2014年11月12日
第36回 サントリー学芸賞 受賞のことば
<政治・経済部門>
大西 裕(おおにし ゆたか)(神戸大学大学院法学研究科教授)
『先進国・韓国の憂鬱 ―― 少子高齢化、経済格差、グローバル化』(中央公論新社)
この度は栄誉あるサントリー学芸賞を賜り、誠にありがとうございます。選考委員の先生方、これまで私を支えてくださった、恩師や家族、友人、職場の同僚、そして編集者の方など多くの方々に改めて感謝の意を表します。
私が韓国の現代政治分析を志したのは1987年。民主化後初の大統領選挙の展開中でした。それまでこの国には何の関心もなかったのですが、注目しはじめるといろいろと興味深い現象が生じていることが分かってきました。楽しくなりましたが、自分としては深刻な悩みも抱え込みました。それは、研究上の二つの要請にどう答えるかです。私は行政学を専門としていますので、具体的な研究対象は政治行政で、どこの国でも通用する説明、言い換えれば一般化が求められます。他方、韓国という特定国を対象とすると、その国の全体像は何なのかを必ず問われることになります。こちらはむしろ固有性を重視しろということです。自分自身、両方追求したい気持ちがありますが、方向性は正反対です。10年ほど前に書いた本で決着をつけたつもりでしたが、後味の悪さが残っていました。
あとひとつ、この国についてはずっと気になっていたことがありました。日本国内で韓国に対する評価が極端にぶれるということです。とりわけ、アジア通貨危機前後から、時期によって極端にぶれるようになっています。2000年代には韓流ブーム、2010年代には嫌韓感情の噴出と、ジェットコースターにでも乗ったような変化です。現実の韓国もダイナミックな変化を経験してはいるのですが、連動しているとも思えません。大変違和感がありました。
本書に取り組むにあたって私が念頭に置いたのは、嫌韓でも親韓でもなく、対象を突き放して、その国の「リアリティ」を日本の読者に提示することでした。そして、この試みをなす上で役に立ったのが、先述した研究上の悩みです。現代政治分析では、通商政策と福祉政策は全く別物として研究されます。しかし、政治エリート達や、現実にその社会で生活する人々の頭の中では、いずれも経済に関する以上、分かれているわけではありません。二つの領域の専門的な研究を活かしつつ、両者を統合して韓国政治経済の全体像を描いてみる。地域研究と現代政治分析の結合ですが、執筆していてこれこそが韓国の「リアリティ」の提示につながるのだと思いました。
一般化の追求と固有性の追求の両立は難しく、今でも悩みの種ですが、その超克の努力こそが研究意欲に、そして社会的に多少とも意義あるものを生み出すことにつながるのだと諦念すべきなのでしょう。今後とも解消されない悩みと付き合っていきたく思います。
中澤 渉(なかざわ わたる)(大阪大学大学院人間科学研究科准教授)
『なぜ日本の公教育費は少ないのか ―― 教育の公的役割を問いなおす』(勁草書房)
このたびは、拙著が大変栄誉ある「サントリー学芸賞」を賜ることになり、大変嬉しく思っております。選考委員の先生方ならびに、これまでお世話になった多くの方々にまずは御礼申し上げます。
私の専門の教育社会学では、階層による教育機会の不平等の存在が、ほぼ常識になっています。とはいえ筆記試験中心の公平性を追求した日本の入試選抜制度は、形式的ではあっても、教育機会が可能な限り平等になるよう工夫されてきたといえると思います。しかし近年、格差の拡大による教育費の負担の問題が懸念されていますが、教育費への関心は高いと言えないどころか、恵まれない人への社会的視線は厳しくなっているように感じます。それはなぜなのか、教育を対象とする研究者として無視できない問題だと思いました。
公教育費を増やすべきという主張は、教育関係者を中心に以前からあります。しかしそれらは端的に言えば、金銭的負担の裏付けが乏しく、政府を国民と切り離した権力と位置づけ、ただ要求する、という図式が固定化しているように思いました。そうした主張を続けてきて、結局何も変わらず今に至っています。政治的主張としてはあってもいいと思いますが、状況が変わらなかったのは、その主張が広く受け入れられなかったからではないでしょうか。したがって教育を主たる研究対象とする社会学者として、そうした政治的主張をただ単に繰り返すのではなく、このような状況を生んだ原因を探究する責任があるのではないか、というのが私の問題意識です。
教育には当然様々なコストがかかるので、その負担の問題は避けられません。日本の財政事情を考えれば、国民負担の問題に切り込まざるを得ず、そうすると政府と国民の信頼関係の問題、民主主義国家の在り方について検討する必要が生じました。結果的に扱う対象が広くなり、経済学、政治学、財政学などの他分野の研究にも言及することとなりました。学際的研究はブレークスルーとなることもありますが、どの記述や分析も中途半端となる可能性もあり、本書への反応については正直かなり心配していました。まさかこのような賞をいただけるとは、考えもしませんでした。
もっとも本書は、私の抱く上述の問題意識の解決に向けての端緒に過ぎません。政府の役割と国民負担の問題は、民主主義国家の存立の根幹にかかわる重要な問題だと考えています。本書への批判を受け止めつつ、今後もこの重要な課題に向き合っていく所存です。ありがとうございました。
<芸術・文学部門>
互 盛央(たがい もりお)(出版社勤務)
『言語起源論の系譜』(講談社)
栄誉ある賞をいただき、本当にありがとうございます。この受賞は、自分一人によるものではなく、私に目をかけ、支えてきてくださった人たちからの贈り物にほかなりません。そのすべてのかたがたに、衷心より御礼を申し上げます。
本書は、ルソーやヘルダーの名で知られ、近年もさまざまな説が提示されている「言語起源論」を可能なかぎり大きな射程で捉え、それぞれの場所と時代にもっていた意味の変遷を追おうとしたものです。「起源の言語」、つまり人類が最初に語った言語を知ろうとする欲望は、紀元前七世紀のエジプト王にも見て取られます。王は、生まれたての赤子をいっさい言葉をかけずに育てるよう命じ、その赤子が最初に発した言葉こそが「起源の言語」に違いない、と考えました。もちろん、これは異様な実験ですが、それを実行せしめてしまう欲望の異様さのほうが、はるかに気になるものでした。
「起源」を求めるとは「始まり」を求めることです。そして、「始まり」を求めるとは、多くの場合、今ある物事の根拠を求めることです。今ある物事が存在する根拠を「権利」の上で問うていたはずが、いつのまにか歴史的な「事実」の問題にすり替わるとき、実に多くの過ちが犯されます。その過ちの根底にある矛盾のいわば原型を見せてくれるのが言語起源論であり、それは言語のみならず、国家の起源にもつきまとうものであることを本書は示そうとしました。権利の問題を事実の問題にすり替えることがもたらす悲惨、それは確かに今この瞬間も生み出され続けています。
「起源の言語」は旧約聖書が書かれたヘブライ語にほかならない、という説が力をもっていた時代が長く続いたあと、各々の国家で自分たちの言語こそ「起源の言語」だと主張されていく過程は、「近代」の形成と正確に重なっています。それは言語が各々の国家や国民の正統性を証明する手段にされたということですが、特定の言語を事実としての「始まり」とする思考は、ついに矛盾に行き着くほかありません。
その矛盾をそれ自体として思考しうる場所に到達しようとすること。その系譜を追ったのが前著『エスの系譜』だとすれば、本書はその系譜を隠蔽し続けてきた、もう一つの系譜を描こうとしたものです。これら二冊を形にできた今、私にはもう一冊だけ、どうしても書きたい本があります。「エスの系譜」の果てにはどんな場所が見出され、どんな光景が広がっているのか。本書を導いてくれたカスパー・ハウザーのためにも、私はその問いに向かわなければなりません。
最後に今一度、心からの感謝の気持ちをここに刻みます。
長門 洋平(ながと ようへい)(国際日本文化研究センター機関研究員)
『映画音響論 ―― 溝口健二映画を聴く』(みすず書房)
財団ならびに選考委員のみなさまに、心より御礼申しあげます。このたびの受賞は望外の喜びと言うほかありません。
私は映画音楽愛好家でも、サントラ盤収集家でもありません。幼い頃より黒人ブルースを聴き漁り、大学に入ってからは前衛ジャズで頭がいっぱいになっていた自分にとって、映画の音楽は関心の対象になりにくい存在でした。実のところ今現在でも、映画音楽それ自体に対して特別な愛着を抱いているわけではありません。この事実は拙著『映画音響論』の弱点でもあるはずですが、しかしながらそのような人間だからこそ書くことのできた書物なのかもしれないという自負めいた感慨も多少抱いております。なぜなら、美しい音楽の流れに身をゆだねてしまうことなく、映画の聴覚的側面を「音響」と割り切って即物的なレベルで分析することが比較的容易だからです。
溝口健二の『近松物語』との出会いが私の映画音響研究のきっかけとなりました。一般に映画音楽という言葉で漠然とイメージされる洋楽器による伴奏音楽とはまったく異なる、非旋律的で硬質な和楽器の響きがアヴァンギャルドな相貌をもって私の前に現れたときのショックと深い感銘は忘れることができません。本研究の方法的前提は、音楽のみを特化することなく、声、もの音、沈黙といった聴覚的レベルをすべて同一平面で扱うことで、「音の織物」として映画の音響を把握するという立場にあります。同時に、そういった聴覚的側面が一本の映画作品にとってどのような意味を持つかという点を、映像との絡みに注意しつつ分析することが本書の眼目です。すると、『映画音響論』のなかで私が行なったこととは畢竟するに、『近松物語』を観たまさにそのときに覚えた感動を、理論的な言葉に置き換える作業だったのかもしれません。ただそれだけのことがこのうえもなく困難で、多くの年月を費やしました。
近年、「映像と音」の問題に関心を持つ人が増えているという実感を抱いています。同方面の研究・批評における優れた仕事がたくさん現れてきています。インターネットの重要性もいよいよ高まりつつある現在、本書をひとつの出発点として、多様化する視聴覚文化に対する思考を今後一層深化させるべく努めてまいりたいと思います。
この度の受賞は、これまで私の研究を支えて下さった先生方、インタビューをお受け下さった録音技師の大谷巌さん、出版社のみなさま、先輩や友人たち、私の家族ほか多くの方々からのお力添えなくしてはまったくあり得ませんでした。改めて厚くお礼申し上げます。
<社会・風俗部門>
小川 和也(おがわ かずなり)(中京大学文学部歴史文化学科教授)
『儒学殺人事件 ―― 堀田正俊と徳川綱吉』(講談社)
「3・11」震災後の4月、私は、東京から札幌郊外の大学に単身赴任することになった。小泉劇場を契機に、一気に劣化が始まった日本の政治は、震災の対応において、無惨なまでにその無力さを露呈していた。それはまた、政治の言葉の空虚化でもあった。
江戸時代の政治の言葉・思想を代表するのは、「仁政」である。仁政とは、為政者が徳を磨き、慈悲深く民衆に接し、統治する、儒学の王道である。為政者は父母のごとく、民衆は子のごとし。この疑似家族主義は、明治維新後、独立自尊の近代的個人を理想とする福澤諭吉から激しく弾劾された。
たしかに、仁政思想にはそうした面がある。しかし、もう一面では、為政者が「万物一体の仁」という儒学的な共感能力を発揮し、民衆に苦難・窮乏あれば、それを自分のこととして捉え、ただちに救済せよと命じる。つまり、為政者の共感能力と政治責任を厳しく追及し、為政者の資格を問う。
昨今、政治の言葉が空しく響くのは、政治家に、その言葉を裏打ちする共感能力と行動力が欠如しているからではないか……。こう考えて、脳裏に浮かんできた人物が、五代将軍・徳川綱吉のもとで大老をつとめた堀田正俊であった。正俊は綱吉の信任をえて、「天和の改革」を断行する。
ところが、その改革の最中の貞享元年(1684)、江戸城で刺殺された。いったい、なぜ、事件は起こったのか。
正俊は『颺言録(ようげんろく)』という綱吉の「聖言」を記録した明君録を著している。この明君録の行間には、仁政をめぐる大老と将軍の確執が込められているようにおもわれた。その正体をはっきりと見定めること、それが事件の核心に迫る手がかりとなるのではないか……。私は、この事件の謎を解き明かすことを、北海道での研究テーマに決めた。
しかし、研究は容易に進まなかった。雪と格闘しながら、ようやく書き上げたものを、編集者の横山建城氏に送った。来札した氏は、「この原稿は、儒学殺人事件というべき内容をもっています」といった。(そうか、なるほど、大老と将軍の確執は、両者の儒学観そのものの対立にゆきつく。儒学をめぐる殺人事件……)。重く垂れ込めた霧が晴れ渡るような、編集者の決定的な一言により、本書は成った。
今年、刊行をひかえた4月、私は北海道を離れ、名古屋の大学に移った。この本には、私の北海道時代が詰まっている。サントリー文化財団から電話で受賞を伝えられたとき、(ああ、この3年間は無駄でなかった。すべての苦労が報われた)という思いがこみあげ、受話器を持つ手は震えていた。
通崎 睦美(つうざき むつみ)(木琴/マリンバ奏者)
『木琴デイズ ―― 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』(講談社)
初めて挑んだ「評伝」をサントリー学芸賞に選んでいただき、望外の喜びに浸っています。市井の人々に愛された木琴奏者・平岡養一の人生を追った本著は、決して音楽の専門書ではなく、戦前・戦中・戦後と平岡が生き抜いた時代の中に、その天衣無縫な姿を描きだしたいという思いで書き通しました。この度、「社会・風俗部門」で認めていただけたことを、なによりうれしく光栄に思います。選考委員の先生方、サントリー文化財団の皆様、ありがとうございました。
2005年、東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で、この曲はこの楽器でしか弾けないという平岡養一さん(1907−1981)の愛器をお借りし、紙恭輔『木琴協奏曲』(1944)を演奏しました。すっかり木琴の音色のとりこになった私は、後にご親族から楽器とバチ、楽譜一式を譲り受けます。これをきっかけに、鍵盤打楽器といえばマリンバが主流の現代において、木琴復権に向け邁進することになりました。
独学で木琴を修得し、昭和初期の木琴ブームの先頭に立った平岡養一。1930年、単独で木琴王国アメリカにわたってからは、大変な努力をかさね「世界一の木琴奏者」と称されるまでになります。戦中に帰国してから再渡米するまでの20年は、まさに国民的音楽家として活躍しました。1950年、マリンバ奏者でもあるアメリカの宣教師・ラクーア夫妻がマリンバを取り入れた布教活動をはじめた影響で、それまでの木琴人気に陰りが見えます。1960年代になると、専門家から大衆まで、それまで木琴に親しんでいた人達が皆、見かけも、響きも豊かな印象のマリンバに興味を移していきました。まさに日本が豊かになった高度経済成長の時代に、木琴がマリンバに取って代わられたのです。普段から和の文化に親しみを感じる私にとってこの出来事は、素晴らしい町家を取り壊してマンションが建ち並ぶ町並みの変化、和服生活から洋服生活への移行と重なってみえます。
「だから、僕はね、仮に世界で僕一人になっても、マリンバは弾きませんよ。あの楽器だけは弾きません」と言い切った木琴奏者平岡は、敢えて時代に背を向けこの世を去りました。平岡はおそらく、木琴を時代の流行と無縁な普遍的な楽器とみなしていたのでしょう。図らずも私は、そんな平岡の思いを実証していく運命にあるようです。本当の豊かさとは何か。豊かな残響を持つマリンバと、いさぎよく乾いた音色の木琴、双方に接しながら、実践の中で考えていきたいと思います。
一度終焉を迎えた「木琴デイズ」を引き継ぎ、次世代へ繋いでいけるよう演奏と執筆の両輪で、これからも精進いたします。
<思想・歴史部門>
福嶋 亮大(ふくしま りょうた)(京都造形芸術大学非常勤講師、日本学術振興会特別研究員)
『復興文化論 ―― 日本的創造の系譜』(青土社)
『復興文化論――日本的創造の系譜』は、古代から現代に到るまでの日本の文学史を、「復興」というカテゴリから再構成しようとした本である。今日の日本では「復興」という言葉はありふれている一方で、《思想問題としての復興》という人文的な発想法は目立たない。そこで、日本文学がいかに復興(ないしそれに先立つ滅亡)を感受性の構造のなかに組み込んできたかを思想化・概念化することが、この本の狙いとなった。
とはいえ、「復興」の運動がときに危険なものに転化し得るのも確かである。現に、シンボリックな全体性を性急に復興しようとすることは、悪しきイデオロギー的諸効果をもたらしかねない。だからこそ、私はたんに日本文学の仕事ぶりを記述するだけではなく、その構造的な「盲点」を浮上させることも心がけた。その際に、主に中国との比較を交えながら、日本文学の性能(何が書けて、何が書けないのか?)を考察したあたりが、この本の多少なりともユニークな部分ではあるだろう。何にせよ、文明の復興とはいわば「不調和な調和」 ―― ちょうどシェイクスピア劇の結末のような ―― をもたらす創造的作業なのであり、そのプロセスには必ず不協和音や亀裂が伴われる。この文明の軋みに対して鋭敏であれ、というのが『復興文化論』に込めた一つのメッセージであった。
むろん、文芸批評であれ文明批評であれ、ジャンルの衰退期に入っていることは否定しがたい。残念ながら、この大きな流れが変わることはないだろう(なので、賞を頂いたからと言って、無邪気に欣喜雀躍というわけにもいかない)。にもかかわらず、私は、文学研究・文芸批評がやり残した課題はまだたくさんあるという信念を捨てたことはない。自らの潜在性を使い尽くさないまま、だんだんと衰弱しつつある老人的なジャンル――、この黄昏の領域にあっても、未来に送り届けるべき価値を作ることは十分可能なのである(本書がその仕事を首尾よく達成できたかと言えば、多少心細いところもあるけれども)。
結局のところ、ひとに一冊の本を書かせるのは飢餓感である。しかし、近年の人文系の領域では、欠乏に対する苛立ちは随分と減ってしまったように思う。哲学者のカントは、不在のものを現出させる能力として「想像力」(構想力)を定義した。この意味での想像力がなくなれば、文芸にせよ人文学にせよ、その生命の輝きは失われる。出来栄えはともかく、私がやろうとしたのは想像力の仕事を「復興」することであった。今後も私はその仕事を続けていくだろう。最後に、このいささか無鉄砲な本を評価して下さった方々に感謝申し上げる。
本田 晃子(ほんだ あきこ)(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター共同研究員)
『天体建築論 ―― レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会)
この度は私のような駆け出しの研究者にこのような栄誉ある賞を授けていただき、ありがとうございました。青天の霹靂のような受賞に驚くとともに、賞の重みに身の引き締まる思いです。
本書は私が修士時代から追い続けてきた建築家イワン・レオニドフに対する考察の、ひとつの集成になります。一時はロシア・アヴァンギャルド建築の寵児として広くロシア国内外にその名を知られながら、しかし間もなく弾圧の対象となり、実現するあてもなく設計図を描き続けたレオニドフ。もちろん彼の作品が建てられなかった原因を、政治的・経済的・技術的制約に帰すことは容易です。けれども本書は、建築とは大地の上に建つものである、という前提の自明性に疑義を呈するところから出発しました。
十月革命という「大地の逆立ち」後の世界、旧秩序の束縛から解放された世界において、ソヴィエト建築家たちはいかに設計すべきか。そこでレオニドフは、航空写真や天体写真などを参照し、あたかも大地を無重力空間に漂う見知らぬ惑星のように眺め、交通や通信といった非場所的かつ非実体的な運動の網の目からなる都市を描き出していきます。大地へのノスタルジーを捨て、意識的にこの新しい無重力世界に住まうこと ―― レオニドフの建築イメージは単なる一設計図であることを超えて、人びとの意識の中にこのような新しい世界(観)を建設することを目指すものであったといえるのです。
しかしながら彼の設計思想は、1930年代になると他の建築流派とともに社会主義リアリズムという「唯一の」「正当な」建築スタイルによって圧殺され、レオニドフの名は、まさにオーウェルの小説『1984年』の世界のように、未だ彼が生きているうちから人為的に忘れ去られていきました。本書では、現在まで続くそのような忘却の力に抗してひとりの建築家の創作の履歴をたどり直すのみならず、メディア論や情報技術といった新たな観点からレオニドフの建築思想の可能性と問題点を再考察することを試みました。
近年人文学研究においてもしばしば功利性が求められるなかで、紙上建築という一種の建築の自己否定の形式をめぐる本研究を評価していただいたことは、思いがけない喜びです。今後の研究でも、イメージとしての建築の力に注目し、これまで大文字の建築に対して副次的存在とみなされてきたマスメディア上の建築・都市表象が、20世紀の人びとの建築経験、空間概念をどのように規定してきたのかを論じていきたいと思います。最後になりましたが、これまで私と私の研究を支えて下さった周囲の皆さま、サントリー文化財団および選考委員の皆さまに、あらためて厚く御礼申し上げます。
以上
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