塩出 浩之(琉球大学法文学部教授)
『越境者の政治史 ―― アジア太平洋における日本人の移民と植民』(名古屋大学出版会)
本書は、近代のアジア太平洋地域に移民あるいは植民として移住した日本人を「越境者」として捉え、彼らが日本という国家およびアジア太平洋地域の政治秩序といかなる関係を持ったかを明らかにしようとしたものである。その際、日本人(日本国籍保有者)のうち、日本戸籍保有者(大和人、北海道アイヌ、沖縄人、樺太アイヌ<1933年以後>など)と非保有者(朝鮮人、台湾人、樺太アイヌ<1933年まで>など)の区別を重要な手がかりとしている。
最初に内地からの多数の移住の対象となったのは蝦夷地であった。北海道は大和人の移住の対象地であり、また、20世紀初頭までは属領であった。その開発は容易ではなく、外国人の移住も検討された。しかし、やがて多数の大和人が定着し、アイヌに対する優位を確立すると、次第に国政参加意識が芽生えてくる。本土への一体化の主張と独自性の主張がからみあい、地域によって様々な政治意識と政治運動が生み出された。
国境の外では、ハワイへの移住が大きな流れとなる。ハワイ王国当時、日本人は最大の民族集団だった。しかし王国はやがてアメリカ合衆国に併合されてしまう。その中で日本人移民の政治意識がどのように変化したか、さらに日米戦争下においてはどうなったかが検討される。なお、明治後期に対米移民が困難になったのち、中南米移民が増加するが、そこでも日本人移民は、日本との紐帯と現地の政治事情の下で、難しい問題に遭遇した。
一方、朝鮮、台湾の場合は、属領であって、日本人は優越者として朝鮮人台湾人に臨んだが、参政権は持てなかった。しかし総力戦のさなか、朝鮮人台湾人の参政権が議論されるようになると、彼らはその特権を維持するために微妙な位置に立つことになる。
この点、興味深いのは満州および満州国である。満州事変以前、満州における日本人移住者は、日本が一定の特権を持つ関東州および満鉄付属地に集中していた(それ以外は1万人以下)。満州国建国によって大きく状況は変化した。満州国は独立国とされ、日本人移住者の数は激増した。しかし彼らは日本国籍の放棄を望まず、他方で政治的権利は得ようとした。これは傀儡国家としての満州国が生み出した矛盾だった。
その他、日本帝国崩壊後の海外からの引き上げにおける日本人の政治意識についての分析、明治期における内地雑居論(外国人の居住を居留地に限るべきか、内地に雑居を許すべきかという議論)の諸側面、矢内原忠雄の植民地政策論の再検討など、いずれも興味深い。
ただ、著者が、植民地の本質は植民であるという矢内原の所説に立脚していることに、やや疑問を感じる。19世紀後半以後の植民地獲得においては、資源や市場、とくに安全保障上の観点が中心であった。植民概念を中心とする分析には、時として無理があるように思う。
第二に、こうした日本人の移住や植民が、他の国民と比べてどのような特色を持っていたのか、もう少し比較の視点がほしい。
とはいえ、本書は近代日本の移民・植民について、従来の多くの研究を踏まえ、幅広い視点で取り組んだ大胆な著作である。この大胆さを高く評価したい。
北岡 伸一(国際協力機構理事長)評
白鳥 潤一郎
(北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター協力研究員)
『「経済大国」日本の外交 ―― エネルギー資源外交の形成 1967~1974年』(千倉書房)
1973年の石油危機は、戦後、日本が独立して以来、直面した最大の国家的危機だった。
それは高度成長を終わらせ、戦前同様、エネルギーが日本経済のアキレス腱であることの脆弱性を露わにし、中東における「中立」の立場の危うさと日米関係に潜む落とし穴を思い知らせた。
この時の日本の石油外交をめぐっては田中角栄首相の資源外交が米国の不信感を招き、それが後のロッキード事件で米国に葬り去られるきっかけとなった、といった類の陰謀史観が長年、幅を利かせるなど十分に解明されていない。
著者は、当時の内外の政府部内文書を丹念に収集し、生存者へのインタビューも踏まえ、外交史記述の政策決定過程を的確かつエレガントに分析している。
アラブ産油国の禁輸の衝撃で当初、アラブ寄りに振れた石油資源外交は、その1年後には、石油消費国協調の枠組みへと収斂していった。著者は、石油危機をその「真実の瞬間」だけで切り取るのではなく、1967年の第三次中東戦争とその際の石油の武器化から1974年の石油消費国協調、なかでもIEA(国際エネルギー機関)の設立までの時間的文脈に位置づけ、この過程で日本が国際経済秩序の形成へ参画し、国際国家として登場する軌跡を丁寧に跡づけている。そして、そこでの消費国間協調の戦略的意義は、石油問題だけでなく、より広い自由主義的な国際経済秩序の維持という観点からも認識されていたこと、そして、消費国間協調参画にあたって、その目的に産油国との対話促進を掲げることで消費国間協調に反対する国内外の声に配慮していたこと、を鮮やかに解明している。
石油危機に直面したとき、当初の最大のポイントは、日本が制裁対象に入れられるかどうか、だった。その年夏、東京で開かれた中近東大使会議では、日本は「政治的にまったく無関係であるという有利な立場」にあるのだから制裁対象にならないとの見方が優勢だった。しかし、それは日本を中東における「善意の第三者」と思いこんだが故の「甘い期待」に過ぎなかった。
その点、中曽根康弘通産相はリアリストとしてより怜悧に状況を把握していたのではないか。著者は、中曽根と大平正芳外相の間の、産油国と消費国、「量」と「価格」をめぐる力点と視点の相違、さらには対米姿勢に関して自主外交を標榜し、保守傍流を自任する中曽根と、自らを保守本流と考え、対米配慮を重視する田中の違いを指摘している。確かにそういう面があることは間違いないが、石油地政学に対する感度と把握力の点で、中曽根外交はもう少し評価されてもよいと思われる。危機時に産油国との二国間取引も含めて「量」をなんとか確保できたからこそ「価格」での巻き返しも可能になった面もあったであろうからである。
「甘い期待」の背景には、ブレトンウッズ体制の中のもっとも弱い環ともいうべき「安価かつ安定的に供給される石油」の国際システムの不整備の課題や、日本の対外戦略において、石油、いや経済もまた安全保障ととらえる総合安全保障観の稀薄さと地政学リテラシーの欠如が横たわっていたのではなかったか。
船橋 洋一(日本再建イニシアティブ理事長)評
池上 裕子(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)
『越境と覇権 ―― ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』(三元社)
ロバート・ラウシェンバーグについて私は長く否定的な評価をしてきた。個人的なことを書くのは、それがおそらく日本のみならず世界においても一般的な評価ではないかと思われるからである。ケージとカニングハムが音楽と舞踊において成し遂げたことに対して、最終段階でラウシェンバーグがたんなる美術家を越えた関わり方をしたために、音楽、とりわけ舞踊に関しては、アメリカはヨーロッパに半世紀の遅れを取ることになったというのが一般的な評価であるといっていい。モダンダンスはアメリカに属するがコンテンポラリー・ダンスはヨーロッパに属する。ラウシェンバーグが舞台芸術に対して根源的すぎる問いを提出した結果、そういうことになったのである。おそらく同じことは音楽にも美術にもいえる。領域を超える問いを安易に発することは基盤そのものの破壊を招く。
この見取り図はとりわけ舞踊に関していまも妥当すると思うが、しかし、池上裕子氏の『越境と覇権』を読んで、私のラウシェンバーグに対する評価は180度違ってきた。サンダースのCIAの文化政策をめぐる本や、マルキスのグリーンバーグ評伝などを読んで、20世紀においていかに政治が文学芸術に直接的に介入してきたか思い知らされたが、池上氏の著書はそれらとはまったく違った視点から、ラウシェンバーグの仕事の意味を浮き彫りにしている。これは、サンダースやマルキスの本が1950年代に重点を置くのに対して池上氏の本が60年代に重点を置いていることの必然的な結果かもしれない。時代の違いは大きく、この違いは当時のパリ、ニューヨークの現地感覚を持たないと理解できないと思える。ある意味でラウシェンバーグは時代遅れの眼でその先進性を批判されていたとも言えて、私の先入見がいかにアメリカや日本の美術関係者の影響下にあったか、よく分かった。ラウシェンバーグはアメリカの覇権を体現しているのではなく、その覇権の批判を体現しているのだ。結果的に彼は、政治が芸術を論じるのではなく芸術が政治を論じるべきだといっているに等しい。
池上氏は、ラウシェンバーグが世界的な評価を得てゆくうえで決定的な契機となった1960年代前半のパリ、ヴェネツィア、ストックホルム、東京という四つの都市の美術界の状況を克明に浮かび上がらせることによって、第二次大戦後、美術の中心がパリからニューヨークへ移ったということの意味を教える、というより、そのことの意味をほとんど読者に突きつけるようにして、再考を促しているのである。とりわけ、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレでラウシェンバーグがグランプリを獲得してゆく背景を、アメリカ館のコミッショナーをつとめたアラン・ソロモンを中心に描き出してゆく過程は圧巻で、パリに対する対抗意識はヴェネツィアのほうにこそ強く、アメリカ本国にはむしろ戸惑いのほうが強かったというような意外な事実が次々に明らかにされてゆく。半世紀を経てようやく全体像が見えてきたとの印象が強い。
とはいえもっとも重要な点は、その過程で「ダンテ・ドローイング」などラウシェンバーグ自身の作品の魅力の中心がどこにあるか――そのひとつが時代を呼吸する芸術だ――浮き彫りにされていることで、今後の美術批評のあるべき座標を見事に示していると思える。本書は6年前に刊行された英文著書を著者自身が翻訳したものだが、個人的には日本語版にいっそうの好感をもった。
三浦 雅士(文芸評論家)評
沖本 幸子(青山学院大学総合文化政策学部准教授)
『乱舞の中世 ―― 白拍子・乱拍子・猿楽』(吉川弘文館)
芸能史にはブラック・ボックスとも言うべき空白があって、研究者の多くがそれと知りつつ、どういうわけか、それをそのままにして、現在にいたっている。本書はその穴を埋めるべく書かれたもので、その責めを十分に果たすとともに、新進研究者の仕事らしい「発見」に満ちている。
著者が対象とした白拍子や乱拍子といった芸能は、今は滅んで幻想の彼方にある。加えて白拍子や乱拍子はリズムを主体とする芸能だから、文字を用いて人に伝えるにはとてつもない困難をともなう。本書はこの二重の壁をクリアーして、「幻想」を現前させている。緻密な調査を活用してのよく考えられた構成と、ゴールを見通してのぶれのない論考が、この結果をもたらしたのだと言ってもいい。すなわち、プロローグの「乱れる中世」から「乱舞の時代の幕開け」「白拍子の世界」「乱拍子の世界」「〈翁〉と白拍子・乱拍子」「能と白拍子・乱拍子」という章立てで、「乱舞の身体」というエピローグに至る。
戦乱の時代だった中世に、身分の上下を問わず、乱舞が一大流行する。平安時代は基本的にメロディの時代だったが、その末期から中世のはじまりにかけて、鼓を伴奏楽器とする白拍子や乱拍子というリズミカルな芸能、乱舞が登場した。これがたちまち一世を風靡するうち、白拍子は源義経の愛人だった静御前のような女性芸能者の芸能として完成し、プロの、見せる芸能として愛好される。一方、乱舞の代名詞となる乱拍子は、即興性と勇壮な足拍子を持ち味として、僧兵のような下級僧侶たちの延年の芸能として盛行を見る。が、別の道を歩みはじめた白拍子と乱拍子は、それぞれ後世の芸能に大きな影響を与える。それが能楽だった。
室町時代に観阿弥・世阿弥父子によって完成を見た能楽は、「幽玄」という日本的な美意識の結晶として世界的に知られている。しかし、そのルーツとも言うべき『翁』は、その成立に関して今も謎めいた扱いを受けたままで、解明が進んでいない。ところが、実はその芸態には、白拍子や乱拍子の影響があり、そもそもは「幽玄」という美意識とは別次元にあったのではないか。
ここに至る論考が本書の白眉であり、確かな説得力がある。『翁』は観阿弥・世阿弥によって大成される能楽の二百年も前からあった芸能だが、今も各地に残る民俗芸能に面影があるごとく、「式三番」と称される曲に登場する翁や千歳や三番叟は、それぞれが白拍子や乱拍子という乱舞の流れを受けている。のみならず、現在、ほとんどの能の中で一曲の中心になっている「クセ」は、そもそもが観阿弥が当時の流行芸能である前期曲舞(くせまい)を取り入れたものだが、それが白拍子舞の系譜にある芸能だった。
能楽をはじめとする中世文化は、庭や茶の湯など「幽玄」とか「わび」とか「さび」という厳粛で枯淡な美意識で語られがちだが、「乱舞」という窓から見ると、従来とは別の風景が見えてくる。
本書はそういう新しい視点を与えてくれるという意味で、新進ならではの大きな実りだ。
大笹 吉雄(演劇評論家)評
金沢 百枝(東海大学文学部教授)
『ロマネスク美術革命』(新潮社)
『ロマネスク美術革命』は西洋中世のロマネスク美術を心から愛する研究者が世に問うた問題提起の書である。かわいらしいイヌとウサギの持ち送り彫刻から話が始まるからといって、誤解してはならない。ロマネスク美術の魅力を伝えるという意味では一般向けの啓蒙書の装いを見せながら、経験豊かな専門家の学識と主張が詰まった書物であるのは一読すれば明らかだ。
ロマネスク美術は何よりもかたちの自由を求める芸術でモダン・アートに通底する、と著者は喝破する。西洋美術が古典古代の彫刻やイタリア・ルネサンス絵画、中世では偉容を誇るゴシック建築に代表されるとしても、ロマネスク美術はそれらと違った独特な造形の魅力にあふれ、異文化を取り込んだモダン・アートの斬新さとつながるとの決然たる言明。西洋美術史を相対化する新しいパースペクティヴを開いている。
そのために著者は、アメリカ20世紀前半の研究者メイヤー・シャピロの議論を蘇らせつつ、フランス中世美術の権威アンリ・フォシヨン以来の通説「枠組みの法則」に痛撃を加える。オータンの大聖堂の扉口彫刻に見られる人像のプロポーションの不自然さも、ヴェズレーのサント・マドレーヌ修道院における物語柱頭の劇的な演出も、《バイユーのタピスリー》が示す自在な変形のユニークさも、決して建築や刺繍の枠の制約に受動的に従ったものではなく、枠を踏み台にし、枠を超える形で、感情や感性に直接訴える表現力の高い造形を実現した作品なのだと。ロマネスク美術の自由奔放なふるまいに着目する(偏愛と言ってもよいか?)著者にとって、「枠組みの法則」との対決は必然であり、その戦いぶりには十分な説得力がある。
ロマネスク美術の再評価を目指した本書の面白さはそれだけには止まらない。「ケートス」と「ドラゴン」という二匹の海獣の図像が変遷するさまを精緻に跡づけた章は確かな学問的貢献として読み応えがあるし、無名職人の作と思われがちな中世美術における作家意識や作り手の地位向上の指摘も逆説的で興味深い。著者は、北はイギリス、ノルウェーから南はスペイン、イタリアまで、ヨーロッパ中を駆け回ってロマネスクの聖堂を調査する旅を長らく続けている。ヨーロッパ全域に目配りするその視野の広さは、ロマネスク美術における古代ローマ世界から受け継いだ定式(もともと「ロマネスク」とは「ローマ風」の意)と北方ゲルマン世界の荒々しい情動との出会いや融合を述べる際に、きわめて有効に働いているのである。
このように「ロマネスク美術」の「革命」を論じることは、先に述べたように西洋美術への見方を変革することにつながる。物語的な場面を遠近法空間の中で写実的に正確に表現することだけが美術ではない、もっと自由に観て楽しもうではないか、ロマネスク美術もまた、と著者は語りかける。そこには単に美しいものだけではなく、滑稽でグロテスクなものから、愛らしくかわいいもの、心に響き感動するものまで、無限に多様な美があるのだからと。自由に裏打ちされたこの「革命」に加わることを、私は躊躇しない。
三浦 篤(東京大学教授)評
木村 洋(熊本県立大学文学部准教授)
『文学熱の時代 ―― 慷慨から煩悶へ』(名古屋大学出版会)
文学はいま世に当り前のものとしてある。しかし、明治の前半から半(なかば)にかけてはそうではなかった。西洋近代に追いつこうと富国強兵、殖産興業が謳われた時代には、文学など価値のないものと低く見られていた。青年たちの関心はあくまでも政治、社会改革にあった。その文学軽視が日露戦争前後から大きく変わり始める。青年や知識人の関心は天下国家を論ずることより、個の内面に向けられてゆく。そこで文学が大きく浮上してゆく。
日露戦争後の明治39年(1906)に三宅雪嶺が言った「慷慨衰へて煩悶興る」は政治から文学への変化をよくあらわしている。
雪嶺のこの言葉を副題に持った本書は、文学が近代日本の社会のなかで文学として価値を持つようになったのは、いつ、どうしてなのかを辿ったスケールの大きい論考である。文学はそこにあるものという現在の常識をいったん壊し、文学はいつ「発見」されたのか、もとを探っている。
文学史ではあるが、そういってしまうと教科書のような本と思われてしまうが、そうではない。明治の文学者たちが、文学を発見し、既成の価値観に抗いながらいかに文学を豊かなものにしていったか。その悪戦苦闘を辿ってゆく。精神史といったほうがいいかもしれない。まだ三十代の研究者のまさに「文学熱」がこもっている。
通常の文学史ではあまり重視されない非文学者に多くの頁が割かれているのがまず新鮮。
徳富蘇峰、高山樗牛、宮崎湖処子(こしょし)、松原岩五郎、内村鑑三、さらに綱島梁川らが、文学の発見で果した役割を丁寧に論じてゆき、彼らと、国木田独歩や正宗白鳥が関連づけられる。
松原岩五郎のルポルタージュ『最暗黒之東京』の都市貧民窟の細民への視線と、独歩の『武蔵野』における従来の名所旧蹟とは違う雑木林のような忘れられていた風景の発見、あるいは旅の途中で出会う最下層の生活者へのまなざしが共に同時代の新しい感性として浮かびあがってくるところなどみごとな論考。
内村鑑三の文章には「涙」や「悲哀」が多いことから、鑑三は武張った富国強兵の主張とは別の場所に身を置こうとしたという指摘も、本書のなかできわめておさまりがいい。
文学とは、挫折や失敗など負の側面からの人間の探究とすれば、本書に、日光の華厳の滝で投身自殺した藤村操が登場するのも自然で納得出来る。
本書では通常の明治文学史に登場する森鷗外や島崎藤村、あるいは永井荷風はほとんど語られない。その意味では、偏っているが、これは著者が意図したものだろう。また、夏目漱石についてはもう少し読みたい気がするが、これもないものねだりかもしれない。
この賞の選考にあたって、個人的にいつも基準として考えているのは、オリジナリティがあること、対象への愛情があること(熱)、そして文章が平易明晰であることの三つ。
本書は、この三つが揃っている。さらに、三十代でこれだけ基礎、土台がしっかりしていれば、これからも期待出来る。
川本 三郎(評論家)評
熊谷 英人(明治学院大学法学部専任講師)
『フランス革命という鏡 ―― 十九世紀ドイツ歴史主義の時代』(白水社)
フランス革命ほど歴史好きを魅了し続けるテーマはない。しかし、あまりなじみのない19世紀ドイツの歴史家がフランス革命をどのように論じたかを分析した学術書と聞くと、かなり地味な本だという印象を持たれるかもしれない。評者も、この本に登場するダールマン、ドロイゼン、ジーベルという三人の歴史家について、ほとんど知るところはなかった。
しかし、本書を読むことによって、読者は、フランス革命をどう見るかという精神の格闘こそが、19世紀後半以降世界史に決定的な影響を与えることになるドイツ帝国の形成に大きな影響を与えたことを知ることになろう。フランス革命史の叙述・分析のなかから、ダールマンは「憲法」、ドロイゼンは「国民」、そしてジーベルは「社会」の決定的重要性を剔出した。著者によれば、彼らは歴史家であるとともに「改革の政治学」を論じていたのであり、フランス革命史のなかに、今後のドイツの政治体制がいかにあるべきかを論じてきたのである。非歴史的な社会契約説に基づく18世紀の政治体制論後の19世紀の歴史主義的政治体制論の典型ともいえよう。明治日本がその政治体制の確立においてドイツ帝国を参考にしたことを考えるとき、三人の歴史家の知的営為は、近代日本にとっても無縁ではない。
本書の魅力は、しかしながら、ドイツ精神史のみにあるのではない。著者は、実にたくみに、フランス革命の歴史的展開と多面性を読者に思い起こさせてくれる。ドイツの政治家・歴史家たちがフランス革命をどう観察したか、とりわけ本書の主人公である三人の歴史家がフランス革命をどう論じたかを紹介する過程で、著者は、フランス革命の群像、ネッケル、ラファイエット、ミラボー、ロベスピエール、ナポレオンなどを登場させ、彼らの政治的役割の多面性をわかりやすく活写してくれる。本書はフランス革命史論としても一級の読物である。
著者は、本書の現代的意義についてほとんど語るところがない。ドイツ帝国成立以後、ドイツにおけるフランス革命史論は政治的役割を終え、フランス革命についての業績はドイツではほとんど現れなくなったという。しかし著者が「結」でブルクハルトを登場させて指摘させているように、フランス革命は今日においても終わっていないのではないか。民主主義体制をとる国々が増えつつも、数多くの民主革命が挫折を繰り返している今日、19世紀ドイツの自由主義知識人の改革の政治学は、決して他人事ではないのではないか。権威主義体制の下で自由を確立したいと願っている多くの国の現代の自由主義者たちには、まさに切実なテーマである。確かにドロイゼンやジーベルは「帝国の繁栄のなか、満ち足りたふうで世を」去ったのであろう。しかし、彼らのフランス革命史論そして、彼らの革命史論をわかりやすく分析紹介してくれる本書は、今日的課題を理解するためにも有益なのである。
田中 明彦(東京大学教授)評
高山 大毅(駒澤大学文学部講師)
『近世日本の「礼楽」と「修辞」―― 荻生徂徠以後の「接人」の制度構想』(東京大学出版会)
荻生徂徠の登場によって、徳川時代の思想史は大きく変わった。丸山眞男が1940年代に、その学界に対するデビュー作で説いたテーゼである。その後70年をへて、伊藤仁斎・荻生徂徠・本居宣長の思想についての理解や、時代の思潮が何から何に変わったのかという見解については、さまざまな新説が登場してきたが、徂徠学の登場を一つの画期とする点は、研究者の間ではほぼ共通了解になっている。
高山氏の著書は、この大テーマにとりくんで、新たな徳川思想史像を打ち出した大胆な試みにほかならない。副題にある「「接人」の制度構想」という言葉は、徂徠の登場以後、18世紀後半の儒者・文人が共有した新たな思想の枠組を、著者自身の言葉で概念化したものである。研究の内容は、儒学・国学・水戸学にわたり、「礼楽」と「修辞」に限らず、その前提となる人間像や社会像など、幅広い問題を含んでいる。それを一貫した構想のもとに整序し、非専門家にも理解しやすい文体で巧みに叙述しているのも、本書の特筆すべき美点である。
徳川時代においては儒学の思想が広く普及したものの、「礼」については本格的には受容されなかったと言われるが、この時代には徂徠学の思想系譜を承けて、「礼楽」の構想を真剣に展開する儒者が現れていた。また、漢詩や和歌についても、思いを率直に伝えるのではなく、「修辞」を介することで婉曲に表現する技法が追求された。両者の傾向はともに、自分と異質な他者とのあいだでコミュニケーションをどう進めるかについての、深い洞察を基盤としていた。そうした一種のパラダイムを発掘し、周到に描きだした業績として、今後の徳川思想史研究において必読の文献となることはまちがいない。
本書で高山氏はテクストの周到な読解に基づいて、18世紀の日本思想における「競技規則」を、同時代の人々の思考に即しながら解読している。その点で、思想の「近代化」やナショナリズムの先行形態といった、現代人の関心から出発して過去の思想を裁断するという方法をとっていない。だが同時に、本書が明らかにした18世紀の「「接人」の制度構想」が、複雑化と多様化を極める現代社会において、人々の共存をいかに確保するかを考えるにあたって、有益な参考材料になることも、また確かであろう。
高山氏によれば、こうした一群の制度構想は、19世紀に入ると消えてしまう「絶滅した生物群」である。すぐに絶滅してしまうという位置づけに、肩すかしを食らったように感じる読者もいるかもしれない。だがこれはむしろ、その後の思想史の展開については、さらに別の枠組を用意して語ろうという、探究心の現われとも読める。なしとげた達成の充実度とともに、今後の研究への期待をも誘う点で、本賞にふさわしい作品である。
苅部 直(東京大学教授)評
以上