考えたとき、本書の枠組ができあがりました。既存建物を取り壊し、別の建物を新築する「再開発」は16世紀にその萌芽が登場し、現代まで続きます。この建築観が登場した背景には中世の建築を野蛮(ゴシック)と蔑む価値観の変化がありました。一方19世紀に登場する「文化財」は、建築の破壊・改変を野蛮(ヴァンダリズム)として糾弾します。このとき文化財は、野蛮(ゴシック)に対する良き趣味(ルネサンス)の干渉を剥ぎ取るため、「時間の巻き戻し」を行いました。文化財となった建築は、時間の蓄積を剥ぎ取られ新築当時の姿に戻されたのです。20世紀には「再利用」はすっかり沈潜し、既存建物に対する態度は「再開発」と「文化財」の二者択一となりました。それらはいずれも「建築=新築」という暗黙の了解にもとづく選択肢だったわけです。
 本書は、現代の社会状況を反映した西洋建築史学であり、その根底にはこれまで取り組んできたゴシック研究があります。建築を専門とする人にも、そうでない人にも読んで欲しいと願いながら執筆しました。この受賞はその願いを後押ししてくださるものと思います。心より感謝申し上げます。

 

金子 遊(批評家、映像作家)
『映像の境域 ―― アートフィルム/ワールドシネマ』(森話社)

 幼いころから他人と同じことをするのが嫌いで、行ったこともない遠い異境の地のことばかりを夢見ていました。自分より上の世代であったら、マーク・トウェインやジュール・ヴェルヌの冒険小説を読んで妄想をふくらませたことでしょう。幸か不幸か、わたしたちは物心ついたときからニュース、映画、ドキュメンタリー、インターネット動画などのさまざまな映像の奔流に取り囲まれてきたのでした。
 ですから、20代になって柳田國男の本を片手に奄美群島や沖縄の島々を旅してみても、ヴィデオカメラを片手にジャーナリストの真似をしてセルビアやイラクの戦地を歩いてみても、どこか映像で見たできごとを再確認するような実感しか得られないのでした。
 そんなふうに行きづまっていた時期に、映像芸術の臨界を切りひらいてきた実験映画や映像アートの世界に惹きつけられるようになりました。戦前のパリにシュルレアリストの詩人がいたように、戦後のフランスやアメリカで活躍したアートフィルムのつくり手たちは、映像言語を刷新する映像の詩人でした。その多くが実際に詩人、思想家、美術家、写真家、パフォーマーの出身でした。彼/彼女たちの創造行為を考察し、「映像にとって詩とは何か」という問いに素手でぶつかったのが「映像詩の宇宙」という文章です。
 やはりその時期に、北米やヨーロッパや日本などの先進国ではなく、いわゆる「第三世界」や「新興国」と呼ばれてきた地域の映像作品を意識的に研究するようになりました。わたしの場合、作品を鑑賞するだけでは満足できず、実際にアメリカとメキシコの国境をわたり、サンパウロにあるシネマテークに通って浴びるようにブラジル映画を鑑賞し、宮古群島や八重山諸島を島伝いに渡り、ヨルダンから入ってパレスチナとイスラエルを旅しなくてはなりません。ワールドシネマを渉猟して論じることは、映像メディアに包囲されている時代に生きるわたしが、ざらりとした現実世界に触れるための契機となりました。
 今後は映像、写真、音楽、文学、民話、民間信仰、祭儀などを論じながら、日本列島におけるフォークロアを、サハリン、宮古、八重山、台湾、フィリピン、インドシナ半島、ニューギニアなどの旧植民地や近隣地域との連続性で考察していく、比較民族学的な文化批評に力点を置いていくつもりです。そのために鳥居龍蔵、松岡静雄、岡正雄、鳥越憲三郎、大林太良ら民族学者の残した仕事を批判的に継承し、映像とフィールドワークを駆使した境界領域で研究を進めたいと考えております。
 最後になりましたが、本賞の選考に関わって下さったみなさまに心よりお礼を申しあげます。

<社会・風俗部門>

遠藤 正敬(早稲田大学台湾研究所非常勤次席研究員)
『戸籍と無戸籍 ―― 「日本人」の輪郭』(人文書院)

 日本が「世界に冠たる○○」として誇るものは数あれど、戸籍も法務省官僚にいわせれば「世界に冠たる戸籍」なのだそうである。だが、多くの国民は生を受けた時から戸籍に登録されながら、戸籍の存在意義はといえば首を傾げる。その一方、戸籍のない「日本人」が自らを「非国民」などと卑下して窮屈に生きる現実がある。
 いうなれば私の戸籍制度をめぐる研究は、生来の天邪鬼気質の産物である。本書を執筆する誘因となったのも、メディアでの無戸籍問題の語られ方への強い疑問である。すなわち、戸籍がないと参政権、旅券、就学、婚姻・・・何もかなわず無戸籍者は“不幸”だ、という具合に。あたかも戸籍が「国民」たる生活の源泉であるかの如く誇張する、こうした言論や風潮こそが、無戸籍者に対する社会の差別的視線を誘引し、また助長してきたのではないか。
 法学畑でない私は、政治学の問題として戸籍の国家的意義を考えてきた。実際の法制度をみれば、戸籍への登録によって受ける恩典は昔も今も存外に少ない。そこで明治国家は個人を戸籍に取り込むことを通じて「家の一員」ひいては「皇国臣民」という意識を醸成せんとした。その成果か、戸籍は天皇・皇族や外国人が記載されないなど不可思議な性格をもつものの、大半の国民は異議もなく戸籍に「自然に」同調し、「正しき国民」としての安心感を得る。戸籍が生み出す序列や差別も、国家からすれば統治上の合理性があるのだろう。
 とはいえ、欲望の赴くままに個人が躍動する近代社会では、移住労働者、海外に定住した移民、戸籍を消して徴兵を逃れる者など、戸籍の秩序と無縁に生きる「日本人」があった。「国家百年の大計」として出立した戸籍制度の国民管理機能は、人間のいきいきとした生活実態を的確に把握できないという弱点をさらけ出したのである。そうした戸籍の孕む矛盾をめぐる官僚の通達や回答などの「先例」を洗い直すことで、原理主義と機会主義とが混在した「日本人」統合の不条理を描こうと努めたつもりである。
 多様性の尊重、寛容の精神はどこまで普遍化されうるのか。今日、世界の国家が直面している問題である。だが、戸籍制度は多元化する国民や家族の内実と乖離する一方である。戸籍の有無にかかわらず、多様な“表情”をもつ国民の参与を受け入れる社会こそが、民主主義社会の理想像ではないか。これが本書での主張であり、今後も追究したい課題である。
 戸籍という厄介にして陽の当たらぬテーマに没頭した拙著を受賞作に選ばれた選考委員の方々のご勇断、そこに至るまでの過程は甲論乙駁の様相であったものとお察しする。「籍が汚れる」などという俗語があるが、このたびの受賞という悦ばしき事実が自分の戸籍に書き込めるならば、これを「籍が映える」と称して差し支えあるまい。

 

福間 良明(立命館大学産業社会学部教授)
『「働く青年」と教養の戦後史 ―― 「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩書房)

 このたびは、かくも栄誉ある賞をいただき、厚く御礼申し上げます。じつに光栄でありますのと同時に、身の引き締まる思いです。
 私はこれまで、戦後の戦争体験論や戦争観の変遷を歴史社会学的な切り口で考察してきました。このたびの拙著では、戦後の人生雑誌――「生き方」「読書」「社会批判」を扱う主に勤労青年向けの教養誌――を扱ったわけですが、このテーマに出会ったのは、従来の研究の半ば延長であり、しかしながら、偶然の産物でもありました。以前に戦後初期の日本戦没学生記念会で活動していた方に話をうかがう機会があったのですが、その方が高校生のころに同会に関心を持ったきっかけとして挙げられたのが、『人生手帖』『葦』といった人生雑誌でした。
 当時の私は、恥ずかしながら、これらの雑誌を知らなかったのですが、実際に手に取ってみると、驚かされることが多くありました。義務教育を終えてすぐに働き始めた勤労青年が主要読者でしたが、誌面には、文学・哲学・思想に関する論説や文献紹介がたびたび掲載されていました。読者たちが「生き方」や「悩み」を論じたものも多く載っていますが、そこでは、トルストイ、マルクス、サルトルなどに言及した文章も散見されます。勤労青年たちは、なぜ、経済的利得に結びつかない人文社会科学の知に関心を持ち、「実利を超越した生き方」を模索したのか。こうした関心から、人生雑誌を読み込んできました。
 そこで見えてきたのは、大衆レベルの教養主義と戦後の格差・貧困の結びつきです。学業にどんなに優れていても、家計の困窮のため、義務教育より上に進めない。その悔しさやコンプレックスが、寸暇を惜しんで読書をし、人生雑誌に投稿し、掲載をめざす営みを突き動かしていました。それは、同じ煩悶を抱えた各地の読者たちがつながりあう「想像の共同体」を成り立たせたのと同時に、知的なものにふれる自負、さらには「実利のための勉強」に齷齪(あくせく)する「進学組」への優越感をも、生み出していました。
 もっとも、難解な言葉遣いで知の世界から彼らを排除するかのような知識人への反感も、しばしば綴られていました。しかし、それは決して、知的なものへの憎悪に起因していたのではなく、むしろ、その憧れに根ざしていました。「反知性主義的知性主義」とでも言うべきものが、そこには見られました。
 知への憧れと反発が結びついた人生雑誌の戦後史は、勤労青年がいかなる社会背景のもとで、どのような教養文化を生み出していたのかを指し示すとともに、戦後の労働環境や貧困、格差といった社会構造をも批判的に照らし出しています。さらに言えば、いまや、こうした大衆文化が成立しにくい現代の状況を問い直すうえでも、示唆的なものがあるのかもしれません。これからも、大衆教養主義や「格差のメディア史」を念頭に置きながら、戦後という時代を読み解いていきたいと思っております。このたびは、ありがとうございました。

<思想・歴史部門>

左地 亮子(国立民族学博物館グローバル現象研究部機関研究員)
『現代フランスを生きるジプシー ―― 旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』(世界思想社)

 フランスのジプシー、マヌーシュの日々の暮らしを描いたこのささやかな民族誌に伝統と栄誉ある賞を授けていただき、感慨無量の思いでおります。関係者のみなさまには深く感謝申し上げます。
 「旅の人々」とも呼ばれるマヌーシュは、第二次世界大戦後まで活発な移動生活を行ってきたヨーロッパのノマド(移動民)ですが、今日では、都市周辺の空き地や公営宿営地に「キャラヴァン」(キャンピング・トレーラー)をとめ、定住性の高い暮らしを営むようになっています。定住化が進行する中でキャラヴァンに住み続けるマヌーシュの姿は、しばしば、社会的排除や貧困、あるいはノマド文化の衰退を示すものとして否定的かつ一面的に捉えられています。しかし、わたしが文化人類学のフィールドワークを通して出会ったマヌーシュは、こうした側面に還元できない創造的な生の営みを繰り広げていました。マヌーシュは、「キャラヴァンに住まう」という身体的かつ社会的な実践を通して、定住化に伴う社会変化を独自の方法で生き、他者(定住民)の世界の只中で自らの生とそのための空間をしなやかに編みあげていました。本書が描きだそうとしたのは、このようにキャラヴァンという自らの身体とともに移動する住居を物質的な足がかりとして、日常の多層的な生活世界の中で変化する他者や環境と絶え間なく交渉し、共同性を紡ぐ人々の姿です。
 社会変化の中で共同体とノマディズムを再編し、「住まう」という日々の営みの中に固有の身体性や共同性を刻みこむマヌーシュの事例は、ノマド文化の現代性と力強さを示すものです。そして、一見きわめて特異に見えるかれらのノマディズムという生き方は、旅へと向かう、あるいは移動を強いられる、わたしたち「非ノマド」の現代的経験を新たな角度から照らしだすものでもあります。ひとの移動は、しばしば困難や痛みの言葉を通して語られます。とくに、グローバル化する世界の中を動く移民、また、幾多の人為的自然的災害により「ホーム」を奪われる難民の姿を目にする今日ではなおさらです。しかし、徹底した定住主義が浸透する現代都市社会を生き抜くマヌーシュの姿からは、「動きの中の生」の可能性も見えるような気がします。移動や変化を根付きや居場所に対立するものととらえる定住型の社会構造が限界を迎えつつある時代にあって、動きの中に身体をそわせ、環境の変化を感受しながら生活を更新してきたかれらノマドの知や創造する力に学ぶことは多いはずです。わたしもまだその一端を垣間見ただけにすぎません。本賞受賞を励みとして、これからも「旅する人々」のもとで〈共にある〉空間について学び、現代の市民社会を生きるマイノリティをとりまく問題、そして環境や社会の変化の中で問い直される定住型社会構造の課題に取り組んでいきたいと考えております。

 

前田 亮介(北海道大学大学院法学研究科准教授)
『全国政治の始動 ―― 帝国議会開設後の明治国家』(東京大学出版会)

 19世紀後半の「極東」の島々の国民国家形成の歴史を、21世紀に論じることにどのような意味があるのか。本書は、歴史研究者としての自己形成期に直面した、そうした葛藤の末にできあがったものです。
 後発国家において議会制や政党政治がなぜ/どのように定着しえたのか、という問いは、1960年代から80年代の歴史研究の一つのトレンドでした。他方で、私が研究をはじめた2007年頃までには、現実の議会制や政党政治への不信感と相まって、そうした問題設定がやや古色蒼然としたものと感じられていたように思います。日本の近代化が社会的亀裂も小さく相対的に低コストで実現したこと、その「成功」が規範的な含意を伴って評価されがちだったことが、近代化の象徴たる議会制の導入局面の分析から、歴史家を遠ざけてきたのかもしれません。
 当初の私の研究の動機は、過去の史料のなかに反直観的な事象や相関関係を見出したときの感動にあり、その点はいまも変わらないと思います。ただ研究を進めるなかで、上記の先学たちの仕事には、同時代のマルクス主義史学との格闘に或いは支えられた、政治権力の社会的基盤への感度があったことに気づきました。また、私の学生時代にも、徳川時代に蓄積された旧慣が清算される過程についての歴史研究の進展があり、議会制の導入を、近代的な国家―社会関係への再編として位置づけることが重要ではないかと考えるにいたりました。
 本書のエピグラフでは、日清戦争の外交指導で有名な陸奥宗光が、第一回帝国議会の閉会後に行った、あまり知られていない演説を引いています。この演説には「富の増進」と「富の配分」という印象的な対概念が登場します。陸奥は明治維新以来の20年における「富の増進」は顕著であり、近代化でいかに日本社会が激変したかを強調します。しかし、いまや問われるべきは「富の配分」である。それが、戊辰・西南という内戦に挟まれた明治維新後の10年とも、統治と資本主義の枠組みを創出した次の10年とも異なる、初期議会と呼ばれる時代についての陸奥の診断でした。
 「国民国家」という視角を本書が強調したのも、国民/社会統合をめぐる、より悪くない権力の創出という世界史的な課題に、向き合う必要を感じたためです。同一の政治共同体をさしあたり構成する、利害や価値を異にする他者を包摂した「富の配分」は、どのような条件で可能になるのか。ポスト・ナショナリズムと背反しないナショナルな政治的単位のあり方について、19世紀日本のナショナル・ポリティクス(全国政治)をとりあげた本書の分析に、現代的な示唆を提供できるところがあれば、大変幸いです。今後は、20世紀の帝国建設と国際金融の関係について研究を進めていく所存です。
 そして、未熟な本書に可能性を認め、より多くの読者に結びつけてくださった関係者各位には、心から御礼を申し上げたいと思います。

以上

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