塩出 浩之(琉球大学法文学部教授)
『越境者の政治史 ―― アジア太平洋における日本人の移民と植民』(名古屋大学出版会)
このたびは栄誉ある賞を賜り、たいへん感激しております。心より御礼申し上げます。
今日、移民あるいはヒトの移動という現象は、世界そして日本で非常に強い関心を集めており、しかもすぐれて政治に関わる問題として捉えられています。20年近く前、本書の出発点となる研究に取りかかったとき、今のような事態は私には想像もつきませんでした。しかし本書の執筆を通じて分かったのは、近代の始まりから現在に至るまで、移民という現象が極めて普遍的なものであり、また政治と深く関わり続けてきたことでした。
国家は一つの均質な国民から構成されるべきだという考え方からすれば、境界をまたぐ移民たちはイレギュラーな存在とみえるかもしれません。しかし本書でアジア太平洋地域における日本人移民の経験を考察した結果、近代という時代を通じて、実際にはそのような「国民国家」は存在しなかったと私は考えています。世界中でナショナリズムの圧力が高まった第二次世界大戦を経て、戦後から冷戦期に脱植民地化が進行し、さらに国境を越えるヒトの移動が厳しく管理されるようになったために、「国民国家」の実在が信じられたに過ぎないのではないでしょうか。
日本政治史で移民という主題を取り上げた研究は以前からありましたが、その多くは移民を外交上の争点や政策の対象としてのみ扱っていました。これに対して本書の特徴は、移民たちを主役とする政治史を描き出そうとした点にあります。移住先が外国であれ植民地であれ、日本人移民たちは現地で市民権や参政権をめぐって活発に政治活動を行い、また他民族との間には複雑で重層的な政治的関係が生まれました。人びとは、基本的にはよりよい暮らしを求めて新たな土地に移住したのですが、その結果として政治主体としての「民族」が生まれたのです。
ただし、ヒトの移動だけが「民族」の政治を生み出したわけではありません。近代の日本は主権国家体制に参入し、たび重なる国境の変動を経験しました。本書で主に取り上げた地域のうち、北海道、樺太、満州はその過程で日本の支配下に置かれた地域であり、またもう一つの重要な地域であるハワイは、王国からアメリカの領土となりました。このように変わりうる国境の内部を排他的に支配し、その住民を統治する主権国家が「民族」の政治を規定してきたことも、本書で論じたところです。
今後はこの「主権」の問題をはじめとして、日本そして東アジアの近代とは何だったのか、じっくり腰を据えて考えていきたいと思っております。受賞を糧として、精進して参ります。ありがとうございました。
白鳥 潤一郎
(北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター協力研究員)
『「経済大国」日本の外交 ―― エネルギー資源外交の形成 1967~1974年』(千倉書房)
これまで、戦後日本外交史は、講和から日中国交正常化に至るまでの戦後処理――「敗戦国」の外交――が研究の中心でした。これに対して拙著は、「経済大国」としての日本外交を描く一つの試みです。それは、自国の史料に基づいて自国の外交を分析できる環境が、この10年間である程度整ったことで可能となったことです。
経済大国化にともない、国際社会の様々な問題に責任ある主要国の一員として関与することになった日本は、自らの経済大国化とほぼ同時に国際経済秩序が動揺したことで難しい対応を迫られることになりました。外交課題が多様化し、国際社会でも様々な問題が噴出する中で、日本の外交もまた同時並行的に各課題に取り組む多元的なものへと変化しました。それは、一つ一つ戦後処理の課題をこなしていくという従来の外交の枠を超えるものです。多元的な時代の多元的な外交をいかに描き、分析するかが書き手に問われているのだと思います。
冷戦終結の前後を境に、「普通の国」をめぐる模索へと外交課題の重心は移りますが、それでも「敗戦国」であると共に「経済大国」だということは、日本のアイデンティティだったのではないでしょうか。第一次石油危機の前後、エネルギー資源外交の形成過程を検討した拙著は、あくまで「経済大国」日本の外交の一端を描いたに過ぎません。引き続き、地道に研究に取り組む所存です。
とはいえ、新興国の経済的台頭によって時代は一つの区切りを迎えたとも感じています。拙著に繋がる研究を始めた時には、1970年代を、主要国首脳会議に象徴される先進国間協調という「現在」まで続く国際経済秩序の起源として捉えていました。その意味が変わったことは明らかだと思います。今後は、ある程度長期的な視座からも、日本外交について考えていきたいと考えています。
不明を恥じるばかりですが、歴史を書くことがこれほどに難しいことだと、研究を始めた当初は理解していませんでした。史料の山に埋もれ、時に当事者にインタビューをする中で、むしろ知らないことが増えていくような感覚になりました。私に見えていることの背後には、関係者の苦悩や選択が山のように隠されている……文書や証言として残されるものは、あくまでも歴史の一部に過ぎないという当たり前のことを痛感する日々でした。様々な方々にご迷惑をおかけしながら、ようやく一冊の研究書にまとめることが出来ただけに、受賞は望外の喜びです。この場を借りて、これまでお世話になった皆様に改めて御礼申し上げます。
「なぜ歴史が書けるか――なぜか歴史が書ける」。生涯思索を続けた升味準之輔は喝破しています。悩みながらも真摯に史料と向き合い、この言葉を信じて戦後日本の歴史を書き続けていきたいと思います。
池上 裕子(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)
『越境と覇権 ―― ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』(三元社)
第二次世界大戦を契機に、世界美術の中心はパリからニューヨークへと移行したと言われます。この地政学的転換は、実際にはどのように起きたのでしょうか。本書は、ロバート・ラウシェンバーグという一人の美術家の越境的な活動を通して、この問いに答えることを目的としていました。
ラウシェンバーグは、1960年代に国際的なコラボレーションを精力的に行って現代美術の越境的なネットワークを形成する一方、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレではアメリカ人として初のグランプリを受賞するなど、アメリカ美術の覇権を象徴する作家でもあります。本書では、彼の国際的活動の足跡を辿りながらアメリカ美術の海外受容を分析し、その世界的台頭を、現代美術の初期グローバル化を成す、文化交渉的で双方向的なプロセスとして論じました。アメリカ美術を比較文化的に検証することで、これまでアメリカ中心的に過ぎた戦後美術史に一石を投じることができたと思っています。
とはいえ、当初からこのような大きな視点を持っていたわけではありません。研究の出発点は、ラウシェンバーグという作家の面白さに魅了されたというごく単純なものだったのに、調査を進めるうちに、彼が様々な形で戦後美術史の重要な局面と切り結んでいたことが分かり、研究のスケールがどんどん大きくなってしまったのです。その結果、一人の作家に焦点を絞りつつも、戦後美術史の流れ全体を俯瞰し、アメリカ美術を世界美術史の対象として相対化するという巨視的な枠組みの論考となり、本研究の完成には随分と長い時間をかけてしまいました。
アメリカ美術のカノンを内側から脱中心化することを意図した本研究は、まずは英語で発表すべきものでした。本書は、2010年にThe MIT Pressより出版した『The Great Migrator: Robert Rauschenberg and the Global Rise of American Art』の日本語版です。英語版の刊行後、国際シンポジウムの企画開催やアメリカでの展覧会のキュレーションなど、仕事の幅は大きく広がりましたが、本研究を日本語読者にも届けたいという気持ちも強く持っていました。1960年代に成立した「現代美術」というグローバルなシステムと、そこで繰り広げられる文化的アイデンティティをめぐるポリティクスは、今日の日本の文化や芸術をめぐる状況とも決して無関係ではないと確信していたからです。
その本書がこのような栄えある賞をいただくこととなり、大変嬉しく思っています。今後は日本の戦後美術の研究や展覧会の企画などにも携わりながら、いっそう精進していきたいと存じます。この度は誠にありがとうございました。
沖本 幸子(青山学院大学総合文化政策学部准教授)
『乱舞の中世 ―― 白拍子・乱拍子・猿楽』(吉川弘文館)
まずは、こうした機会を与えてくださった皆様に心より御礼申し上げます。
私は日本の中世芸能、特に今様や白拍子といった、今では存在しない、かつての流行芸能に目を向けて研究して参りました。決して王道とは言えないささやかな研究に光を当てていただきましたこと、感謝に堪えません。
高校までは演劇少女、大学では狂言にうつつを抜かしておりまして、もともと研究というよりは芸能をすることが大好きでした。そんな私が、ここ20年間、最も大きな影響を受けてきたのは、各地に伝えられてきた芸能です。
大学院生の頃には沖縄西表島の祭りと芸能に入れ込み、田んぼの草取りや、徹夜で500人の招待客のお弁当を詰める、そんな作業を手伝いながら、歌や踊りが祭りの中に生き、暮らしの中に生きる姿を目の当たりにしてきました。芸能が生きるということ、歌や踊りが生きる力になることを、ここで実感できたことは、本当にかけがえのない財産です。
この10年ほどは、主に中世芸能の足跡をたずねてきました。中世の祭りや芸能には、山鉾の祭りのような華麗さもありませんし、歌舞伎のような派手さもありません。しかし、どこかすがすがしい美しさがあって、それが私の心をとらえてきました。凍てつくような寒さの中で延々と一晩中続けられる舞や、動作もほとんどつかない語り芸……。現代の目にはあまりにもシンプルなのですが、夜という特別な時間の中で、繰り返すことで生まれる陶酔感や神聖さ、人の声が生み出してゆく世界の豊かさに気づかされ、はっとさせられることもしばしばでした。
私にとって芸能の現場に赴く楽しさは、自分の美意識や価値観とは違う世界に出会えることで、それは、現代の東京で生まれ育った私の感性を豊かにはぐくみ、今という時代や都市を相対化する座標軸を育ててくれました。
現在どこの芸能の現場も、過疎化や後継者不足などさまざまな困難を抱えています。しかし、一見つまらないものや、取り残されたように見えるものの中に、実は豊かな可能性があり、今の私たちが見失いつつある大切なものがひそんでいることがあります。そうした灯を絶やさないために、ひとつひとつの芸能のおもしろさ、中世という時代の息吹や皮膚感覚が伝わる研究をしていきたいと思いますし、同時に芸能の現場に元気を出してもらえる道を探しながら歩みたいと思っています。
このたびは、本当にどうもありがとうございました。
金沢 百枝(東海大学文学部教授)
『ロマネスク美術革命』(新潮社)
このたびは栄えある賞をたまわり、まことにありがとうございます。恩寵のように受けとめました。
ロマネスクの美とむきあうと、いつも心をうごかされます。ロマネスク美術は11世紀から12世紀、ヨーロッパではじめての共通様式として生まれ、流行しました。その後ゴシック美術の隆盛により影をひそめ、ふたたび光があたるのは、20世紀になってからです。
ルネサンス以降の美術の規範──写実的な人体表現、幾何学的遠近法による空間表現など──が、ロマネスク美術には見られません。じつはルネサンス的/古典主義的な美の規範も、ある時代と地域が生みだした特殊な考えだったはずですが、近代をへて世界中にひろまります。その自明性をうたがったのが20世紀の芸術家たちであり、ロマネスク美術を再評価したのもかれらでした。
ロマネスク美術のよさは、美的規範/束縛から自由なところです。古代ローマから多くを受けつぎながらも逸脱をおそれず、試行錯誤をくりかえしています。それは、のびのびとあかるい、中世の春の芽吹のような美術です。現代の私たちも試行錯誤の日々を生きています。ロマネスクの名もなき作り手たちの「冒険」は、私に、(おそるおそるですが)ロマネスク美術とはなにかについて、声をあげる勇気をもたらしてくれました。それがこの本です。
本書のあとがきに〈ロマネスクの美を見ることは、美の多様性に目を開くこと〉と記しました。美術にかぎらず、価値観のことなる他者との共存は、むろんたやすいことでありません。しかし、現代の日本および世界の状況に眼と心をむけるなら、私たちがこころざすべきことは、やはり、多様な他者との共存ではないでしょうか。
ロマネスク美術のほとんどはキリスト教美術ですが、とくに聖堂内の床モザイクや軒下の持ち送り彫刻などに、教義的解釈がむつかしい造形が数多くあります。研究対象として、未踏の沃野がひろがっているような感じです。これからは美術と神話、文学、民間伝承との関係も視野に入れつつ、できるだけながく、ロマネスクの旅をつづけたいと願っています。
また、専門とはべつに、このごろ興味をいだいている分野もあります。ヨーロッパの中世陶器と、その流れをくむ各地の民陶(18世紀)、そしてやはり18世紀の刺繍練習布(Sampler)などです。一見、ロマネスク美術とはかけはなれているようですが、通底するところもあり、それがなにかを考えてみたいのです。
木村 洋(熊本県立大学文学部准教授)
『文学熱の時代 ―― 慷慨から煩悶へ』(名古屋大学出版会)
『文学熱の時代』は国木田独歩の導きによって生まれた。独歩が書き記した、得体の知れない言葉から受けた印象は強烈で、この表現を深く理解したいという思いに駆られた。そして独歩の周辺を芋蔓式に調べていくうちに、徳富蘇峰、松原岩五郎、高山樗牛、正宗白鳥などが書き記した言葉に出会い、探究の範囲が広がった。『文学熱の時代』の執筆は、このような出会いと驚きの連続に支えられていた。
調査の過程で見えてきたのは「旧思想」の重要性だった。確かに井上哲次郎や文部大臣たちの、忠君愛国の精神に満たされた観念的な言葉の数々は退屈極まるものだろう。従来の研究がそのような言葉を看過してきたのもある意味で当然かもしれない。しかしそうした言葉こそは、文学青年たちがたえず意識し、相手取ったものであり、ぜひともこの「旧思想」を明治期の表現と思想の歴史に組み込まねばならないと考えた。またそのようにしてこそ、自然主義運動という明治期最大の文学運動の企図が浮かび上がると思われた。
結果、『文学熱の時代』は、独歩たちの先端的な表現と井上哲次郎や文部大臣たちの教条的な言葉が交錯しながら明治期の表現と思想の歴史を織り上げていくという、従来の研究から見れば一種異様な内容を備えた本になった。ただし著者としては、そのような眺望こそが当時の実態に即したものだったと考えている。この孤独な企てにおよそ10年の時間が費やされたが、そこに意義を認めていただいて大変励まされた。財団と選考委員の皆様に心から感謝申し上げたい。
現在、人文系学部の志願率が大きく落ち込んでいるとは聞かないが(つまり依然として一定数の国民は人文系学部あるいは人文系の探求心を支持している)、文部科学省による一方的な人文系学部縮小政策が進められている。その強引さのために、あの経団連が文部科学省の政策に異を唱えるという意外な光景も見られた(2015年9月)。すなわち独歩の言う、「国の武装の完備、国の法治の成就、国の交通の便益、国の商工の繁盛等をのみ明治の光栄となす世」は今なお私たちを取り囲んでいる。
そうした相変わらずの状況だからこそ、社会に対して人文系の探求心を正当化していった明治期知識人たちの情熱の復元を試みた『文学熱の時代』のような本が書かれることも悪いことではないように思う。むろん私も人文系学問の端くれとして、そのような精神を受け継ぎながら、独歩の「牛肉と馬鈴薯」に登場する岡本に倣って今後も鋭意「吃驚(びっくり)」していきたい。
熊谷 英人(明治学院大学法学部専任講師)
『フランス革命という鏡 ―― 十九世紀ドイツ歴史主義の時代』(白水社)
このたびは、サントリー学芸賞という栄誉ある賞を賜り、まことにありがとうございました。お世話になった関係者の方々には心より感謝申し上げます。
歴史叙述ははたして「政治思想」たりうるか。拙著の根底にひそむ関心です。現代において、政治学と歴史学は別物とされています。実際、一般的な政治思想史(政治学史)の教科書をひらいてみても、そこに歴史家の名前をみいだすことは稀でしょう。しかし、これは実に奇妙なことのように思えます。
すぐれた歴史叙述は単なる過去の記録にとどまりません。数千年前の、自分とは縁もゆかりもない人びとに関する外面的な知識を得るだけのために、我々は司馬遷の『史記』やプルタルコスの『対比列伝』をひもとくわけではないのです。すくなくとも、わたしは歴史叙述のなかに、自分とおなじ「人間」の姿をもとめています。歴史を語るという行為は、過去というレンズを通して、未来を、そして「人間本性」(to anthropinon)をみつめなおすことにほかなりません。過去は友であり、教師でもあるのです。「大思想家」の壮大な理論の分析のみならず、過去に生きた人びとが織りなした権力の物語もまた、ひとつの「政治思想」といえるのではなかろうか。抽象的な政治理論だけを対象としがちな従来の研究にたいする違和感、これこそが本書の出発点です。
本書で描かれた歴史家たちの側も、わたしを引きよせてくれたのかもしれません。18・19世紀転換期に活躍した哲学者、J.G.フィヒテについての修士論文を書きあげ、ドイツ観念論の晦渋な文体に辟易していたわたしは、ヘーゲルやマルクスとは異なる19世紀ドイツの政治思想研究にむかったのですが、そこで途方にくれてしまいました。面白い「大思想家」がいないのです。これは当時の欧州全般にあてはまる現象といえます。政治思想史の教科書でも19世紀はたいてい、18世紀とくらべて分量がすくない。その一方で、19世紀が多くのすぐれた歴史家たちを輩出したこと、歴史家以外の知識人も歴史論を盛んにてがけたことに気づきました。わたしは、ここで発想の転換をしたわけです。この時代に政治思想がとぼしいわけではなくて、歴史叙述がひとつの政治思想の表現だったのではないか、と。こうして、当時のドイツで流行したフランス革命史論のなかに、古典古代以来の歴史叙述の伝統、自由派の政治思想、そして時代の精神を読みこむ挑戦が、はじまったのです。
この挑戦が学問的に成功したかどうか、もとより自信はありません。それでも、本書があつかった歴史家たち――とくにダールマン、ドロイゼン、ジーベル――もまた、自分とおなじように、愛する家族や友人たちと史談に興じながら、自分の生きる世界の過去をみつめ、未来におもいをはせたのだということ、これだけは伝わってほしいと願っています。
高山 大毅(駒澤大学文学部講師)
『近世日本の「礼楽」と「修辞」―― 荻生徂徠以後の「接人」の制度構想』(東京大学出版会)
このたびは栄誉ある賞を賜り、誠に感謝しております。関係者の皆様に深く御礼申し上げます。
本書は、「接人」――人づきあい――の領域に制度を設け、操作を施そうとした江戸時代の学問の流れについて、荻生徂徠と彼の影響を受けた学者を中心に分析したものです。
本書に至る研究をふりかえって、先ず思い出すのは、水足博泉と田中江南という今日ほとんど忘れられた二人の学者との邂逅です。水足博泉は、荻生徂徠に将来を嘱望されながら、若くして世を去った熊本の儒者です。徂徠が博泉に宛てた熱のこもった書簡が印象に残り、図書館の薄暗い書庫の中で、戦前に活字化された博泉の『太平策』を手に取りました。読み始めると、彼の「学校」構想が余りに面白いため、「一目惚れ」の瞬間のような高揚感に襲われました。その後もしばらく、ねてもさめても博泉の思想のことを考える日々が続きました。田中江南を研究しようと決めたのは、暗い書庫の中ではなく、ハイデルベルクの青空の下でした。江南は投壺という古代中国の遊戯を復興した学者です。ハイデルベルク大学で、近世日本の漢文について報告する機会があり、江戸期の儒者が「芸事の師匠」という側面を持っていたことを説明するために、江南の投壺の話に言及しました。報告の後、該地の友人と街を散策したのですが、道すがら、江南の投壺のことについて質問を受けました。江戸の世界とかけはなれたヨーロッパの古い街並みの中で、必死に質問に答えているうちに、投壺復興という奇矯にも見える試みが、社交の制度設計であったことに思い至りました。江南が研究対象として自分の前に立ち現われてきた瞬間でした。
このように一度「出遇って」しまうと、古人に対する責任感のような感情が起り、彼らの思想の射程を明らかにすべく、研究に打ち込みました。博泉や江南を視野に入れることで、狂信的な思想家と扱われがちな會澤正志齋の学問についても、別の角度から評価できることが分かってきました。巧みな制度設計によって、人間関係に調和をもたらし、安定した統治を実現しようとした彼らの議論は、今なお我々を深い思索へと誘います。
このような高名な賞を賜り、水足博泉や田中江南について多くの方々に知って頂く機会を得られたことを本当に嬉しく思います。本書で扱ったのは、江戸期の活発な知的営為の中のほんの一部分に過ぎません。今後も精進を重ね、近世日本の学問が、現代を生きる我々にとっても貴重な思想資源であることを明らかにしていければと思っています。
以上